坪井さんは、自分に関係のないことでも先に謝る人だった。配達の箱が潰れていれば、置く場所を片づけておかなかった私が悪いと言う。客の忘れ物を追いかけて届けたときも、気づくのが遅くなってすみません、と頭を下げる。その会社を辞めて独立したあと、私は何度か、ああいう人の下で働けたのは運がよかったと思った。
事務所を移すから、半日だけ車を貸してもらえないか。そう電話があったのは、十一月の終わりだった。新しい事務所は同じ市内にある。重い物は業者に頼んだが、社長室の細々した物を、自分で運びたいのだという。私は朝からワゴン車で出かけた。古い事務所へ来るのは六年ぶりだったが、坪井さんの机の下には、私がいた頃と同じ青いバケツがあった。
机の引き出しを一つずつ空にしていると、清掃に来た女性が、廊下で足を滑らせた。転びはしなかったものの、手に持ったスプレーを落としてしまった。
「あ、すみません。私がこぼしました」
坪井さんがすぐに立った。私は、またか、と思った。そこを通ったのはさっきの引越業者で、坪井さんはずっと私と荷物を詰めていた。机の上の湯飲みも空だった。廊下へ行くと、床の真ん中に平たい水が広がっている。女性は、こちらは平気ですから、と言って、モップを取りにいった。
「いいです、私が拭きますから」
坪井さんはその背中に声をかけ、机からバケツと雑巾を持ってきた。雑巾を両手で広げて水の上へ置き、端から少しずつ押さえた。女性はほかの部屋へ行き、私も荷造りへ戻った。しばらくして坪井さんが戻ってきたとき、バケツの底で水が揺れていた。何かが一緒に入っていた。灰色の、ほつれた布のような物だった。
本棚の下に、紙袋が二つあった。片方は商工会の会報で、もう片方には写真や封筒が詰まっている。落とした会報を拾うと、袋の口から白黒の写真が滑り出た。校庭に組まれた、小さな舞台の前だった。制服姿の中学生が七、八人と、帽子をかぶった大人がいる。学生の一人は、若い頃の坪井さんによく似ていた。丸い眼鏡をかけ、端の方で困ったように笑っている。
「社長ですか、これ」
写真を見せると、坪井さんは雑巾を握ったままうなずいた。
「古いのが出てきたね。袋ごと載せてくれればいいよ」
坪井さんに似た少年の足元だけ、土が黒かった。雨上がりにも見えない。ほかの生徒の靴も舞台の板も乾いていて、強い影が右へ落ちていた。その黒い所に、何か大きな物が横たわっている。最初は丸めたシートだと思った。両端が細く、真ん中だけ太い。少年の靴のすぐ脇には、白い五本の棒が広がっていた。手の指に見えて、私は写真を顔へ近づけた。
「お化け屋敷をやったんだ。その片づけ」
坪井さんは言った。
「人形ですか」
「うん。あれは作り物だよ」
そう聞けば、なるほど人形に見えた。顔の所だけひどく白く、首は細すぎる。胴体も妙に平たかった。学校祭で中学生が作った物なら、そんな出来なのだろう。ほかの生徒がそれを避けて立っているのも、人の形の物を踏みたくなかったのだろう。ただ、あの困ったような笑い方には覚えがあった。客の長話を聞くとき、無理な納期を告げられたとき。坪井さんは、そんな顔になる。
写真を袋へ戻し、その紙袋は最後にして、私は箱詰めの済んだ物から車へ運んだ。二往復したところで、廊下の端がまた濡れていた。今度は壁に沿って細長く、社長室の入口からコピー機のあった跡まで続いている。部屋の中へ声をかけると、坪井さんは床にかがんでいた。机の下から雑巾を引き出そうとしているようだったが、手を入れては引っ込め、また入れていた。
「バケツ、倒れました?」
「私がこぼした。ごめんね」
坪井さんは私を見ずに答えた。バケツは机の横にあり、立ったままだった。
床に膝をつくと、机の下の水の中に、人の横顔があった。水面に誰かの顔が映っているのかと思って、後ろを見た。私たち以外にはいない。顔は床すれすれの所で横を向いていて、片方の目だけが見えた。雑巾が近づくと、その目が閉じる。離れると開く。目の前にあるのに、どこまでが顔なのか分からなかった。頬だと思った辺りは薄く広がり、床板の継ぎ目へ入っている。
「何ですか、これ」
声を出すと、坪井さんの肩が大きく動いた。
「触らないで。服が濡れる」
そう言いながら、本人のズボンは両膝から腿まで濡れていた。灰色の雑巾を丸め、顔の脇へ置く。水の方から布へ寄っていった。吸い込まれるように見えたものの、口に当たる小さな割れ目だけが最後まで残った。そこが何度か開き、そのたびに、舌を鳴らすような音がした。
私は立って、一度廊下へ出た。清掃の女性が向こうの部屋で掃除機をかけている。ドアも窓も開いていて、昼の車の音がする。その中へ坪井さんがバケツを持って出てきた。底の灰色の物は、さっきより膨らんでいた。雑巾が幾つも固まっているようにも、人が両手で膝を抱えているようにも見えた。
「昔のあれなんですか」
私は写真の袋を指さした。坪井さんは、困ったような顔をしたまま、バケツの縁を拭いた。
「作った物だからね。先生も、捨てていいと言ったんだ」
私は中学生の頃、文化祭で張りぼての怪物を作ったことがある。終われば潰して、濡れた絵の具も新聞紙も同じ袋へ押し込んだ。その話をしかけて、やめた。坪井さんがバケツの中へ雑巾を落とすと、底の物に、爪が見えたからだ。布のほつれとは違う、薄く半透明の、小さな爪だった。曲がった指の先についていた。
「中は、何で作ったんですか」
坪井さんは返事をしなかった。もう一度訊くと、片づけたのは自分だと言った。みんなは打ち上げへ行った。自分は遅くなった。担任が門を閉めに来るまで残っていた。私が訊いたことには一つも答えていなかった。
「水をかけて潰したんだ。硬くて、そのままじゃ袋に入らなかったから」
私はもう、続きを聞きたくなかった。坪井さんはバケツへ顔を寄せて、何か短く言った。私への返事ではなかった。中の物が少し動き、縁の裏に細い指がかかった。
私は清掃の女性の所へ行った。作業をいったんやめてもらった方がいいと思ったが、何と言えばいいのか分からず、社長室はまだ片づいていません、とだけ言った。女性は、あそこはご自分でなさるそうです、と答えた。水気も残さないようにするから触らないでいい、と最初に頼まれていたらしい。私は窓際で仕事の連絡を受けるふりをして、携帯を握っていた。独立したときに最初の仕事をくれたのも、入金が遅れて困ったときに黙って支払日を早めてくれたのも、坪井さんだった。連絡先を開いたまま、誰を呼べばいいのか決められなかった。
社長室から、ばしゃ、と音がした。戻ると、バケツは横倒しになっていた。床へ水が広がり、その真ん中に、裸の男がうつ伏せになっているように見えた。体の厚みがなかった。背中の向こうに床の傷が透けて見え、首から先は机の下へ入り込んでいる。それでも両肩は、息をつくように上下していた。坪井さんは片方の足首をつかもうとしていた。指が水の中へ入ってしまう。雑巾を持ち直し、足の先から巻こうとした。
「もう、やめた方が」
私が言いかけると、坪井さんは初めて強い声を出した。
「踏まないで」
入口の私の靴先まで、細い指が伸びていた。写真に写っていた白い五本の物を思い出した。人形の指だから変な向きへ曲がっていてもいい、そう思っていた。今は、どこを避けて立てばいいのかも分からない。私は片足を上げ、後ろへ下がった。足をついた所にも水があり、濡れた靴底が鳴った。
坪井さんが、顔を上げた。私の足元を見ていた。口を開いたまま、何も言わなかった。床の上で男の肩が止まった。坪井さんはすぐに膝でにじり寄り、私が踏んだ場所へ両手をついた。
「私がこぼしました」
廊下の女性へ言ったのと同じ言い方だった。もう一度、少しゆっくり繰り返した。頭がどんどん下がり、鼻が床についた。私はその背中越しに、机の下から顔がこちらへ向くのを見た。坪井さんの耳が、左右へ平たく広がっていった。


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