母の郵便受けを開けると、眼鏡が曇った。玄関の外に付けた小さな鉄の箱で、湯気の出るものなど入っていない。理恵が眼鏡を外して覗くと、底に広告が二枚と、輪ゴムが一本あった。箱の中からぬるい空気が流れ、彼女の頬へ当たった。
母の志津は、一人になってから手紙を待つようになった。知人との便りではない。通販の知らせや自治会の封筒まで、朝のうちに配達を確かめた。父は亡くなるまで、新聞と郵便物を玄関の棚へ分けて置く人だった。志津はそれを続け、父の眼鏡も棚から動かしていなかった。
理恵は電車で三十分ほどのところに住んでいた。仕事の帰りに寄ると、母は封筒を一つずつ見せた。どれも急ぐものではなかったが、読んでほしいのだと思い、理恵は椅子へ座った。帰る時刻を気にすると母に分かる。それで時計を見ずにいたら、いつも夕食が遅くなった。
その冬、理恵は自分の部屋の合鍵を母へ渡した。出張が増え、留守中に植木へ水をやってもらうためだった。母は頼られたことを喜び、鍵の使い方を何度も確かめた。帰りが遅い日はここへ泊まってもいいと理恵は言った。母は、自分の家で帰ってくるのを待つ、と笑った。
それから二人は、理恵が寝る前に短い便りを送る約束をした。電話をするほどの話はなくても、帰宅したと分かるように。母は携帯の操作が苦手だったので、最初は理恵から毎晩電話した。忙しい日が続くと、その時間も遅くなった。母は眠い声で、おかえり、と言った。
理恵が郵便受けの熱に気づいたのは、電話を二晩忘れた土曜日だった。母は買い物へ出ていた。理恵は合鍵で母の家へ入り、広告を棚へ置いた。室内は暖房が切れていて寒かった。湯気のようなものが出るほど温かい場所は、あの箱だけだった。
玄関の棚に、理恵の使っているハンドクリームがあった。自分の部屋の枕元へ置いたはずだった。母が水やりに行ったとき間違えて持ってきたのかと思った。蓋を取ると、口のところに自分の指でつけた細い溝があった。理恵は鞄へ入れ、台所で湯を沸かした。
母が戻ると、電話を待っていたと言った。理恵は謝った。母は怒らず、寝ているのは分かったからいい、と答えた。どうして分かったか聞くと、聞こえた、と言った。テレビでも見ながら電話が来た夢を見たのだろう。理恵は母の前で携帯の履歴を開き、二晩かけていないことを確かめた。
夜、自分の部屋へ帰ると、枕元に広告が二枚あった。母の郵便受けから出したものだった。鞄に入れた覚えはない。表紙の端に、さっき自分がつけた折れ目があった。ハンドクリームのあった位置に、その二枚だけが重なっていた。理恵は母へ電話した。
母はすぐ出た。「起きてたの」。理恵はまだ十時前だと答えた。母は、さっき寝息がしたから、と言った。理恵の耳にも、電話の向こうで細い息が聞こえた。母のものとは間隔が違う。理恵が息を止めても続いた。母は玄関のほうを見に行くらしく、受話器を置いた。
金属の蓋が当たる音がした。続いて、長く空気が抜けた。理恵の枕が少し沈んだ。ベッドには誰もいない。彼女が手を当てると、冷たい窪みがゆっくり戻った。母が電話へ戻り、郵便受けが開いていた、と言った。理恵は窓を開け、外の車の音を聞きながら母と話した。
翌日、二人で箱を見た。空だった。理恵が底へ手を入れると、内側に湿り気があった。自分の枕の匂いがした。洗剤だけではない。寝ている自分の髪や、顔を伏せた布の匂いだった。母は別におかしくないという顔で、夜はもっと温かい、と説明した。
「毎晩、開けてるの」
理恵が聞くと、母は頷いた。電話が来た日も、来ない日も開けていた。寝息が聞こえるから、安心するのだという。「帰ってるって分かるでしょう」。理恵は郵便受けの蓋を閉めた。母は少し寂しそうな顔をしたが、止めなかった。
郵便の配達員が来た。若い男で、母と挨拶を交わした。封筒を手渡し、箱のバネが弱っているかもしれないと言った。配達口の蓋が外へ押し返されることがあるらしい。理恵が箱の中を見せると、彼は一歩下がった。「今も、誰かいます?」。家の中には二人しかいなかった。
母は慌てて、ラジオをつけている、と答えた。理恵は訂正しなかった。配達員は曖昧に笑い、次の家へ向かった。二人で箱を見ると、狭い配達口の内側に、唇のような赤い線があった。まばたきほどの間に消え、錆びた縁だけになった。母は初めて、今日は変だね、と言った。
理恵は自分の合鍵を返してもらった。母は傷ついたようだった。信用していないからではないと説明したが、何を疑っているのか自分でも分からなかった。母の手から鍵を受け取った瞬間、郵便受けの底が大きく鳴った。誰かが内側で寝返りを打ち、肘を当てたような音だった。
その晩、理恵は母の家へ泊まった。玄関から遠い部屋へ布団を二つ敷いた。母は昔のようで嬉しいと言い、理恵はうまく笑えなかった。夜中、彼女が目を覚ますと、隣の布団が空だった。母は玄関で椅子に座り、郵便受けの内側へ通じる壁に耳を当てていた。
箱は外壁へ取り付けたもので、屋内へ郵便が落ちる造りではなかった。壁に耳を当てても分からないはずだ。理恵が母の肩へ触れると、志津は、起こしちゃった、と言った。壁の向こうから理恵の寝息がした。いま起きて立っている理恵が、口を少し開けて眠る音だった。
理恵は自分の喉に手を置いた。音は外だった。母を立たせ、布団へ戻そうとした。志津は椅子を離れたが、廊下の途中で後ろを見た。「もうひとつ聞こえたの」。男か女か分からない、ずっとゆっくりした息があるという。理恵も耳を澄ますと、自分の寝息の間へ別の呼吸が入った。
朝まで二人とも眠らなかった。夜明けに外へ出ると、郵便受けが少し膨らんでいた。鉄の蓋が閉まりきらず、隙間から湿った空気が抜けた。理恵は中の物を取ろうとした。底に、母の眼鏡拭きがあった。父の眼鏡を拭くためのものだった。それを引くと、奥へ引き返す力があった。
母は離してと言った。理恵は手を放した。布は内側へ滑り、見えなくなった。箱の奥へそんな距離はない。理恵は家へ戻り、玄関の棚を見た。眼鏡拭きの袋だけが残っていた。母は昨夜、あそこへ置いたと言った。ハンドクリームや広告と同じように、寝る人のそばの物が移っていた。
理恵は取り付けた人へ連絡した。母が以前頼んだ近所の金物店だった。新しい箱と交換できるか尋ねると、午後に見に来てくれることになった。母は新しいものを買う金を出した。理恵は受け取った。どちらの責任かを話し始めれば、また謝るだけの会話になると思った。
金物店の主人は外す前に蓋を開けた。すぐに閉じ、手袋を外した。「中、何か飼ってる?」。母は首を振った。主人は二人の顔を見て、分かった、と言った。工具を出し、箱の下へ台を置いた。理恵は母を家の中へ入れようとしたが、志津は外で見ていると言った。
ねじを一本外すと、理恵の胸のあたりで布が擦れた。パジャマの襟を直したような感触だった。彼女はいまシャツを着ていた。もう一本外すと、足の裏が温かくなった。布団の中で足を重ねた時の温かさだった。母が理恵の手を握った。主人も作業を止め、続けていいか聞いた。
理恵は、少し待ってください、と答えた。箱へ耳を近づけると、自分の寝息がすぐそこで聞こえた。母がそれを毎晩確かめていた理由が分かった気がした。眠っている子供の胸が動くのを見て、布団をかけ直す。彼女が知らないころから、母はそうしていたのだろう。
それでも理恵は蓋へ手を置いた。母へ、今夜は電話する、と言いかけてやめた。新しい約束を足しても、待つ時間が長くなるだけだった。「帰るまで、ここで待ってなくていい」。母はすぐには頷かなかった。理恵は手を握ったまま、電話できる日に話す、と言い直した。
母は箱を見つめ、昨日の便りを読んでいなかったことを思い出した。手紙を待っていたのに、届いた封筒は棚へ置いたままだった。彼女は少し笑い、寝てるのを待ってたんだね、と言った。理恵は否定しなかった。母は理恵の手を離し、金物店の主人へ、お願いします、と言った。
最後のねじが外れた。箱が台へ載ると、重い息が一度出た。理恵の寝息ではなかった。主人は箱を持ち上げようとしてやめた。理恵と二人で底を支え、玄関から離れた庭の端へ運んだ。母が大きな蓋を開いた。中は暗く、息を吐くたび、その暗さが外の昼へ少しずつ薄まった。
三人とも、その場で話していた。金物店の主人は新しい箱の色を聞き、母は白がいいと言った。理恵は大きすぎないものを頼んだ。誰かが黙ると、箱の中の息がよく聞こえた。だから話し続けたのかもしれない。だが黙らないためだけに、父や子供のころの話を持ち出すことはしなかった。
眼鏡拭きは夕方、空になった箱の底から出た。固く丸まり、顔を押しつけた跡のような窪みがあった。母は洗面器へ入れた。金物店の主人は古い箱をその日は運ばず、翌日引き取ることにした。蓋を開けたまま庭へ置いた。帰り際、主人は中へ覗きこまず、二人へ手を振った。
母の家には新しい郵便受けが付いた。理恵の合鍵は、理恵自身が持っている。植木は出張の前に母へ預けるようになった。二人は毎晩の連絡をやめ、用事のある時に電話する。母が電話に出ないと、理恵は不安になる。その不安を郵便受けへ預けたくなる気持ちだけは分かってしまった。
古い箱を引き取った主人から、一度だけ連絡があった。店の裏へ置いてあるが、重くなる日があるので処分を待っているという。中から声はしない。息だけだそうだ。理恵は母の家へ寄り、玄関先で今日は何をしたか聞いた。母は昼寝をしたと答え、笑った。二人の声の合間に聞こえる息を、理恵はその場で、互いの口から出るものと確かめた。


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