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空の巣箱

兄が送ってきた蜂蜜は、蓋を開けると煙の匂いがした。失敗したのかと電話で聞いたら、食べられるから、とだけ言われた。味は普通だった。少し癖があるが、パンにつければ気にならなかった。

あの瓶を最後まで食べたかどうか、妻に聞いたことがある。覚えていないと言われた。食べた物をいちいち覚えているわけがない。その通りなので、僕もそれ以上は聞かなかった。

実家では父と兄が蜂を飼っていた。専業ではなく、畑をやりながら、近所の店に瓶詰めの蜜を置いてもらっていた。僕は手伝いが嫌で、進学を口実に家を出た。父が弱ってからは兄に任せきりだった。電話をかけると、忙しい、と言われたので、ますますかけなくなった。

父が亡くなって二年目に、土地のことで帰った。隣の山林を買った人が、境界を確かめたいと言ってきたのだ。名義はまだ父のままで、相続の手続きも途中だった。僕が来たのは、そのためだった。
兄には、久しぶりだな、と言われた。責める声ではなかったが、返事に困った。

巣箱は半分以下に減っていた。並んでいた場所に四角い跡が残り、草が生えていた。兄は、群れが弱ったり逃げたりするのは仕方がないと言った。僕に説明しても分からないから、簡単に済ませたのだと思った。

家の裏に、一つだけ離して置いた箱があった。白い塗料が剥げ、上に平たい石を載せていた。出入りする蜂は見えなかった。
「あれ、使わないなら片づければ」
僕が言うと、兄は今度な、と答えた。
箱の前には、新しい煉瓦が二つ置いてあった。足場にするには小さすぎた。

夕飯のあと、兄が蜜の瓶を出した。あの煙の匂いのする蜜だった。たくさん採れたのかと聞くと、兄は笑った。
「これだけはな」
「どの箱?」
「裏の」

僕は、蜂がいなかっただろう、と言った。兄は、昼はな、と答えた。冗談にしては面白くなかったので、僕は話を替えた。土地を少し売れば、家の修理くらいはできる。境界の話が済んだら、ついでに考えたらどうか。
兄は瓶の蓋を閉めた。
「お前は、売る話ばっかりだな」

言い返して、久しぶりの夕飯を台無しにしたくなかった。僕は風呂へ入り、父の部屋で寝た。布団を敷く場所だけ畳が新しかった。兄が替えていたことを、そのとき初めて知った。

夜中に、枕元で蜂の羽音がした。布団を頭まで引いたが、音は止まらなかった。部屋の中を飛び回るというより、壁の向こうから一定の高さで聞こえていた。
灯りをつけると音が止まった。
耳を澄ませているうち、隣の兄の部屋で、窓を閉める音がした。

朝、兄に話すと、屋根の隙間に入ったんだろうと言った。どこか塞ごうかと尋ねたが、触らなくていい、と止められた。
「父さんの部屋、どうして畳替えたの」
兄は味噌汁をよそっていた。
「傷んだから」
「そこだけ?」
「そこだけ」

境界の立ち会いは午前中で終わった。午後、僕は裏の巣箱を見た。蓋の石を下ろすと、内側は空だった。巣の板も、蜂も、何もなかった。底に薄い蜜が溜まっていた。
指を入れようとして、やめた。煙の匂いが、瓶より強かった。

兄が帰ってきて、何してる、と言った。僕は蓋を戻した。
「これ、蜜だけ入れてるのか」
「違う」
「じゃあ、どこから」
兄は答えず、石を載せた。ずれを直し、箱の前の煉瓦を足で揃えた。それから僕を見た。
「空だった?」
「空だよ」
兄は少し安心した顔をした。それが嫌だった。

父が使っていた道具を片づけていると、古い帳面が出てきた。蜜をどれだけ採ったか、誰に何本売ったかが書いてあった。裏の箱は数字ではなく、「家」と書かれていた。毎年、その欄だけが埋まっていた。
蜂が弱った年も、ほかの箱から採れなかった年も、同じくらいの量があった。

兄は帳面を取り上げなかった。
「父さんも、知ってたんだな」
僕が言うと、うん、と答えた。
「何なんだよ、これ」
「知らないよ」
兄は初めて苛立った声を出した。
「採れるから、採ったんだよ」

その晩、家の軒先に蜂が集まった。数匹から始まり、やがて雨樋が見えないくらいになった。どこかの群れが来たのかと思った。兄は長い棒を持って出たが、追い払う様子はなかった。玄関の前に立ち、軒を見上げていた。

「箱へ入れるんじゃないの」
僕が聞くと、兄は黙って家の中を見た。
蜂の音に混じって、二階で誰かが歩いていた。僕と兄しかいない家だった。父の部屋は一階で、二階は昔、僕たちの部屋だった。
床を踏む音は、兄の歩き方によく似ていた。踵を少し引きずり、最後の一歩だけ強く踏んだ。

兄は棒を置き、玄関の戸を閉めた。鍵をかけようとして、手が止まった。ポケットを探り、もう片方も探った。
「中に置いた?」
僕が言うと、兄は首を振った。
「向こう」

裏の箱へ行くと、蓋の石が下りていた。兄はしゃがみ、箱の側面を軽く叩いた。木の中で、鍵が鳴った。
家の鍵の束につけた、父の古い鈴だった。僕もよく知っていた。軽い鈴ではなく、鈍い金属の音がする。
兄がもう一度叩くと、鈴がまた鳴った。

箱の中は昼に見た通り空だろうと思った。しかし僕は蓋を開けられなかった。兄は箱の前の煉瓦へ膝をつき、低い声で、返してくれ、と言った。
声は切実だった。蜜を採るために何かを飼っている人の声ではなかった。

家のほうで玄関が開いた。僕は振り向いた。さっき閉めた戸が半分開き、廊下の灯りが庭へ伸びていた。人の姿は見えなかった。
兄が立ち上がり、僕の背中を押した。
「入れ」
「今、誰か」
「いいから」

兄は僕を先に家へ入れ、内側から鍵をかけた。手には鈴のついた鍵があった。いつ取ったのか、僕には見えなかった。
二階の足音は止まっていた。軒の蜂の音も止まっていた。
家の中は暖かく、台所には、夕飯の残りの匂いがした。

兄は流しへ行き、蜜の瓶を棚の奥へしまった。僕は椅子に座って、手が震えなくなるのを待った。
「あれ、家なんだろ」
帳面の文字を思い出して言った。兄は返事をしなかった。
「誰の」
兄は流しの縁を両手で持った。
「お前がいると、分からなくなるんだよ」

僕は、邪魔なら帰る、と言いかけた。そういう意味ではないことが分かったから、やめた。
兄は続けた。
「父さんがいなくなってから、一人だったろ。だから、こっちだけ見てればよかった」
「何を」
「家に、誰かいるかどうか」

父が亡くなったあと、兄は毎晩、家の戸締まりをした。裏の箱も確かめ、石を載せた。それだけのことだったという。蜜があれば採り、売って、壊れた雨樋を直した。畳も替えた。
「誰が買ってたの」
僕が聞くと、兄は、近所の人、と答えた。皆、父のころから同じ蜜を買っていた。

僕は帰りの電車を翌日に変え、兄と同じ部屋で寝た。兄は嫌がらなかった。布団を二つ並べると、子供のころのようだった。昔の話でもすれば眠れるかと思ったが、何も思いつかなかった。

明け方、風で窓が鳴った。兄が起き、雨戸を押さえに行った。僕は布団の中から見ていた。兄が戸の隙間へ手を入れたとき、部屋の灯りが一度暗くなった。
風が入った。
兄は窓の外へ引かれるように、一歩踏み出した。

僕は布団を蹴って追った。窓の向こうは庭ではなかった。もう一つの部屋が見えた。兄がその中に立っていた。裸足で、僕と同じように、窓の縁をつかんでいた。
兄の背後に、布団が一つ敷いてあった。

「こっち」
僕は兄の手首をつかんだ。兄は僕を見たが、すぐには動かなかった。
「一緒に帰ろう」
そう言うと、兄は口を開きかけた。何と言おうとしたかは知らない。僕は両足を畳につけ、体ごと後ろへ倒れた。
兄が部屋へ入ってきた。窓が閉まり、ガラスが鳴った。

兄は僕の上に倒れたまま、長く動かなかった。やがて体を起こし、布団を見た。二つあることを確かめているようだった。
「お前、いつ帰ってきた」
僕は日にちを答えた。兄はうなずき、額を押さえた。

その朝、僕たちは家を出た。兄は蜜の瓶を持っていかなかった。鍵をかけ、裏へ回りかけたが、僕が車の戸を開けると、黙って乗った。
空の巣箱がどうなったか、僕は見ていない。

家はまだ売れていない。買い手がいないのではなく、兄が売ると言わない。僕も急がせていない。月に一度、二人で庭の草を刈る。裏の箱には近づかない。壊そうと話したこともあるが、誰が壊すのかというところで止まった。

兄は今、町の小さな部屋に住んでいる。玄関から部屋の端まで見渡せる間取りを選んだ。僕が泊まるときは、必ず前もって知らせる。急に訪ねることはしない。
朝、帰るときは、玄関で互いの顔を見る。兄が何も言わなくても、僕は名前を呼ぶ。

この春、家へ草刈りに行ったとき、兄が裏庭で立ち止まった。巣箱の前に、新しい煉瓦が二つあった。古いものと並んで、四つになっていた。
兄は僕を見た。
僕も、買っていない、と言った。

その帰り、車の中に煙の匂いがした。兄は窓を開けようとして、途中で手を止めた。僕は何も訊かず、送風を強くした。
後ろの座席に置いた二足の長靴が、カーブで倒れた。兄はすぐに振り返り、二足ともあることを確かめた。それから、前を向いて、小さく僕の名前を呼んだ。

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