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返却口

あの図書館の返却口は、妙に低いところについていた。子供でも届くようにしたのだろうが、外から本を入れるには、少し腰を曲げる必要があった。中で受ける箱は深く、本は傾斜のついた板を滑って落ちた。薄い本なら軽い音がして、厚い本だと、事務室まで響いた。

私はそこで五年ほど働いた。司書ではなく、貸出や返却を手伝う職員だった。小さな分館で、顔を覚えた利用者も多かった。決まった席に座る人の姿がないと、今日は来ないのかなと思った。名前までは知らない人にも、勝手な親しみを持っていた。

午後の新聞席によく来る男の人がいた。年は六十くらいに見えた。新聞を隅から隅まで読み、時々、椅子に座ったまま眠った。口を少し開け、首を後ろへ倒す寝方だった。
初めて見たときは具合が悪いのかと思い、声をかけた。男の人は驚いて目を開け、眠ってただけです、と笑った。私も謝った。

それからは、眠っていても起こさなかった。ほかの人の迷惑になっていなければ、短い居眠りくらいは見ないふりをしていた。男の人は目を覚ますと時計を見て、新聞を畳み、静かに帰った。

十一月の雨の日だった。男の人がいつもの席で眠っていた。私はその少し前を通り、机の下へ落ちた新聞の広告を拾った。男の人の膝には、茶色い鞄が載っていた。両手で鞄の口を押さえているので、眠りながらも用心しているのだろうと思った。

閉館まで一時間ほどになったとき、若い女性が窓口へ来た。
「あそこの方、起きないんですけど」
私は新聞席を見た。いつもの男の人だった。
「お連れの方ですか」
「違います。物、落としたみたいで」
女性は小さな眼鏡入れを持っていた。私は受け取り、男の人へ声をかけた。

返事がなかった。近くで見ると、口の開き方がいつもと違った。息をしているか分からなかった。責任者を呼び、救急へ連絡した。電話の指示を聞きながら、近くの人にも手を借りて対応した。椅子を動かす音や、誰かが走る音が、いつまでも耳に残った。

男の人は救急車で運ばれた。鞄は一緒に渡したが、眼鏡入れはカウンターに置いたままだった。若い女性の姿もなくなっていた。事情を聞かれるかもしれないから残ってほしかったが、いつ帰ったのか誰も見ていなかった。

閉館後、責任者と出来事を記録した。私が、女性から知らせがあった、と話すと、責任者は顔を上げた。
「女性?」
「眼鏡入れを拾った人です。白い上着の」
責任者は首を傾げた。新聞席へ来たとき、私が女の人に声をかけていたのを見たという。
「倒れた方は、男性ですよ」
私が言うと、責任者は、もちろん、と答えた。
「あなたが一緒にいた女性。あの人を起こしてたんじゃないの?」

私は記録の手を止めた。椅子に座っていた男の人、眼鏡入れを持っていた女性、二人は別だった。女性は立っていた。そこを何度か確かめ合ったが、責任者は、自分は途中からだから、と言った。私もそれ以上は話さなかった。

男の人がどうなったか、家族からの連絡は来なかった。翌朝、眼鏡入れを開けると、中は空だった。持ち主が取りに来たら渡せるよう、日付と場所を書いた紙をつけ、引き出しへ入れた。

三日後、閉館の見回りをしていると、新聞席に女性が座っていた。白い上着だった。あのときの人だと思い、声をかけた。
「あの、先日は」
女性は顔を上げた。違う人だった。ずっと年上で、眼鏡を掛けていた。私が謝ると、もう閉館ですね、と本を閉じた。
自分が気にしすぎているのだと思った。

その晩、最後に事務室の灯りを消そうとしたとき、返却口から本が落ちた。外は雨で、閉館後に返す人もいる。いつもなら翌朝までそのままにするが、私は箱を開けた。
厚い料理の本が一冊入っていた。表紙が少し濡れていたので、布で拭いた。本の間から、紙片が落ちた。

「この人も、お願いします」

細い字で、それだけ書いてあった。折り畳まれた広告の裏だった。私は外へ回った。返却口の前には誰もいなかった。歩道の向こうで傘が一つ動いていたが、追いついて呼び止めるほどのことでもないと思った。
戻ると、引き出しに入れたはずの眼鏡入れが、料理の本の上に載っていた。

責任者はもう帰っていた。私は記憶を辿った。朝、引き出しを開けた。利用者からの電話で、落とし物を探した。そのとき出したのかもしれない。そう考えて、眼鏡入れを戻した。
指に、まだ誰かが持っていたような温かさが残った。

翌日、本の返却処理をしようとすると、貸し出されていなかった。本棚にあるはずの本だった。誰かが手続きをせず持ち出し、返したのかもしれない。珍しくはあるが、ありえないことではなかった。
私は紙片を責任者へ見せた。責任者は、栞代わりでしょう、と言い、捨てるなら個人情報がないか見てね、と返した。

午後、電話が来た。
「返したんですけど」
男の人の声だった。
「本のお名前、分かりますか」
「いや、人」
私は受話器を持ち直した。
「どういうことでしょうか」
「まだ、そっちにいるでしょう」

電話が切れた。履歴から折り返そうとしたが、番号が出ていなかった。責任者に報告すると、ちょうど自分が電話を使っていた時間だから、それはおかしいと言われた。私は別の子機を持っていた。同じ回線で、外から二本は入らないという。
電話機のことはよく知らない。私は、自分の聞いた言葉だけを紙へ書いた。

その日の閉館間際、新聞席のほうで鞄の金具が鳴った。見に行くと椅子は空で、机の下に、茶色い鞄があった。
あの男の人の物だった。少なくとも、同じ色、同じ形に見えた。持ち手の一方に、黒いテープを巻いていた。救急の人へ渡すとき、その部分を持ったことを覚えていた。

私は鞄を動かさず、責任者を呼んだ。二人で中を確かめた。古い財布と、家の鍵と、くしゃくしゃのハンカチが入っていた。身元を確かめられそうな物があったので、警察へ届けることになった。
中を見ているあいだ、鞄の底が何度か動いた。責任者は気づかなかった。私は机を押さえていた。自分の膝が震えて揺らしているのだと思いたかった。

家族が来たのは、その二日後だった。男の人は病院で亡くなっていた。若い女性と、中年の女性が二人で来て、世話になったと頭を下げた。
若いほうは、あの日、眼鏡入れを持ってきた人だった。

私は何も言えなかった。彼女は孫だと名乗った。学校を休んで母親と来たという。祖父がここへ通っていたことを、知っていたような、知らなかったような話し方をした。
「お祖父様に、よく似ていらっしゃいますね」
そんなことを言った。顔が似ているかどうか、私には分からなかった。

眼鏡入れを返すと、孫は驚いた。
「これ、私のです」
祖父に借りた鞄へ入れたまま、返すときに取り忘れたらしかった。あの日の男の人は、新聞を読んでいて孫の眼鏡入れを見つけ、机へ出したのかもしれない。
そこまでは、普通の話だった。

孫は眼鏡入れを開け、空なのを確かめた。それから私へ顔を近づけた。
「私、ここに来たこと、あります?」
母親が笑った。小さいころに連れてきたでしょう、と言った。
「違う、最近」
孫は私を見ていた。答えを知っている人を見る目だった。

責任者は、そのとき電話で席を外していた。私は、小さく、あります、と答えた。
孫の顔から表情が消えた。
「お祖父ちゃん、寝てました?」
私はうなずいた。
「私、起こさなかったんです」
彼女は、夢で見たんですけど、と続けた。

夢の中で、祖父は椅子に座っていた。隣の席にも誰かがいて、祖父はその人を抱えていた。重そうだったので、孫が手を貸そうとした。祖父は、もういいから帰れ、と言った。
「顔を見たら、私だったんです」
母親が彼女の肩を抱いた。疲れてるんだよ、と言った。
彼女は首を振らなかった。ただ、眼鏡入れの蓋を閉じた。

私はあの日、自分が誰に声をかけたか思い出そうとした。責任者には、女の人を起こしているように見えた。私は男の人を起こしていた。目の前で運ばれたのは、確かに男の人だった。
どちらかが間違えたと考えなければ、何も書けなくなった。

家族が帰ると、責任者に頼んで、記録をもう一度見せてもらった。白い上着の女性から知らせを受けた、と私の字で書いてあった。その女性は立ち去ったので身元不明、とも書いていた。
私はその行に訂正を入れなかった。

冬になっても、返却口には時々、何かが返ってきた。本のほかに、ハンカチ、片方だけの手袋、古い栞。落とし物を届けた人が入れたのだろうと、皆は言った。どれも、受け皿の中で妙に丁寧に畳まれていた。

一度、返却口の蓋が外からゆっくり開いた。閉館したあとで、私は中の箱を空にしているところだった。薄い明かりの中に、指が見えた。本は持っていなかった。
私は、何かお預かりしますか、と言いそうになった。喉まで出た言葉を飲みこんだ。

指は蓋を押さえたまま、少し動いた。中に手を差しこむのではなく、こちらが何かを渡すのを待っていた。
私は箱から手を抜き、一歩離れた。蓋はしばらく開いていたが、やがて静かに閉まった。
何も落ちる音はしなかった。

その図書館を辞めたのは、契約が終わったからだ。更新を断った理由は、家では通勤が遠いからと言った。嘘ではなかった。
最後の日に新聞席を拭いた。あの男の人が座っていた椅子を引くと、床に眼鏡の片方のつるが落ちていた。新しく落ちたもののように、埃がついていなかった。

拾いかけて、手を止めた。
顔を上げると、向かいの椅子が少しだけ引かれていた。誰もいなかった。私はその椅子を机へ戻し、床の物は責任者に知らせた。自分では持たなかった。

今も本を返すときは、なるべく開いている時間に行く。窓口の人へ渡し、返却できました、と言われるまで待つ。
その一言を聞いてから、自分の鞄と、両手と、足元を確かめる。何を持ってきたのか、何を置いていくのか、分からなくなるのが怖い。

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