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四人で立つ

「できないほうへ丸をつけていいんですよ」
栗原主任がそう言ったので、私は、まだやってもいないでしょう、と笑った。昼までに提出する研修の用紙には、達成、未達成の二つが並んでいた。私はボールペンの先で達成の丸を小さくなぞり、それから慌てて手を引いた。主任に見られたかもしれなかった。

勤めていた包装資材の会社が、隣の県の会社と一緒になった年だった。私は定年を過ぎた契約社員で、注文の電話を受ける仕事をしていた。若い人たちと同じ研修に呼ばれたのは初めてだった。来年度も残ってもらうためですよ、と部長は言ったが、呼ばれなかった人も何人かいた。その人たちにはどう説明したのか、聞けなかった。

会場は宿泊施設の体育室だった。靴下で上がると床がよく滑った。窓際に椅子があり、足腰に不安のある人は座って見学することになっていた。私も最初はそちらへ行った。すると栗原主任が用紙を持ってきて、座ったままできる課題もありますから、と声を掛けた。
それが親切なのは分かっていた。分かっていても、立ち上がってしまった。

四人で背中を合わせ、腕を組み、同時に立つ。隣の組はすぐ成功した。運動着の男が一人、よろけて床へ手をついたが、皆で笑ってやり直していた。私の組は主任と、新入社員の山路君、三浦さんだった。三浦さんが眼鏡を外し、壁際の窓枠へ置いた。
「割ったら父に怒られるんで」
彼女は笑って言った。自分で買った眼鏡なのに、何か壊すとまずそれを思うのだそうだ。山路君が、うちは母です、と答えた。

講師は腕を無理に引かないことだけ念を押した。見本を一度見せると、別の組の補助へ行った。主任は私に、痛かったら言ってください、と確かめた。
「立てなかったら、私のせいですね」
「誰のせいとか、そういうのじゃないので」
主任はすぐに言った。私が年寄りの冗談を言うと、この人は本気で訂正する。歳を聞いたら、息子より一つ下だった。

一回目は駄目だった。私の踵が前へ滑り、皆が尻餅をついた。山路君が笑うのを堪え、三浦さんは平気な顔で靴下の踵を直した。私だけが、すみません、と言った。
二回目を始める前、主任が、さっきは右が先に上がったから、と三人へ説明した。私を責めないように言っているのが分かって、余計に恥ずかしかった。

「次で最後にしましょう」
私は頷いた。ただ、声を出すときには、今度はいけますよ、と言っていた。

腰を浮かせたところで、背中を押された。
二人の肩ではなく、真ん中だった。背骨に沿って、幅のあるものがぴったり当たった。畳んだ毛布を誰かが差し込んだのかと思った。私は足の裏に力を入れた。それ以上は押さなくても立てた。
三浦さんが小さく声を上げた。四人の腕はまだ組んでいて、全員の膝が伸びていた。

「ほら、できた」
私が言うと、主任は返事をしなかった。山路君が、え、今、と言った。
講師はこちらを見て、いいですね、と手を打った。ほかの組も少し遅れて拍手した。その音が恥ずかしく、私は早く腕をほどきたかった。

ほどけなかった。
腕が絡まったのではない。自分の右の肘を動かすと、主任の左の肘が同じだけ下へ落ちた。そのため二人とも痛くなり、元へ戻した。反対側で三浦さんが、待ってください、と言った。
「山路さん、引いてる?」
「引いてません」
「じゃあ、そっち、緩めて」
「緩めてるんです」

私は肩越しに後ろを見ようとした。主任の横顔が近く、耳の下に汗が溜まっていた。間にあるのは四人の背中だけのはずだった。けれど私の腰へ当たるものは、主任が身じろぎをしても動かなかった。
上のほうで、服の縫い目が切れる音がした。

講師が来た。早くほどけばいいですよ、と笑ってから、誰も笑わないので口を閉じた。
「どこが痛いですか」
「私の腕じゃなくて」
三浦さんが言いかけ、息を呑んだ。私は自分の足元を見た。右足と左足。その奥に山路君の青い靴下が一足見えた。両足を揃えてはいなかった。私の踵と山路君の踵の間から、薄い灰色のものが出ていた。

裸足の踵だった。小さくはない。乾いた皮が幾筋も割れ、床へ押しつけられた縁だけ白くなっていた。
私は自分の足を少しずらした。踵はついてこなかった。山路君に足を動かせるか聞くと、動かせます、と答えた。青い靴下が二つとも見える位置へ出た。灰色の踵は残った。

「真ん中、誰かいますか」
三浦さんの声は妙に丁寧だった。
「いませんよ」
講師が答えた。四人のまわりを一周し、もう一度、いません、と言った。最初の返事とは違う声だった。
講師は床に膝をついた。私の脚の間へ顔を寄せかけて、床を押し、後ろへ下がった。
「いったん、座りましょう」

主任が頷いた。私たちは膝を曲げた。
背中から、強く押し戻された。
四人とも同時に元の姿勢へ戻った。三浦さんが、痛い、と言った。主任が講師へ向かって、何か挟まっています、と訴えた。講師は私たちの肩の隙間を見た。その目の高さからは、床が見えるはずだった。

「タオルとかではないですか」
そう言いながら手を入れ、講師は指を引っ込めた。爪に、白い粉がついていた。体育室で使うものかと思ったが、本人は指を揃えたまま見つめていた。
「人の背中です」
三浦さんが言った。
「私にも背中です。前じゃない」
主任が、自分もだ、と答えた。

私へ当たっているものにも、縦に一本、浅い窪みがあった。さっきから服越しに感じていた。背骨と、その両側の肉。自分が背中を反らせると、相手も同じように反った。頭は見えなかった。私たちの頭より低いのかもしれない。
四方へ背中を向ける人間などいない。それを口にしたら、みんなが手を離してしまうと思った。

「支えますから、一人ずつ」
講師が主任の肩を持った。主任は、駄目です、と言った。
「私が抜けたら、この人たちが」
何がどうなるのかは言わなかった。私の左の肘が、ゆっくり持ち上がり始めていた。私は引っ張っていなかった。三浦さんの右腕も同じ高さへ上がった。肘の内側に、もう一つの肘が沿っていた。

「もう、できたんですけど」
山路君が言った。講師に話しているのではなかった。
「立てました。だから、終わりです」
返事のように、山路君の後ろで、何かが大きく膨らんだ。薄い研修用のシャツが、胸の前へ引かれた。首の穴が顎に当たり、彼は喋れなくなった。
主任が、首を、と講師へ叫んだ。講師はシャツの襟を両手で引き下げた。

私は、さっき主任に言われた言葉を思い出していた。できないほうへ丸をつけていい。その時に座っていれば、三人はほかの人と組めた。私は見学して帰れた。来年、会社にいられなくなったとしても、それはこの体操のせいではなかったはずだ。
「私が重かったんでしょう」
口に出すと、主任が振り向いた。
「そういう話をしてるんじゃない」
初めて強い声だった。私は黙った。言い訳を待っていたのは私だけだった。

三浦さんが泣き始めた。嗚咽ではなく、鼻を啜る音が短く続いた。
「もう、丸なんか何でもいいから」
「うん」
主任が答えた。
「私、誰とも組んでないことにして」
「うん。やめよう」
主任はそう答えてから、私を見た。初めて私に、答えを待つ顔を向けた。

私は講師に言った。
「出来ませんでした、と書いてください」
言っても何も変わらなかった。背中は温かいままだった。講師は床の用紙を拾うこともせず、山路君の襟を引いていた。
主任が、私たちへ、腕をほどかなくていい、と言った。立つときみたいに、一緒に座る。失敗してもいい。倒れても、誰も引っ張らない。

今度は掛け声を待たなかった。三浦さんが先に膝を曲げ、主任が下がった。私は遅れたが、踏ん張るのをやめた。床が近づいたところで、内側の膝が私の腰を突いた。骨が折れるかと思った。山路君が何か叫び、四人がばらばらのほうへ倒れた。
手のひらを床へついた。腕はほどけていた。

私はそのまま這って、壁際の椅子へ行った。座面に手を掛けると、主任が反対側を押さえてくれた。三浦さんは床に座り、山路君はその隣で襟を伸ばしていた。講師は近づいてこなかった。

四人が座っていたところに、まだ膝が立っていた。
人の脚を横から見た形だった。膝から上は私の胸くらいまであって、そこで四つに浅く分かれていた。どれも背中に見えた。立ち上がったというには低く、座っているというには踵が床を強く踏んでいた。
私は椅子に腰を下ろさなかった。少しでも膝を緩めると、真ん中の灰色の膝が伸びた。

三浦さんが立ち上がり、眼鏡を探しに行った。窓枠を手で撫で、見つけると両手で掛けた。よく見えるようになった顔で、こちらを見た。
「もう一回、は、しませんよね」
私は、しません、と答えた。
床の真ん中で、背中が一つだけ、私のほうへ寄った。

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