男は、花を返品したいと言った。
佐恵は店先のバケツから手を抜き、エプロンで拭いた。男は入口横の折り畳み椅子へ花束を置き、そこから抱え直して差し出した。白い菊をまとめたものだった。紙はすっかり濡れていて、底から雫が落ちていた。
「どちらでお買い上げですか」
男は、ここで、と答えた。
店の紙だった。端に貼った丸いシールも、佐恵が使っているものに違いなかった。
その日、白い菊だけの花束は売っていなかった。
前の週には売った。萩原さんという女性が三つ買い、まとめて自転車の籠へ入れた。法事ですか、と佐恵が訊くと、いいえ、と微笑んだ。
月に二度ほど来る客だった。買う花はいつも同じだったから、佐恵は顔も覚えていた。
男に萩原さんの名前を出すと、頷いた。
「家内です」
奥様から頼まれていらしたのですか。
そう訊くと、男は返事をせず、紙の上から花束を押さえた。爪の縁に白いものがついていた。仕事で石膏でも使う人かと思った。
「あまり置かれると、困るんです」
佐恵は、花が傷んでいましたか、と訊いた。
男は首を振った。きれいな花だった。
男は代金を返せとは言わなかった。
引き取ってくれれば、それでいいという。家の中がいっぱいになったので、処分してほしいのかもしれなかった。
佐恵は花束を受け取った。水を含んだ紙の向こうから、ひどく冷たいものが指に当たった。
男は頭を下げ、店の前の道を歩いていった。左の袖口から、細い根のようなものが一本垂れていた。佐恵は何かついていますよと言いかけたが、男はもう角を曲がっていた。
紙を外すと、菊の茎は切ったときのままだった。
花も傷んでいない。前の週に売ったものなら、もう少し下の葉が悪くなるはずだった。中に白いものが混じっていた。小さく丸まっていて、触ろうとすると花弁の間へ入った。
佐恵は手を止めた。
虫だと思った。思うことにして、花を店の外の空いたバケツへ入れた。
萩原さんが来たのは翌日の午後だった。
いつものように白い菊を三つ頼み、そのあとで、昨日はうちのが来たでしょう、と言った。
佐恵は頷いた。
「お引き取りしてよかったんですか」
萩原さんは、あなたには迷惑だったわね、と謝った。夫の方が困った顔をしていたとは言えず、佐恵は、いえ、と答えた。
「どんなふうだった?」
不意にそう訊かれた。
「お元気そうでしたけど」
萩原さんは笑わなかった。
そのあと、二人で花束を外へ出した。
萩原さんの自転車を店の前へ寄せる間、佐恵は、あちらのお花もお返ししましょうか、と訊いた。昨日の花は、まだバケツに挿してあった。
萩原さんは茎の方を見た。
「まだ咲いてるでしょう」
ええ、と答えると、それは置いておいて、と言った。
「主人が来たら、渡さないでね」
男はその晩に来た。
店の戸は半分閉めていた。佐恵が残った花を冷蔵庫へ運んでいると、外から、すみません、と声を掛けられた。
男はバケツの前に立っていた。
「あれ、返してください」
昼間の奥様から渡さないように言われている、と佐恵が答えると、男は俯いた。
「じゃあ、捨ててください」
声が小さかった。
佐恵は男の左手を見た。
昨日、袖から下がっていたものが、手首へ巻きついていた。包帯ではなかった。細い緑のものが何本も絡み、皮膚へ食い込んでいた。
男は右手でそれを隠した。隠した指の間からも、短い葉が出ていた。
佐恵は裏へ回り、店の電話を取った。救急車を呼びますね、と声を掛けた。
男は、だめです、と言った。
「家内が来ます」
電話を持ったまま、佐恵は男を見た。
男は逃げなかった。息を吸い、上着の衿を少し開いた。
胸の所に、小さな白い菊が咲いていた。
よく見せようとして開いたのではないらしかった。衿に花がつかえて苦しかったのだ。花の下に茎は見えなかった。首筋の皮膚のすぐ下で、細いものが動いた。
男は閉じかけた衿を、もう一度緩めた。
佐恵は裏の椅子へ男を座らせた。
受話器を置いた。かけても、何と言えばいいのか分からなかった。指に巻いたものを外してあげましょうかと言うと、男は頷いた。
花を整える鋏を出した。
刃を近づけると、根のようなものが指の間へ引っ込んだ。佐恵が男の手を裏返そうとした途端、手首の辺りが透けた。
椅子の脚が見えた。
佐恵は手を離した。男は座ったまま、すみません、と言った。
「亡くなったんですか」
佐恵はそう訊いた。
男はゆっくり頷いた。
いつ頃ですか、と訊きながら、佐恵は萩原さんから初めて注文を受けた日を思い出そうとしていた。
「二年になります」
佐恵は店の奥を見た。この店を始めて、まだ一年半だった。
男は、花を下げてほしいと言った。
家には自分のために供えた花がある。それを捨ててほしい。持って出られる分は持ってきたが、もう片方の腕が上がらないのだという。
佐恵は萩原さんへお話しします、と言った。
男はそれでは駄目です、と首を振った。
「私が頼んだことは、言わないでください」
人にものを頼むには、随分身勝手な言い方だった。佐恵もそう思った。しかし、男の右手は、もう衿を開けられずにいた。
翌朝、佐恵は萩原さんの家へ電話をした。
以前に配達を頼まれたことがあったので、番号は控えていた。先日お売りした花に虫がついていたようなので、と切り出した。夫に頼まれたことは言わなかった。
「新しいものを、お持ちしてよろしいですか」
萩原さんが了承すると、佐恵は店の花で小さな束を作った。男が持ってきた束は、バケツへ残した。
家は店から歩いて十分ほどだった。
玄関を開けると、花の匂いがした。香りの強い種類を売った覚えはなかった。それなのに、古い果物を切ったときのような甘い臭いが、廊下まで来ていた。
萩原さんは佐恵を和室へ通した。
低い机に、写真が置いてあった。あの男だった。
その周りへ花が並んでいた。花瓶に挿したものだけではない。紙で包んだままの束が、床へ直接置かれていた。
佐恵が持ってきた花束を机の端へ置くと、隣の部屋で何かが擦れた。
萩原さんは気づいた様子もなかった。
「お花、よくもっていますね。これ、下げましょうか」
佐恵は何とかそう言った。古い花から順に、片づけてしまえばいい。萩原さんは一番奥の束を指した。
佐恵が持ち上げると、束の裏に封筒がついていた。
祝儀袋のように表が飾られ、そこに、いつまでも、と書いてあった。
佐恵は封筒を外し、机へ置いた。
残った花を抱えると、隣の部屋から、短い息の音がした。痛がっているのか、楽になったのか、その声だけでは分からなかった。
萩原さんが、花をこちらへ、と手を出した。
佐恵は渡さなかった。
「まだ少しありますね。これも一緒に」
二束目へ手を伸ばしたとき、萩原さんが佐恵の手首を掴んだ。
「捨てるのは、まだ駄目」
佐恵は動きを止めた。
「もうずっと置いてあるでしょう」
「咲いてるんだから、いいじゃない」
そう言ってから、萩原さんは掴んだ手を離した。強く掴んだつもりはなかった、というように、佐恵の袖を撫でて直した。
佐恵は花を抱えていた。足元へ白いものが落ちた。花弁だと思って見ると、薄い爪だった。
隣の部屋で、男が妻の名前を呼んだ。
萩原さんは目を閉じた。
佐恵は花束を机へ戻そうとした。腕の内側を細いものが這い、袖口の中へ入った。
佐恵が叫ぶと、隣で男が、そこへ戻さないで、と言った。
萩原さんは花束を取ろうとしたが、佐恵の腕から離れなかった。佐恵は立ち上がり、紙ごと床へ落とした。花が崩れ、茎が何本も転がった。
萩原さんが床へ膝をついた。
拾い始めた。その横で、佐恵の袖から緑の筋が抜けた。
「何をしたの」
萩原さんは佐恵を見なかった。
「せっかく、ここまで戻ったのに」
佐恵は隣の戸を開けた。男が畳に座っていた。左腕がなく、上着の袖だけが垂れていた。首筋の白い花は枯れかけていた。
男は残った右手で、自分の胸へ触れた。何かを確かめているようだった。
萩原さんが後ろから覗くと、その手を膝へ戻した。
「ひどいことをした人なんです」
萩原さんは静かに言った。
佐恵は男を見ていた。
「私一人残して、謝りもしないで」
男は顔を伏せた。言い返さなかった。
萩原さんは、捨てようとした花を集めながら、何度も同じ場所へ来てくれたことが嬉しかった、と話した。初めは影しか出なかった。花を置いて待つうちに、顔が分かるようになった。先月、ようやく声が出たのだという。
「これからでしょう。話をするのは」
男の右手が、畳の上を少し動いた。
佐恵に向かってではなかった。転がった菊の茎を、できるだけ遠くへ押していた。
萩原さんが見ていると、止めた。
佐恵は玄関へ行き、靴を履いた。すみません、としか言えなかった。店から持ってきた新しい花を、机の上へ置いたままだった。
道へ出てから袖を捲ると、手首に赤い筋が何本もついていた。
その夕方、萩原さんが店へ来た。
佐恵は、もうお売りできません、と先に言った。萩原さんは花を買いに来たのではないと答えた。
カウンターへ小さな封筒を置いた。
「主人が持ってきた花は、そのまま?」
佐恵は答えなかった。
萩原さんは店の外のバケツを見た。白い菊は、まだ咲いていた。
「ここにも通ってくると思うの。自分で置いたんだもの」
封筒には、家で見たものと同じ字で、いつまでも、と書いてあった。
佐恵が顔を上げる前に、外で人が椅子へ座る音がした。


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