奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

軽い布団

母に頼まれたのは、父の布団を干すことだった。
父は二年前に死んでいる。まだ置いてあるのかと言うと、母は電話の向こうで、あんたもあの人と同じことを言う、と答えた。
「捨てろ捨てろって。捨てるのは誰だと思ってるの」

私は土曜日に実家へ行った。布団を片づけるくらいで一日潰れるとは思わなかったので、帰りに寄る美容院を予約していた。母にはそのことを言わなかった。
玄関の脇に小さな椅子が出ていた。転んでから、靴を履くためだけに置いたという。手すりもつけた方がいいと言うと、それより先に二階、と母は階段を指した。

父の部屋は、私が家を出る前と大して変わっていなかった。煙草を吸わなくなってからも捨てなかった灰皿、折り目をつけたままの新聞、低い本棚。何もかも父が最後に使った場所にある。
畳には敷布団が一枚広げてあった。掛布団は足元で丸まり、枕は裏返っていた。まるで、つい今しがた誰かが起きたようだった。
「お母さん、ここで寝てるの」
「寝るわけないでしょう」

母は窓を開けた。庭の物干し竿まで運ぶのだと思っていたが、二階の窓に掛けるのだという。アルミの手すりの内側に台を寄せ、まず掛布団を持ち上げた。
敷布団の真ん中が黒かった。
丸い頭と、肩と、その下に二本の腕が見えた。寝た人の汗でできた染みにしては、手の指まで形がありすぎた。
母が掛布団を引くと、黒いものの顔が横を向いた。

私は掛布団を放した。
下にいたのは父だった。寝間着も顔も黒い。ただ、口の中だけがいつもの色をしていた。下唇を噛む癖があり、そのときも、右の端を少しだけ口へ入れていた。
「お父さん」
母は返事をせず、私が落とした布団を拾った。
「驚かせるんじゃないよ。持つなら持って」

父は薄かった。布団の上にうつ伏せになっているのに、背中の厚みがほとんどない。耳が折れて、横を向いた顔の下に敷かれていた。痛そうなので、私は思わず耳へ手を出した。
指が触れる前に、父が片腕を動かした。
袖をつかまれた。肘の少し上を、二度、軽く引かれた。
私はそこで泣きそうになった。

小さいころ、人混みで父とはぐれかけると、必ずそこを引かれた。手をつなぐような父ではなかった。呼ぶ代わりに袖を引き、先に歩き出す。私は怒られたと思ってついていったが、迷子になったことは一度もなかった。
黒い指が、同じ所をつかんでいた。ちゃんと爪があった。爪の白いところに、小さな欠けまであった。
「いるんなら、教えてよ」
母へ言うと、母は窓の台に腰を下ろした。
「教えたら、何しに来たの」

私は答えられなかった。
父が死ぬ前の半年、私はほとんど実家へ帰らなかった。仕事もあったし、子供の受験もあった。母は電話で、食べさせるのが大変だと言った。私は、病気なんだから仕方ないよ、と返した。
そのとき母が何を言いたかったかは、今なら分かる。
けれど、布団の上に父がいることと、あの電話のことは、同じ話にしたくなかった。

母は父が死んだ次の朝に、ここで父を見たという。
病院にいる間から、父は何度も家へ帰りたいと言っていた。連れて帰ればよかった、と私は思った。母は、連れて帰れる状態じゃなかったでしょう、と言った。
「何も言ってないよ」
「顔がそう言ってる」
昔から、母との会話は途中で私の知らない場所へ進んだ。

父は私の袖を離し、布団へ手を戻した。指先で側の布を寄せようとしていた。母が掛布団を取り上げたせいで、寒いのだろうか。
「かけてあげたら」
私が言うと、母は掛布団を窓の外へ押した。腹を手すりに当て、力を入れた。布団の半分が向こうへ落ちた。
「今日は干すの」
庭へ向けて張り出した布団が、風で一度膨らんだ。

母が持ってきた掃除機は、私が小学生のころから使っていたものだった。太いコードを引き出し、廊下のコンセントへ挿した。吸い口の端には、白い糸が絡んでいた。
母は父の背中へ、それを当てた。
「何してるの」
私が叫ぶのと、掃除機が高い音を出すのが同時だった。

父の肩が崩れた。
灰のようなものが吸い口へ入り、頭が横へ転がった。黒い塊の中で口が開いた。声はなかった。母が吸い口を戻すと、父の肩は元のところへ集まったが、片腕だけが浮いていた。
腕は肘を曲げたまま、母の顔の前を通り、天井へ上がっていった。
爪が天井板へ触れた。こつ、と音がした。
私は廊下へ走って、コードを抜いた。

母は膝を伸ばすのに苦労しながら立ち上がった。
「それ、急に止めないで」
私は掃除機を廊下へ引き出した。母を部屋に残すのが怖かった。父に何かするかもしれないと思ったのだ。
母が私の顔を見た。口を開き、それから、何も言わずに敷布団を持った。
「こっちは一人じゃ無理だから、手伝って」
私は首を振った。

「二年だよ」
母はそう言った。
「このままじゃ、一生干せない」
敷布団の縁を折ると、父の足が膝から上へ曲がった。人間なら踵がつかえて止まるところで、膝も腰も、布団と一緒に折れた。
私は母の腕をつかんだ。母は手を止めたが、布団を戻さなかった。

母方の伯父が死んだとき、母は違うものを見たことがあるという。
伯父の家へ着いた夕方、台所の床に伯父が座っていた。皆が死んだ人のそばへ集まっているのに、伯父は一人で流しの下にいた。母がお茶を運ぶ間、膝が少しずつ畳まれ、最後には頭だけになった。
その頭も、朝にはなかった。
「下へ行ったの?」
私が訊くと、母は頷いた。

伯父は穏やかな人だった。父のように、夕飯の出来が悪いと言って箸を置くこともなかった。私が進学したときには、父に内緒で、母へ少し金を貸してくれていたらしい。
父の腕は天井にあった。指が動くたび、板を擦る音がした。
母はその音を聞き上げた。
「いい人が上へ行くっていうなら、あべこべだね」
冗談にしては、声が疲れていた。

私は父の頭のある側から敷布団を持った。動かすしかなかった。母はもう、何度も持ち直していた。
畳から離すと、それは驚くほど軽くなった。中の綿がどこかへ抜けたようだった。父の顔が持ち上がり、私の腹へ当たった。頬が冷たく、薄い唇が上着の釦へ引っ掛かった。
私は窓までの三歩を歩けなくなった。
また袖を引かれた。

今度は強かった。
つかまれた側の袖が、肩からずり落ちそうになった。父はこちらを見ていた。先に立って導くときの顔ではなかった。目が真下を見ていた。
足元には、まだ布団があった。
私はそれを父へ寄せた。指が離れた。父は布団の縁へ爪を立てた。
ずっと下をつかんでいたいのだと、そのとき分かった。

天井へ上がった腕は、肩のない先を伸ばしていた。柱にも照明にも触れず、部屋の高い所を流れていた。父はそれを見ようとしなかった。
「出したら、どこへ行くの」
母に訊くと、知らない、と返ってきた。
「どこかに着くんでしょう」
私は空を見た。雲の薄い、明るい空だった。あそこへ浮いていく父を想像しようとして、途中でやめた。いくら上がっても、着く場所なんか見つからない気がした。

母と二人で布団を窓へ載せた。
窓の縁で父の足が引っ掛かった。母は一度止まり、私に目で訊いた。私は父を見ていた。父は私の袖を見ていた。
そのまま戻してくれとも、一緒に来てくれとも言わなかった。ただ、腕を伸ばしていた。
私は片手を上げ、つかまれない所へ袖を寄せた。

布団が外へ垂れた。
天井を擦っていた腕が、窓の上を通って父の肩へ集まった。父は布から離れ、窓枠をつかもうとして、指を空振りさせた。縦になった体が、屋根の方へ上がっていった。私が下から見ていることには気づかなかったようだった。畳のあった高さへ両手を出し、何かを探していた。
母が布団の端を叩いた。
窓の外に舞った埃は、父とは反対に、庭の土へ落ちていった。

美容院に電話をした。予約を翌週へ変えてもらっている間、母は掃除機のごみを出し、廊下を拭いていた。
私が何も言えずにいると、母は雑巾を洗いに下りた。
足音が階段の半ばで止まった。
手すりが要るね、と、下から声がした。

その日は夕方までいた。布団を取り入れても、父はいなかった。窓に載せたときと同じくらい軽く、二人で持つ必要はなかった。
母が押入れを開けたので、私はもう捨てようと言った。
「干したばかりだよ」
母は呆れた顔をした。来月来る孫を、この部屋へ泊めるつもりなのだという。
私は畳んだ布団へ手を置いた。爪の跡が幾つも残っていた。母はその部分を内側へ折り込み、私の手を退けた。

帰る前に、二階の窓を閉めに行った。
窓枠の上に父の指が一本掛かっていた。爪だけが、薄いアルミの縁へ食い込んでいた。
私は手を伸ばしかけて、止めた。
外から、袖が一度だけ引かれた。

下で母が私を呼んだ。夕飯を持って帰りなさいと言っていた。
私は返事をした。父に聞こえるような大きな声が出た。
それでも窓を閉めるには、その指を外さなければならなかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました