写真の中央にいる男へ、誰も名前をつけられなかった。
同窓会の翌週、私は幹事用の連絡先から写真を送った。全員がその男と肩を組み、酒を注ぎ合い、長く話していた。それなのに、届いた返事には、知らない人が写っている、と書かれていた。
高校を出て二十年目の集まりだった。町のホテルで、三年生の時の同じクラスを集めた。私は幹事の戸田から、受付と写真を頼まれていた。卒業後も実家の近くで暮らし、誰が帰省しているかを母から聞かされる立場だったので、適任と思われたらしい。実際には、下の名前まで覚えていない同級生が何人もいた。
その男は受付に少し遅れて来た。紺の背広に、細い銀色のネクタイ。顔を上げると、松永だ、と私は思った。一年生の時だけ同じクラスで、駅まで一緒に帰ったことがあった。
「久しぶり」
私が言うと、男は笑って頷いた。
「名前、書いてもらっていい?」
筆を渡す前に、戸田が後ろから声をかけた。
「遠山じゃないか。来られたんだ」
私は戸田を見た。男は彼にも笑って、会費の入った封筒を出した。
松永ではなかったのか、と恥ずかしくなった。二十年も経てば顔は変わる。私は途中まで書いた名札を伏せた。戸田は男を連れて中へ入り、入口近くの長谷川に紹介した。
「覚えてる?」
「当たり前だろ。斉藤だもん」
長谷川の声が聞こえた。二人とも笑っていたから、あだ名なのだろうと思った。私は受付の箱に男の封筒を入れた。表にも裏にも名前はなかった。
会が始まると、男はよく人の話を聞いていた。自分から割り込まず、相手が話し終わる少し前に頷く。卒業後の仕事、子供の進学、親の怪我。誰もが同級生にだから分かるだろうという顔で話していた。私は席を回り、何枚か写真を撮った。男のいる卓へ行くと、そこに座る全員が、真ん中に入れ、と彼を押した。
カメラ越しに見る男は、松永に似ていなかった。目の離れた、私の知らない顔だった。それでもカメラを下ろすと、駅の改札で別れた時の松永が目の前にいた。
「自転車、まだ乗ってる?」
私は訊いた。松永は高校の時、自転車を二台も持っていた。電車で来る日と、自転車で来る日があった。
男は少し考えた。
「今は、あんまり」
その間に、長谷川が肩を抱いた。
「こいつ、昔から運動できなかったからな」
男はその話にも頷いた。私は席を離れた。名前を間違えて声をかけたことを、もう一度確かめる勇気がなかった。酒を飲んでいないのに顔が熱くなった。
受付の紙を確認した。松永の欄はなかった。遠山には欠席の印がある。斉藤は同じ学年に二人いたが、どちらもこのクラスではなかった。
戸田を廊下へ呼んだ。
「あの人、誰だっけ」
「遠山。美術部の」
「遠山って、俺たちの卒業前に転校しなかった?」
「だから懐かしいんじゃないか」
戸田は少し苛立った。途中で学校を離れた友達へ今さら知らない顔をするのは失礼だろう、ということらしかった。
「長谷川、斉藤って呼んでたよ」
「酔ってるんだろ」
私も、それで済ませようとした。
ところが部屋へ戻ると、男は女性たちの卓に座っていた。
「恵里ちゃんと同じ顔する」
一人が言った。ほかの三人が頷き、似てるよね、と笑った。恵里は高校の同級生ではなく、彼女たちの中学時代の友人だった。私はその中学へ行っていない。男が女性の顔に見えるという意味だと思ったが、話しかける言葉はもう、懐かしい友達に向けるものだった。
「お母さんは、まだ美容室やってる?」
男は、もうやめた、と答えた。
四人が一斉に残念そうな声を上げた。さっき、男は長谷川に、親は二人とも去年から畑だけをやっている、と話していた。両方が本当でもおかしくはない。それでも私は、その卓に近づけなくなった。男の顔を見てから、どんな名前を呼ぶか決まるまで、自分の中に空白があることに気づいたからだ。
私は携帯で松永を探した。数年前に使ったメールが残っていた。今どこにいるのかと送ると、すぐ、仕事だよ、と返ってきた。続けて、大きな機械の前に立つ写真が来た。顔は少し太っていたが、知っている松永だった。目の前の男とは似ていなかった。
携帯をしまい、会場を見た。
松永が、こちらへ手を振った。
私はトイレへ行き、水で顔を洗った。鏡の中の自分の顔が、一瞬分からなかった。いつもより老けているだけだ。そう思おうとした時、隣の洗面台へ男が来た。
「写真、見せてもらえる?」
声は誰にも似ていなかった。低い、普通の男の声だった。
私はカメラの画面を出した。男は一枚ずつ丁寧に見た。隣へ立つと、自分より少し背が低かった。会場で見ていた時には、もっと大きな人だと思っていた。
「写ってるね」
男は言った。
「ええ」
「誰だと思う」
指は写真の真ん中を示していた。私は答えられなかった。写真の顔には、今、隣にいる男との似たところがなかった。隣の男の顔をちゃんと見ようとしたが、鏡には私のほかに誰も映っていなかった。男は蛇口の前に立っている。それなのに、水が出る四角い金具の上には、白い壁だけがあった。
私はカメラの画面へ目を戻した。
「少し、顔が暗くなっちゃいましたね」
何か言わなければ、黙って見ていると知られる気がした。
男は、そうだね、と頷いた。紙タオルを一枚取った。乾いた手を、両側から静かに挟んだ。
「まだ席、あるかな」
「ありますよ」
私が答えると、男は会場へ戻った。私はタオルの箱を見た。引き出された一枚の隣で、次の紙が少し湿っていた。手の形ではなく、濡れた髪を押しつけたような細い筋が幾本もついていた。
戸田へ話すと、笑われなかった。彼は廊下から男を見て、それから私のカメラを見た。
「これ、遠山じゃない」
「だから、そう言ってる」
「俺、遠山と話してたんだけど」
二人で、ひとまず名前を訊こうと決めた。戸田が近づくと、男は立って迎えた。昔の部室の話をし始めるまで、ほんの数秒だった。戸田は絵の具をこぼして怒られた思い出を語り、男はその教師の口真似をした。戸田が笑った。私へ振り向き、お前も聞けよ、と言った。
私は、男の名前を声に出して訊いた。
隣の卓が静かになった。長谷川が、不愉快そうに私を見た。
「さっきから何やってんだ」
男は困った顔をしていた。招かれた席で身元を問い詰められた人の顔だった。私はもう一度訊こうとして、できなかった。ここにいる全員が、彼にだけは昔と同じ声で話していた。
最後の集合写真は、ホテルの人に頼んだ。男を端へ立たせるつもりだったのに、誰かが中央へ入れた。私は二列目で、彼のすぐ後ろになった。肩へ手を置いて、と撮影の人に言われた。
触ると、背広の下には背中があった。普通に温かかった。ただ、私が触れたところから、誰かが内側で身を捩る感じがした。男の顔は前を向いて動かなかった。私は手を離そうとしたが、後ろへ回ってきた男の手が、私の手首を押さえた。
「そのままで」
撮影の人と、男が同時に言った。
写真を送り始めた翌週、戸田が電話してきた。彼も、遠山本人へ連絡したらしかった。遠山は海外にいて、同窓会のことを知らなかった。
ほかの人にも一人ずつ確かめた。長谷川が斉藤だと言い張っていた相手は、彼の勤め先の昔の同僚だった。女性たちが呼んだ恵里は、その一人の従姉妹でもあった。聞けば聞くほど、会場にいた理由が分からなくなった。誰も、知らない人と話していたとは思っていなかった。
男の封筒には、会費ちょうどの紙幣が入っていた。名札は白いまま、会場の床へ落ちていたという。戸田は次の幹事へ渡す写真から、その一枚を抜いた。
「もう、送らなくていいよな」
私は同意した。写真を受け取った全員も、それ以上の話をしなかった。
ひと月ほどして、ホテルから私へ小さな封筒が届いた。男がフロントで、出来上がった写真を一枚ほしいと頼んでいたらしい。送り先がないので、幹事に渡しておくという手紙がついていた。
中には、私がホテルにもお礼として送った集合写真があった。中央の顔だけ、白く擦れていた。消しゴムで消そうとした跡だった。
顔のない男の肩に、私の手が載っていた。
その手首を押さえるもう一つの手は、今度は、私の手とまったく同じだった。爪の端にある黒い傷まで写っていた。
私は写真を机へ伏せた。自分の手首に何もないことを、確かめるのが遅れた。


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