空に拭き筋が付いていた。
茂木は、最初、それを自分が清掃したガラスの跡だと思った。青空に細い半円が幾つも重なり、窓の端で途切れていた。洗剤が乾く前に取り切れなかった時の、あの白い筋だった。ゴンドラの隣で働く行田へ声を掛けた。
「上、残した?」
行田は顔を上げた。
「まだ触ってませんよ」
茂木は自分の手元を見た。今拭いているのは十五階の窓で、上の階は午前のうちに終えた。やり直すなら、もう一度上へ戻らなければならない。彼はガラスへ水を掛けた。白い筋は消えなかった。ガラスの汚れではなかった。
ビルの向こうの空そのものに、筋が付いていた。窓のないところへ身体を少し寄せても、同じ場所に見えた。雲とも飛行機雲とも違う。長い棒の先に雑巾を付け、大きく腕を回して拭いたような跡だった。行田も見ていた。
「何ですか、あれ」
茂木は答えず、上へ戻る操作をした。
高い場所で分からないものを見た時には、手を止めて足場へ戻る。昔、先輩に教えられたことだった。長く続けてきた仕事だが、慣れたから何でも判断できるとは思っていなかった。ゴンドラが三十センチほど上がり、止まった。故障音はしなかった。
スイッチを離しても、押し直しても動かなかった。行田が携帯を取り出した。画面が点かなかった。茂木は通りを見下ろした。車が止まっていた。信号待ちの列ではなかった。交差点を曲がる途中のバスも、歩道を走る自転車も、同じところにいた。自転車の前輪が、段差から浮いていた。
鳩が一羽、目の前にいた。翅を広げ、嘴を少し開いていた。羽ばたきの途中の形だった。茂木が手を伸ばすと、指が届きそうな距離だった。風が止んでいた。音も消えた。行田の呼吸だけが聞こえた。茂木は彼の肩を掴んだ。
「動くな」
言ってから、自分も手すりを強く握った。
空の拭き筋が、横へ動いた。白い半円の端に、濃い灰色の線が現れた。その線は、空の上から地面まで続いていた。窓枠に見えた。空全体が、一枚の窓だった。茂木は、その大きさを考えないようにした。仕事で使うガラスと同じように見ようとした。表面に汚れがあり、向こうに何かがある。それだけなら、まだ目で追えた。
青い部分が、上から拭き取られた。長い、白いものが通った。それは雲ではなかった。平たい面で、空の表面を押していた。端に、柔らかな襞があった。雑巾を巻いた指だった。指が通ると、青空が消えた。向こうは、広い部屋だった。灰色の塔が幾つも並び、塔の間を、透明な管が繋いでいた。光は上からではなく、床に近いところから出ていた。
見たことのない建物だった。建物だと思ったが、部屋の中に立つ家具のようにも見えた。遠近が合わず、目を動かすと胃が縮んだ。
行田が吐いた。吐いたものは、ゴンドラの床へ落ちなかった。口から離れたところで止まった。茂木は行田の顔を横へ向けた。詰まらせないようにすることしか考えられなかった。行田は泣いていた。まだ二十四歳だった。来月、資格試験を受けると言っていた。茂木は、試験の勉強より道具の手入れを覚えろ、と朝に言ったばかりだった。
「見なくていい」
茂木はそう言った。自分は見続けた。青空の向こうを、何かが歩いていた。脚が三本あった。一本が床に着くと、ほかの二本が大きく揺れた。胴の真ん中に、浅い皿のようなものを抱えていた。皿の中には、町があった。ビルや道が、ひどく小さく並んでいた。
茂木は、自分たちのいるビルを探さなかった。探して見つけたら、それだけで身体が動かなくなると思った。大きなものは、皿を塔の横へ置いた。その場所に、似た皿が何段も並んでいた。明るい町も、暗い町も、雪のような白いものに覆われた町もあった。
一つの皿の中で、赤い火が広がっていた。大きなものは、そこへ指を差し入れた。火が消えた。どこかの町では、それを雨だと呼ぶのかもしれなかった。茂木は考えるのをやめた。
窓の内側で、人が動いた。清掃しているビルの十五階だった。小さな物置のドアが開き、白髪の管理人が顔を出した。三宅という人だった。普段は一階の管理室にいる。なぜ十五階にいるのか、茂木には分からなかった。三宅は窓を指した。
そこだけ、内側へ細く開く小窓が付いていた。事前の打ち合わせでは、作業中には開けないと確認してあった。三宅は鍵を回した。小窓を押し開け、二人を呼んだ。声はほとんど聞こえなかった。口の動きと手招きで分かった。入れる幅ではなかった。
茂木が首を振ると、三宅は小窓の枠を掴んだ。枠が、紙のように曲がった。三宅の腕の力で曲がったのではなかった。窓の周りの壁が、内側へ柔らかく折れた。茂木は行田を先に押した。行田の肩が入った。三宅が両脇を掴んで引き込んだ。
茂木も続いた。足を床に着けた時、ひどく冷たかった。靴底を通して、冷たさが骨へ届いた。三宅が小窓を閉めた。枠は普通の金属へ戻っていた。
三人は物置へ入った。そこには掃除道具も箱もなかった。床に、丸い石の縁があった。井戸に見えた。十五階の物置の床に、浅い石の穴がある。底は見えた。水はなく、黒い埃が溜まっていた。茂木は、なぜここに、と聞きかけた。三宅が、下を見るな、と言った。
彼自身は、穴のほうを向いて座った。
「窓から、離れて」
茂木と行田は壁際へ寄った。行田の唇が青くなっていた。茂木は自分の上着を脱いで渡した。三宅は目を閉じていた。茂木が礼を言うと、片手を上げた。
「ここだけ、止まらないんです」
「知ってたんですか」
三宅は、時々、と答えた。
若い頃、この建物の夜勤で、同じように街が止まったのだと言った。その時は何が起きたのか分からず、階段を逃げ上がった。動けたのは自分だけだった。十五階のこの部屋に入ると、汗が冷えた。部屋の外で、何かが床を拭く音がした。
「出ていった人もいました」
三宅はそれだけ言った。
茂木は、どこへ、と聞けなかった。
井戸の底で、埃が動いた。丸い穴の向こうに、顔が見えた。人の顔だった。上から覗き込んでいた。こちらが井戸を覗いているはずなのに、向こうの人が上にいるように見えた。若い男だった。作業服を着ていた。茂木と目が合うと、男は口を開いた。
三宅が穴の上へ板を載せた。声が途切れた。
「それも、見ないで」
茂木は三宅を見た。助けてくれた人だと思った。だが三宅が何を見せず、何を守っているのか、茂木には分からなかった。部屋の外で、長いものを引きずる音がした。窓を拭く音だった。
ゴムの縁で水を切る時の、柔らかい、長い音。茂木は仕事で毎日聞いていた。その音が、壁の向こうから天井へ移った。行田が耳を塞いだ。三宅は床の板を両手で押さえた。茂木は彼の隣へ座り、同じように板を押さえた。下から、人が叩いた。
何人もいた。腕の力は、普通の人間の強さだった。助けて、と聞こえた気がした。茂木は板を上げそうになった。三宅は首を振った。
「開けたら、ここも外になる」
茂木は歯を食いしばった。板の下の声を聞きながら、押さえ続けた。
空を拭く音が止んだ。次に、雨の音がした。窓へ水が当たる、細かな音だった。三宅が顔を上げた。
「戻りました」
立ち上がるまで、茂木には時間が掛かった。物置のドアを開けると、廊下の向こうで人が話していた。会議室から笑い声がした。
窓の外は、普通の曇り空だった。ゴンドラは十五階の前に停まっていた。床に、行田が吐いた跡があった。
茂木はその日の作業を中止した。会社には設備の不具合と体調不良を伝えた。嘘ではなかったが、何も伝わっていないことも分かっていた。行田は一週間後に退職した。茂木は引き止めなかった。会社の机に残った試験の参考書を、駅まで届けた。行田は受け取らず、捨ててください、と言った。
「下から、声がしましたよね」
別れ際に聞かれた。茂木は頷いた。行田は、それ以上言わなかった。三宅も、その秋に管理人を辞めた。茂木は連絡先を聞いていたので、一度電話をした。井戸のような穴は、どうなったのか。三宅はしばらく黙り、板を留めてもらいました、と答えた。
「中にいた人は」
茂木が聞くと、三宅は、分かりません、と言った。二人とも、まだ板を押さえているような声だった。
茂木は窓清掃の仕事を続けている。ただ、空を鏡のように映す建物では、上を見る前に、足元の人や車が動いていることを確かめる。青い空に白い雲が一つもない日は、仕事がしやすい。以前はそう思っていた。今は、拭き残しの一つくらいあってほしいと思う。あちら側で誰かが手を抜いている。その程度の隙間がなければ、こちらから逃げ込める場所も残らない気がする。
道具を片付ける時、茂木はいつも、拭き上げた窓の端へ細い水の線を一本残す。
誰のためなのか、自分でも分からないまま残している。


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