十五万円でいい、と私は言った。
父は茶を飲んでから、十五万円も、だろうと訂正した。昔からそういう人だった。金額より先に私の言い方を直す。その時点で断られたも同然なのだが、引き下がれるなら平日の昼間に実家まで来ていない。
勤めを辞めたことは、母にだけ話していた。次が決まるまで内緒にしておいてくれと言い、四か月経った。母から借りた金も尽きていた。父には、会社の都合で給料が遅れていると説明した。
「どこの会社だ」
「前に言っただろ」
「辞めたんじゃなかったのか」
私は母を見た。母は流しでほうれん草を洗っていた。水を止めず、背中のままで首を少し振った。話していない、という意味にも、もう嘘をつくな、という意味にも取れた。
父は、財布を忘れたと言って座敷へ行った。私に貸すためなのか、午後の買い物へ出るためなのか分からなかった。財布はいつもズボンの尻のポケットに入れる。家の中でも持って歩く人だから、取りに行くというのが珍しかった。
母が水を止めた。
「今日、帰るでしょう」
「金、借りられたら」
「泊まらないで」
言い終わる前に座敷の戸が開き、父が戻ってきた。紺のカーディガンを着ていた。椅子に座り、私のほうへ封筒を押した。
「これで足りるか」
十万円あった。私は中を見たまま、あと五万と言った。
座敷で咳がした。
父は私の手から封筒を取った。来たばかりの時と同じ、袖口の伸びた茶色のセーターを着ていた。カーディガンの父は椅子に座っている。その右隣に、茶色の父が立っていた。
「お前、何してる」
立っている父が言った。
私は返事をしなかった。二人が似ていると思ったのではない。同じ鼻の脇に同じ小さな傷があった。立っている父の膝が、座っている父の肘に当たった。どちらも場所を譲らなかった。
茶色の父が封筒を持ったまま、私に席を詰めろと言った。私は椅子から立ち、壁に寄った。父はそこへ座った。二人が向かい合った。カーディガンの父は、机の角についた醤油の跡を爪で擦っていた。
「何これ」
母に訊いた。母はざるを置き、濡れた手を布巾で拭いた。
「お父さんでしょう」
「二人いる」
「見れば分かるよ」
声がきつかった。私は黙った。
茶色の父は封筒から金を出し、枚数を数えた。カーディガンの父が手を伸ばすと、手首を押さえた。
「俺の金に触るな」
「この子にやるんだ」
「俺の金だ」
本当に喧嘩をしていた。私たちをからかっているようには見えなかった。カーディガンの父の腕に、爪の白い跡がついた。
父に兄弟はいない。双子を隠していたにしても、そんな隠し方はしない。私は母へ、小さい声で、いつから、と訊いた。
「先月」
「何で言わない」
「来ないでしょう。言ったら」
母は布巾を二つ折りにして流しの縁へ掛けた。その動作を終えてから、私を見た。
「あんた、仕事は?」
今そんなことを訊かれても、と口に出しかけた。母は私の返事を待たず、二人の父の間へ手を出した。十万円を一度に取って、封筒へ戻した。
茶色の父が母を睨んだ。
「お前には訊いてない」
「誰も私には訊かないのよ」
母は封筒をエプロンのポケットへ入れた。そのまま台所を出ようとしたが、カーディガンの父が立ち上がって戸の前へ回った。逃がさないというより、廊下へ出るのをためらっている母の肩を支えるような格好だった。
廊下の奥で、足を引きずる音がした。
三人目はパジャマだった。父は昼間に寝間着で出てこない。熱があっても顔を洗って着替える。それだけで、私にはその父が一番おかしく見えた。
パジャマの父は二人を見比べず、まっすぐ私を見た。
「車か」
昔、私が帰ってくると必ず訊いたことだった。
「電車」
「車なら、ちょっと乗せてくれ」
「電車だって」
聞こえていないのか、父は私の上着のポケットを見た。鍵を探していた。私は両手を入れて、何もないと示した。
三人目の父は、右足を庇っていた。踵に血がつき、廊下にも小さな跡を残してきていた。
「怪我してる」
母に言うと、母は知っていると答えた。台所にあった救急箱を持ち上げたが、パジャマの父は手を振った。
「あとでいい」
母は箱を元の場所へ戻した。
私はその短いやり取りを見て、なぜか胸が悪くなった。誰も大きな声を出していない。三人いることも、床に血がついていることも、昔からこの家にある不便のように扱われていた。
茶色の父が私に会社の名をもう一度訊いた。
「今、働いてない」
言うと、すぐに頷いた。
「知ってる」
「じゃあ何で訊くんだ」
「お前が言うかと思って」
怒鳴り合いになりかけた。カーディガンの父が私の肩へ手を置き、やめとけ、と言った。その父には礼を言いたくなった。
私は、母に病院へ相談したか訊いた。母は私の顔をじっと見た。
「どのお父さんを連れて行くの」
「全員」
「どうやって」
そういう現実的な返しをされると、私が適当なことを言っているようになる。どうやってでも、と言おうとした時、パジャマの父が私の袖を引いた。
「こいつらの前で、余計なことを言うな」
父は自分の腹を押さえていた。パジャマのボタンが一つ外れ、布の間に黒ずんだ痣が見えた。茶色の父が椅子から立つと、パジャマの父は私の後ろへ下がった。その動きだけは速かった。
「殴ったのか」
茶色の父に訊いた。
「盗るからだ」
「何を」
「俺の財布」
私の目の前で封筒を取り返した時と、同じ声だった。
誰が最初からいた父か、訊けば答えがあると思った。母が知っているか、何か目印があるか。そんなことを考えている間に、三人が同時にこちらを向いた。
私は結局、訊かなかった。
三人とも答えを待っている顔ではなかった。私が次に誰を見て、何と呼ぶかを待っていた。
カーディガンの父が私の手を取り、台所の外へ引いた。
「まあ、こっちへ来い」
よく知っている掌だった。子供の頃、踏切で立ち止まっていると、こうやって手首に近いところを持たれた。私はついていった。背後で茶色の父が怒鳴ったが、母が何か言って止めた。
廊下の突き当たりに、小さな納戸があった。カーディガンの父はそこへ入ると、棚から灰色の金庫を下ろした。
「これはお母さんには内緒な」
父は笑った。
私は、この父は違うと思った。私が知っている父なら、母に内緒と言う前に、いつ返せるのかを訊く。それでも私は、開いた金庫から目を離せなかった。封筒が何通も入っていた。水道の修理代、車検、と父の字で書いてあった。
父は一番厚い封筒を取り、私に渡した。
「持ってけ」
中にいくらあるかは、数えなかった。十五万円より多いことだけ分かった。私は受け取った。そうしてから、お父さんが三人いるのはどうしてか、と訊いた。
父は笑わなくなった。
「増えてない」
納戸の戸口へ、パジャマの父が立っていた。
「減らないんだよ」
パジャマの父が金庫へ手を伸ばした。カーディガンの父はその腕を掴み、棚へ押しつけた。強い音がした。私が間に入るより先に、もう一度、同じ音がした。
パジャマの父の頬に血がにじんだ。カーディガンの父は、相手の顔を棚板の角へ擦りつけていた。表情を変えず、片手で肩を押さえていた。
「やめろ」
私が腕に触れると、すぐ離した。
「ああ、ごめん」
その言い方まで、父だった。
パジャマの父は床にしゃがみ、顔を押さえた。茶色の父が廊下を来た。助けるのかと思ったら、金庫を引き寄せ、封筒を確かめ始めた。
「いくら持ってる」
私に訊いた。
私は、自分の受け取った封筒を上着の内側へ入れていた。訊かれて初めて、そのことに気づいた。
「知らない」
そう答えた。
茶色の父が私へ手を伸ばすと、カーディガンの父が横から押した。父は廊下へよろめいた。パジャマの父が立ち上がり、逃げるように台所へ行った。その父を追おうとする茶色の父を、カーディガンの父が止めた。狭い廊下で、二人の男が肩をぶつけ合った。
母は玄関にいた。靴を履き、買い物袋を持っていた。
「ちょっと出るから」
私は頷いた。どこへとも、一緒に行こうとも言わなかった。母は私の上着の膨らみを見た。
「借りられたんだ」
私は答えなかった。
母はいつもの鍵を取り、出ていった。
台所で茶碗が割れた。私は玄関へ下がった。廊下の向こうに三人ともいる。誰かが私を呼び、誰かが黙れと怒鳴った。
子供の頃から、父同士の喧嘩を止める役などしたことがない。当たり前なのに、それが自分には無理だという理由になると思った。
靴を履いていると、パジャマの父が台所から出てきた。鼻の下が赤かった。
「乗せてくれ」
私は電車だとは言わなかった。戸を開け、外へ出た。父が近づいてくる前に、戸を引いた。
封筒の角が胸に当たり、痛かった。


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