本間は、金の話になると歩くのが速くなった。
駐車場では高瀬の横にいたのに、草地へ入るころには背中を見せていた。登山靴のかかとに、新しい白い値札の切れ端がついている。
「上まで行けば見えるから」
「ここでいいよ。もう全部見えてる」
昼のスキー場には二人しかいなかった。六月に一度草を刈ったそうで、斜面は膝より低い草に覆われていた。止まったリフトの椅子が、山の上まで小さく並んでいる。駐車場の端に、高瀬の青い軽自動車が見えた。
本間はここに自転車のコースを作るつもりだった。
経営者が誰で、土地をいくらで借りられるのか。車の中で聞いたことには、まだ一つもはっきりした返事がなかった。若いころに二人で通ったスキー場だということを、代わりに何度も話された。
高瀬は金を出せないと言いに来た。電話で済ませるつもりだったが、本間から、まだ頼んでもいないのに断るのかと言われた。
確かに金を貸してくれとは言われていない。去年貸した三十万円も、返してくれとはまだ言っていなかった。車を降りてからずっと、いったい何を話せばいいんだろうと思っていた。
「左のほうを下るコースにすれば、初心者でも走れる。右は石が多いから」
本間は足元の石をよけた。
高瀬も同じ石をまたいだ。土に半分埋まった、皿ほどの平たい石だった。
冬はあれほど広く感じた斜面が、雪のない時期に歩くと狭い。両側の林が近く、リフトの柱の土台もひどく大きかった。右の林に、股のところが白く裂けた木があった。本間が、昔ここで顔をぶつけたと言った。高瀬は、ここへ来たとき自分たちが十七歳だったことを思い出した。
「お前、板はいたまま便所へ入ろうとして、怒られたよな」
その話なら二人とも笑えた。
「覚えてるよ。だから、便所は下だけじゃ駄目なんだ」
本間はすぐに計画へ話を戻した。
斜面の半ばに排水溝が横切っていた。草の下に隠れていて、縁まで来てから気づいた。コンクリートの溝の底には砂がたまり、真ん中だけ水が流れている。本間がひとまたぎで越えたあと、高瀬は片足ずつ下りて向こう側へ上がった。
「膝、まだ悪いのか」
「もう治らないんだよ。悪くしないようにしてるだけ」
しゃがんで砂を払っていると、林の葉がざわざわ鳴り始めた。
左も右も、その奥の暗いところも同時に鳴った。高瀬は顔を上げた。頬に風は当たらず、本間の首にかかったタオルも垂れたままだった。
少し先で本間が立ち止まっていた。
「こんなに急だったかな」
振り返ると、下の建物がよく見えた。受付の赤い屋根と、その横の駐車場。自分の車もさっきと同じ場所にあった。ただ、屋根の向こう側にあるはずの玄関が見える。屋根越しに、玄関のひさしの下までのぞけていた。
高瀬はリフトの柱を見た。柱は車のほうへ傾いているようだった。どの柱も同じ角度で、鉄の足を地面に食い込ませていた。
「戻ろう。本間」
そう言って下へ一歩踏み出したとき、足がうまく着かなかった。
いつも階段を下りるときのように、左の膝をかばって右足を先に出した。ところが、かかとは予想したところよりずっと早く地面に当たった。もう一歩出しても同じだった。下っている景色を見ながら、足は平らな道を歩いていた。
本間も戻ってきた。高瀬を追い越しかけて、急に肩を引いた。
「おい、押すな」
触っていなかった。
本間は両足を開き、斜面の左側を見た。林の手前まで、草がそちらへ倒れていく。風が草の上だけを渡っているのだと思ったが、転がった石も同じほうへ流れた。
高瀬は右足に力を入れた。靴の中で足が横へずれ、左足の小指が硬い縁に押しつけられた。
正面には車が見える。けれど、体が持っていかれるのは、車とは別のほうだった。
本間が右へ歩き出した。斜面をまっすぐ下るのをやめ、林に近づこうとしていた。高瀬もついていった。左へ滑りそうになるたび、右足で踏ん張った。見た目には緩い草地を、二人とも妙な蟹歩きで横切った。
草の下から土がのぞいた。細く裂けている。
高瀬がつま先を引くと、その裂け目が靴の幅ほど開いた。黒い土の断面に白い根が何本も渡り、一本ずつ切れた。切れる音はしなかった。下で、何か乾いたものが細かく崩れる音が続いた。
「そっちに行くな」
高瀬が言うと、本間は足を戻した。戻したところにも細い割れ目ができた。
林の木は揺れていなかった。木の根元と草地の縁のあいだに、日が差さない黒い帯が現れた。そこから剥がれるようにして、二人のいる斜面がゆっくり左へ傾いていた。
高瀬はしゃがんだ。立っていると、草地の向こうに見えるものをつい下だと思ってしまう。膝をつくと、どちらへ落ちそうなのかがよく分かった。
両側の林が、今までのようには見えなかった。さっきの木の白い裂け目が、高瀬の頭より下へ沈んでいた。その木は根元まで長く見えたが、左の林は下半分が草の向こうに隠れていた。
本間が後ろで、短く悪態をついた。
「何だよ、これ。土地が崩れるってことか」
高瀬には答えられなかった。
建物もリフトも動いているようには見えなかった。そのあいだにある草地だけが、まだ倒れる余地を探しているように足の下で傾いた。
さっき越えた排水溝が、少し前にあった。
溝の水は、今は右へ流れていた。二人が体を引かれるのとは反対だった。コンクリートの縁に細い根が引っかかり、草地がずれるたび、引き延ばされて白くなった。
高瀬は膝をついたまま溝へ近づいた。進もうとする方向とは関係なく、体が左へ寄った。片方の靴底だけでは支えられず、両手も使った。
「溝に下りよう」
「あれ、深くなってないか」
本間の声が、すぐ後ろから聞こえた。
またいだときは、ふくらはぎほどの深さしかなかった。今は縁のところに土の壁ができている。草の厚みごと溝の上へせり出していて、水のところまで一メートルほど離れていた。
高瀬は溝の縁をつかもうと手を伸ばした。
指先が届かなかった。腹を伏せて、もう少し前へ出た。草は乾いて滑り、右手でつかんだ束が根元から抜けた。抜けた草は左へ走っていき、斜面の途中で見えなくなった。
本間が高瀬の足首をつかんだ。
「手、放せるか」
「放したら落ちるだろ」
「こっちへ引くから。手を放してくれ」
本間の言うこっちが、どちらなのか分からなかった。
高瀬が首をひねると、本間は仰向けになっていた。片足を突っ張り、もう片方の膝を胸に寄せ、高瀬の足首を両手でつかんでいる。靴の裏が二枚ともこちらを向いていた。
高瀬自身は、腹ばいで爪先を地面に立てている。本間はその後ろにいたはずだった。
二人がつかまっている草地のあいだに、丸い盛り上がりができていた。土の丘というより、下から押し出されているような急な曲面だった。本間の向こう側で、リフトの柱の先端が草に隠れていった。
「つかんでるな」
「つかんでる」
高瀬は左手を放した。体がずれ、抜けなかった草が右の手のひらを切った。痛みで右手も緩めた。
足首から引かれ、腹が地面をこすった。高瀬の右足が本間の膝にぶつかった。足首を離した本間が上着の背をつかみ、少しずつ脇へ寄せた。高瀬も肘で土を押し、肩が触れるところへ体を回した。
本間は溝のほうへ顔を向けていた。高瀬には上に見えたコンクリートの縁が、ここからだと二人のすぐ下にあった。
「立つな。横になるんだよ」
本間に言われ、高瀬は胸を起こすのをやめた。
本間は腰から溝へ滑り込んだ。落ちるとき、両腕を広げて縁を抱えた。靴がコンクリートにぶつかって、硬い音がした。続いて、高瀬も腹の下に入っていた腕を抜いた。
落ちたのは、ほんのわずかな高さだった。
尻が水の中へ入り、冷たさが下着まで抜けた。目の前にある草地の切れ端は、肩よりも高かった。そこから下がっている根の間に、本間の靴についた白い値札の切れ端が引っかかっていた。
二人はしばらく溝の底で息をしていた。
高瀬は流れる水に手を入れた。水はすぐ横の本間の足を通り、右側の林へ流れていた。コンクリートの縁を越えて手を伸ばすと、肘の内側が急に左へ引かれた。肩が動く前に引っ込めた。
本間はそれを見ていた。自分で試そうとはしなかった。
溝の幅は、横向きにならないと歩けないほどだった。二人は立ち上がらず、水の流れるほうへ尻をずらして進んだ。高瀬のズボンはすぐ重くなった。砂と小石が尻の下でこすれ、右の靴にたまった水が一度ごぼっと鳴った。
草地は溝から離れているところもあれば、せり出して天井のようになっているところもあった。そこでは顔を下げた。頭のすぐ上で虫が鳴いた。明るい外にいるはずなのに、声は狭い穴の奥に響いているようだった。
本間が急に動かなくなった。
「行けるのか」
前をのぞくと、溝の端に丸い管の口があった。水はその中へ入っていた。暗くて奥は見えない。子供なら通れるかもしれないが、大人の肩はつかえそうだった。
管の上には、太い木の根が横に出ていた。その向こうに落ち葉がたまっている。高瀬はそちらを指さした。
本間が先に根をつかんだ。体重をかけても木は揺れなかった。胸を縁に乗せると、今度はちゃんと腕で体を持ち上げられた。膝を突き、高瀬の手を取った。
林へ入ると、木は普通に立っていた。
足元は急だったが、落ち葉を一つ蹴れば、低いほうへ転がった。高瀬はそれを追って一歩下りた。今度は思ったところに足が着いた。
二人は林の中を下った。枝に顔を打たれ、何度も止まり、そのたび下に見える赤い屋根を確かめた。建物の裏へ出たとき、本間のタオルがないことに気づいた。どちらも探しに戻ろうとは言わなかった。
車の鍵を出そうとして、高瀬は右のポケットが泥で固まっているのを知った。本間に布を引っ張ってもらいながら、ようやく指を差し込んだ。
斜面を見上げると、草はまた一枚に続いていた。排水溝も、林と草地のあいだにできた暗い隙間も見えなかった。リフトの椅子の下で、小さな虫が光っていた。
本間が、まだ上を見ていた。
「コースのことは、もういいよ」
高瀬は言って、助手席のドアを開けた。
本間はうなずかなかった。
斜面の左端を指さしていた。
草の途中から、白いものがゆっくり出てきた。土の割れ目をくぐって、本間のタオルが横へ滑っていく。落ちるなら下へ来るはずなのに、折り畳まれもしないまま、真っすぐ林へ吸い込まれた。
そのあとを、草地にできた浅いくぼみが追っていった。
二人が腹をつけていたほどの広さのくぼみだった。片方の端が持ち上がり、また伏せた。林に近づくにつれて、くぼみはゆっくり細くなった。
高瀬は本間の腕を引いて、車に乗せた。
エンジンをかけるあいだも、木の葉の鳴る音がしていた。


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