よく眠れた朝を、一度でいいから思い出したかった。
仕事を家へ持ち帰るのをやめ、寝る前には携帯も見ないようにした。眠る時間は増えたのに、朝は体が重かった。夢の中でまで何かをしていたような疲れが残った。
頭を撫でられて目を覚ましたのは、六月の終わりだった。
誰かが枕元にいると思った。髪の流れに沿って、指がゆっくり動いた。耳の上で少し止まり、こめかみへ戻る。気持ちがよくて、すぐには目を開けなかった。
一人で住んでいることを思い出し、布団を跳ねた。
自分の左手が、頭の上にあった。
寝相でそんな格好になり、手が痺れていたのだと思った。腕を下ろすと、普通に動いた。握っても開いても痛くない。左の掌に、枕の縫い目の跡がついていた。
台所で水を飲んだ。時計は四時を少し過ぎていた。戻って寝直すと、今度は目覚ましが鳴るまで起きなかった。
次の夜も同じことがあった。撫でる指の順番まで同じだった。私は目を閉じたまま、左手を動かそうとした。
動かなかった。
だが、頭の上では指が動き続けていた。自分で動かせないのに、何を触っているかは分かった。汗で湿った髪、少し熱い額、耳の端。自分の体を触る時より、触られているほうの感覚が薄かった。
右手で左の手首を掴んだ。指が止まった。腕を引くと普通についてきた。目を開け、肘から肩まで見た。ちゃんと自分の腕だった。
私はしばらく両手を腹へ載せていた。もう一度眠ったのは、空が明るくなってからだった。
睡眠のことで病院へ相談した。疲れや生活の時間を訊かれ、しばらく記録をつけることになった。夜中に自分の手が動くことも話したが、その場で理由が分かるわけではなかった。
私は寝た時間と起きた時間を書いた。手のことは別の欄へ、小さく書いた。眠っている間のことを正確に書くのは難しかった。目を覚ましたのか、目を覚ました夢を見たのか、後から区別がつかなくなった。
それでも、朝の暮らしには小さな違いが増えた。
前の晩に流しへ置いたコップが、伏せてあった。寝る時には閉じていたカーテンが、指二本分ほど開いていた。机にあった鋏が、棚の高いところへ移っていた。
私が片付けて忘れただけかもしれない。コップくらい洗ったほうがいいし、鋏を出したままにするのもよくない。責められる理由のない変化ばかりだった。
髪を切りに行った日、いつもの美容師が、今日は揃えるだけですか、と訊いた。
「少し短くしたいんです」
「前、長くするっておっしゃってたので」
前回の会話は覚えていなかった。美容師は、耳の上のあたりを残したいと頼まれたのだと言った。夜、手が長く触っていた場所だった。
鏡の自分は、眠そうな顔をしていた。美容師が鋏を近づけると、左の肩が小さく上がった。私は肩を下げ、任せます、と言った。
帰って鏡を見ると、耳がよく見えるようになっていた。清潔になったと思った。その夜、手はいつものところで止まった。
撫でる場所を探していた。
指の腹が耳の上を何度も通り、短い髪を寝かせようとした。私は目を開けた。左の親指が、こめかみを強く押した。痛いほどではなかった。眠る子供を起こさないようにする、慎重な押さえ方だった。
私は友人の由香へ連絡した。以前付き合っていた人で、別れてからも時々話した。こんな話をできる相手は少なかった。寝ぼけているだけだろうと笑ってくれれば、それでもよかった。
由香は笑わなかった。
「一晩、誰かに見てもらったら」
私が頼む前に、彼女が来てくれることになった。寝室の扉を開け、由香は隣の居間で映画を見ることにした。何かあれば起こしてほしいと、私は頼んだ。
その夜、私は何度も目を覚ました。居間の画面の青い光が天井に映っていた。由香が飲み物を置く音を聞くと安心し、また眠った。
四時前、手が動き始めた。
私は由香を呼ぼうとした。声は出たと思った。彼女が扉まで来る足音がした。
「起きてる?」
私は、起きてる、と答えた。左手はまだ頭を撫でていた。由香はベッドの横へ来て、私の顔を覗いた。
彼女は少し困った顔をし、手を引いて居間へ戻った。
私はもう一度呼んだ。自分では大きな声を出したつもりだった。由香は、うん、大丈夫、と返した。映画の音が少し小さくなった。私は右手を動かし、ベッドの横の床を叩いた。彼女が戻った時には、左手は腹の上にあった。
私は起き上がり、どうして起こしてくれなかったのか訊いた。
由香は驚いた。
「今、起きたんじゃないの」
私が呼んだ時、目は閉じていたという。彼女が額へ触れようとすると、左手が上がって、その手を押さえた。由香には、私が普通に寝言を言ったように聞こえたらしかった。
「何て」
訊くと、彼女は言いづらそうにした。
「起こさないでって」
誰を、と訊きかけ、やめた。由香は私以外に眠っている人を見ていなかった。
朝になるまで二人で起きていた。私はいつも通りに話せたし、両手も動かせた。由香が朝食を作ってくれた。私が熱い皿を持とうとすると、左手が先に布巾へ伸びた。普段もする動作だった。私はその小さなことまで怖がり、皿を落としそうになった。
「全部疑ったら、何もできなくなるよ」
由香に言われ、頷いた。自分の体をよその人の体として扱い始めている気がした。
由香が帰ったあと、寝室を片付けた。枕の下に、折ったハンカチがあった。額を拭くために使っていた、青いものだった。湿っていた。眠る前には洗面所へ置いた覚えがあったが、夜中に持ってきたのかもしれなかった。
広げると、中央が丸く濡れていた。由香に、夜、額を拭いてくれたのかと訊いた。ハンカチには触っていないと返事が来た。彼女が見に来た時、私の手にも何もなかったという。
「持ってなかったよ。あの時は」
洗面所から誰が運んだのか、どの時に使ったのか。私はその夜のことを順に思い出そうとして、由香の足音のところで先が分からなくなった。
ハンカチは洗わず、洗面台の端へ置いた。
しばらく、夜を遅くまで起きて過ごした。眠らないために本を読むのは、以前、仕事をしていた時よりつらかった。明け方にうとうとすると、左手が頭へ向かった。途中で腕を下ろし、立って水を飲んだ。それでも眠気はなくならなかった。
由香に電話すると、体を休めることはやめないで、と言われた。私は診察の予約を取り直した。次は、由香にも一緒に話してもらうつもりだった。
予約の前夜、寝る前から左手が動いた。
歯を磨いていた時だった。右手で歯ブラシを持ち、鏡を見ていた。左手が脇腹へ触れ、服の皺をゆっくり伸ばした。私は見ていた。動かしたつもりはなかった。
手はそのまま肩へ上がり、首の後ろを撫でた。疲れた人を労るような動きだった。私は歯ブラシを流しへ置いた。
「やめて」
声に出すと、手は止まった。鏡の自分は、泣く前のような顔をしていた。
私はベッドへ行かず、居間の床へ座った。両手を膝に置き、指先を見ていた。どちらも私が生まれてから使ってきた手だった。傷も爪の形も知っていた。右手で左手を包むと、左の指が力を抜いた。
それまで誰かに世話をされていると思っていた。
その手が疲れているのではないかと、初めて思った。
私は力を緩めた。左の指が、右の掌の中で少し丸まった。
いつの間にか眠っていた。
頭を撫でられて起きた。床に横になり、上着を腹へ掛けていた。左手は、私の髪の中をいつもの順番で動いていた。
私は目を開けたまま、しばらくその動きを受け入れた。眠りたいという気持ちが、怖さより大きかった。指が耳の上へ来ると、私はわずかに頭を傾けた。
撫でやすい向きに。
その瞬間、掌の下で、別の頭が動いた。
髪の根元から、丸いものが小さく身じろぎした。左手には、それを包んだ感触があった。私の頭は床についたままだった。
私は右手で自分の額へ触れた。そこに左手はなかった。
髪の中では、まだ指が動いていた。
声を出そうとすると、左の人差し指が私の唇に当たった。優しく、ほんの少しだけ押した。
その向こうで、寝息がした。
私は朝まで、口を閉じていた。


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