店へ行く前に、彩に指輪を返してもらった。箱に入れて持ってきてくれると思っていたので、駅の改札で小さな紙袋を渡された時、少し困った。中に箱はなかった。丸めたティッシュを開くと、指輪だけが出てきた。
「箱、捨てた?」
「どっかにはある」
彩はそれだけ言って歩き始めた。僕は指輪を包み直し、上着の内ポケットへ入れた。
婚約を解消して三週間たっていた。あの晩に決めなければよかった、と思うことはあった。ただ、やり直したいわけではなかった。両方の親へ説明し、会場へ払った金の半分を失った。彩は職場の近くに部屋を借り、僕は二人で住んだ部屋に残った。ようやく、一人で帰ってくることに慣れ始めていた。
レストランを予約したのは半年前だった。彩の誕生日に、結婚前のお祝いも兼ねて行こうとした。二人の休みが合う週末がその日しかなく、間に合わせるため僕が休暇を取った。取り消すなら一週間前までと言われていたのに、互いに相手が連絡したと思っていた。
「もったいないから食べに行こう」
電話でそう言ったのは僕だった。彩はしばらく黙って、何時だっけ、と聞いた。僕は手帳を探した。別れる前は、こういうことを全部彩に確かめていた。
店は駅から少し歩いた住宅街にあった。門を入ると小さな庭があり、窓の内側に白い卓布が見えた。彩は道を覚えていた。予約を入れる前に、一人で下見へ来たのだという。
「入りにくい店だったら嫌だから」
なぜ下見が必要なのか、前の僕なら聞いたと思う。その日は聞かなかった。
入口で名を告げると、年配の給仕が上着を預かった。内ポケットの指輪を思い出し、僕は一度返してもらった。紙袋をズボンへ移すところを彩が見ていた。何も言わなかった。
僕たちの席は、庭に面した窓際だった。隣の卓は空いていて、少し離れたところに老夫婦らしい二人がいた。窓にはまだ夕方の空が映っていた。彩は椅子を引いてもらい、膝にナプキンを広げた。僕は水を飲んで、もうここへ来てしまったのだから、嫌な食事にしないようにしようと思った。
最初の皿が来る前に、ひどく腹が減った。
昼はきちんと食べた。家を出る前には、余っていたパンも口にした。それなのに、空腹というより、今すぐ食べたいものがあるのに名前を思い出せない感じだった。舌の両側に唾がたまった。彩が何か言ったので、聞き直した。
「バス、まだ使ってる?」
二人で暮らしていた部屋の前を通るバスのことだった。
「駅まで歩いてる」
「そっか」
会話が途切れた。僕は献立を見た。料理の名は読めたが、どれも食べたいものとは違う。困っていると給仕が小皿を運んできた。白い器の底へ、茶色い薄いものが丸く敷いてあった。
何なのか説明を受けたはずだが、僕は覚えていない。口へ入れる前から、これだ、と思った。塩辛く、あとから青い野菜の苦みが来た。柔らかいのに、舌で押しても一か所だけほどけない。もう一口すくおうとすると、小皿は空だった。
彩も食べ終わっていた。彼女はスプーンの裏を唇でぬぐってから、僕を見た。
「おいしい?」
「うん。知ってる味がする」
彩は笑いかけた。途中でやめた。
「何?」
僕が聞くと、何でもない、と言った。
給仕が空いた皿を下げに来た。
「今日は、お二人ともよく召し上がって」
彩が顔を上げた。
「初めて来たんですけど」
「ええ」
給仕はうなずき、僕へ水を足した。彩は何か言おうとしたが、僕が先に、これ何でしたっけ、と小皿を指した。
給仕は料理の名を答えず、昔からお出ししています、と言った。
「前は、あまりお好きではなかったでしょう」
それは僕へ向けた言葉だった。
僕は笑って首を振った。人違いですよ、と答えた。給仕は困った顔もせず、皿を持って去った。
「予約の時に、嫌いなもの聞かれたから」
彩が言った。僕もそれで納得したふりをした。結婚をやめたことまで話す必要はないし、祝う客を間違えただけかもしれなかった。
次の皿には魚が載っていた。彩は身を少し食べ、皮を端へ寄せた。僕はその皮が欲しくなった。彼女の皿へ手を出しそうになり、膝の上に戻した。魚の皮は、いつも僕のほうが残していた。
「食べていいよ」
彩は皿をこちらへ寄せた。
僕が取るのを見ながら、彼女は口を開いた。
「いつも、そうだったね」
僕はフォークを止めた。
「何が」
「私が残すと、食べてくれる」
「僕、皮、食べないよ」
彩は皿の端を持ったまま固まった。それから手を引き、そうだね、と言った。
食べてみると、やっぱりおいしかった。焦げたところに油が残っていた。店へ入る前から、この皮を食べたかったような気さえした。彩の間違いを、僕はわざと続けなかった。昔の男の話を出されたくなかった。口を挟めば、また最後まで聞かないと言われる。それも嫌だった。
肉の皿が来た時、彩の向こうに座る老婦人が、ナプキンで口を拭いた。僕と目が合うと、小さく会釈をした。隣の男は壁を向いたまま食べていた。ずいぶん椅子を斜めにして座っていたが、婦人は気にしていないようだった。
彩が話し始めた。
「この前ね、坂を上ってきたところで」
どの坂か分からなかった。僕たちの町は平らだった。僕が聞かずにいると、彼女は、あのパン屋さんがなくなってた、と続けた。角の石段のところに車を停めて、何度も一緒に買いに行った店らしかった。
「最後に買った時、お釣りが違ってさ」
彩はそこで笑った。僕の知らない、ずっと若い声に聞こえた。二人で暮らしていた四年間に、そんなふうに笑わせたことが何度あっただろうと思った。
「誰の話してるの」
僕はそう聞いた。
彩は僕を見た。目を細め、顔を少し近づけた。
「今、何て?」
「僕、その店を知らない」
彼女は卓布へ目を落とした。ナイフとフォークをそろえた。食べかけの肉にはもう手をつけなかった。
「そうだった。ごめん」
「何が、そうだったの」
彩は水を飲んだ。僕は続きが来るのを待った。彼女の指には、外した指輪の跡が少し残っていた。
給仕が近づき、よろしいですか、と彩の皿へ手を伸ばした。僕は、まだ食べてるので、と止めた。
「結構です」
彩が言った。僕には目を向けず、給仕へはっきり告げた。
給仕は皿を持ち上げ、また来ていただければ、と言った。
「もう来ません」
その声で、店が静かになった気がした。実際には奥で水が流れ、老夫婦の卓では食器が鳴っていた。給仕の手が止まっただけだった。
「お二人で、そうお決めになったんですか」
僕は思わず、はい、と答えた。予約の取消料や、祝うはずだった日のことを説明させられるのが嫌だった。彩も、もう終わったことを聞かれたくないだろうと思った。
給仕は彩を見た。彩は僕を見ていた。僕がうなずくと、彼女は椅子へ背をつけた。
その途端、僕の食欲がなくなった。皿に残る肉が、口へ入れてはいけないものに見えたわけではない。普通の、よく焼けた肉だった。ただ、その味をもう知っていた。今夜食べた分よりずっと先まで、何度も食べ続け、とうとう嫌になった記憶があった。
僕はナイフを置いた。彩の髪が頬にかかっていた。その髪を耳へ掛けてやりたいと思い、手を上げた。
彼女が身を引いたので、止めた。
「ごめん」
僕が言うと、彩は、ううん、と首を振った。
指先に、髪の感触があった。触れていないのに、乾いた細い髪が指の股へ残っていた。僕は手を卓の下へ隠した。そこに長い黒髪は一本もなかった。
隣の老婦人が、また僕を見ていた。今度は会釈をしなかった。男の肩越しに、こちらの卓をじっと見ていた。男も食べる手を止めた。彼はまだ壁を向いていた。正面から見ようと身体をずらすと、彩が僕の袖を引いた。
「こっち向いて」
僕は彼女を見た。
「ご飯、終わったら出よう」
「今でも」
「今は、待って」
彩はそう言い、自分の手を膝へ下ろした。目だけが僕の肩の後ろを追った。振り向こうとすると、彼女はもう一度僕の名を呼んだ。
給仕が二つの器を運んできた。浅い皿に、小さなプリンが載っていた。僕はすぐに食べたくなった。さっきまでの胸の重さが消えて、底の苦いところをスプーンで削りたいと思った。
彩は自分の器を押しやった。
「こっちも食べて」
僕は彼女の皿を先に取った。食べ終わると、彩が、小さいほうも、と僕の前を指した。
二つとも同じ大きさだった。僕はなぜか、言われた通りだと思い、自分の分へ手をつけた。食べているあいだ、給仕はそばにいた。彩もずっと見ていた。口へ運ぶのを一度止めると、二人ともほんの少し前に出た。
怖くなったのはそこでだった。
皿を空にすると、給仕が彩へ何か言った。僕には聞き取れなかった。彩はうなずかず、僕の前に自分の手を置いた。
「立てる?」
「立てるよ」
僕が椅子を引くと、彼女はその手を引っ込めた。
会計は彩が済ませた。僕も財布を出したが、外で、と言われた。上着は僕が二人分受け取った。着せてやろうとすると、彩は自分のを取り、袖を通さず腕へ掛けた。給仕は門まで出てこなかった。老夫婦の席は見ずに通った。
庭へ出た途端、彩は足を速めた。門の外まで行ってようやく止まり、僕の肩から上着を引き下ろした。
「ちょっと、それ脱いで」
僕は言われるまま脱いだ。彩は襟の裏を見て、内側のタグへ指を当てた。僕の、いつも着ている上着だった。
「どうしたの」
聞くと、彩は道端へしゃがみ込んだ。両手を額へ当てていた。僕もしゃがもうとしたが、やめて、と止められた。
少しして、彼女が自分で立った。
「途中から、顔が違った」
「僕の?」
「私、知ってる人だと思ったの。あなたじゃないのは分かってた。でも、ずっと知ってる人なの」
彩は泣いてはいなかった。口元だけが細かく震えていた。
一緒に暮らした家の間取りを知っていた。毎朝起こすのが大変だった。自分より先に食べて、先に風呂へ入る人だった。そういうことが、僕の顔を見ながら一つずつ浮かんだのだという。
「坂のパン屋は?」
「分かんない。そんなところ、住んだことない」
僕はズボンのポケットの紙袋に触れた。まだあった。指輪の話をすると、彩はようやく僕を見た。あれを返したのは自分だと言った。駅で箱のことを聞かれたことも、覚えていた。
「僕が何か、言った?」
「食べてるあいだは、何も」
「その後は」
彩は店の門を見た。
「もう一度、結婚しようって」
僕は首を振った。言っていない。言うつもりもなかった。彩は、分かってる、と答えた。
「あなたが何も言ってないのは分かった。でも聞こえたの。こっちを見て、言ってた」
彼女は僕の肩へ手を伸ばしかけ、途中で下ろした。
「断ったら、帰してくれないと思った。だから、ご飯のあとでって言った」
僕は食事の最後を思い出した。プリンを二つ食べた。立てるかと聞かれ、立った。上着を受け取り、二人で出てきた。彩がいつ返事をしたのかは覚えていなかった。
「それから?」
「外へ出てから考えるって。それだけ」
彩は僕の返事を待たずに言った。
「考えない。そんなの、知らない」
駅まで一緒に歩いた。僕は彩の少し前を歩いた。手を取ろうとはしなかった。信号で止まった時、彩が会計の半分を言い、僕はその場で携帯から送った。彼女が画面を確かめて、ありがとう、と言った。その声がいつもの声だったので、ようやく息を深く吸えた。
改札の前で、彩は先に帰って、と言った。僕と違う路線だった。僕は切符を買うふりをして、彼女が自分の改札へ入るのを見た。背中が見えなくなってから、ホームへ下りた。
電車に座ると、指先にさっきの髪の感触が戻ってきた。
僕は手を開いた。何もついていなかった。
それでも、どんな顔の人に触れたのか、思い出し始めていた。耳の前に短い白髪があった。唇は薄く、左の目尻に深い皺があった。食事のあいだ、隣の卓から僕を見ていた老婦人だった。
昔、あの人と暮らしていた。何十年も一緒にいた。そんな覚えが、帰り道の駅名を一つ聞くたび増えていった。
僕は彩へ電話をかけた。出なかったので、もう一度かけた。
二度目の呼出音が鳴る前に、僕は紙袋から指輪を出していた。返してもらったままにしておくつもりだったのに、指先へ通し、目の高さへ持ち上げた。
あの人は、考えてくれているだろうか。


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