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水をかけないで

芳乃が囲碁会で任されていたのは、初めて来る人の相手だった。強いからではない。負けても機嫌を損ねず、同じことを二度聞かれても、声が大きくならないからだった。

その月から一回五百円を徴収することになっていた。会場の喫茶店が飲み物代を上げたためで、芳乃にはそれを説明する仕事も増えた。長く通っている人ほど、値上げの話をすると盤のほうを向いた。新しく来る人のほうが気楽だった。

小幡と名乗った男は、釣銭の要らないように百円玉を五枚出した。五十代くらいで、襟の柔らかい薄灰色のシャツを着ていた。胸のポケットには何も入っていない。芳乃が出した紙へ名字だけ書き、椅子に腰を下ろすと、窓際の席を眩しそうに眺めた。

「どのくらいお打ちになりますか」
「父に教わったきりです。すっかり忘れてしまいました」
小幡は笑い、黒い石の入った碁笥を両手で自分のほうへ寄せた。その抱え方が子供のようで、芳乃は九路盤を持ってきた。正式な盤より升目が少ない。まず、これで一局やってみましょうか、と言うと、男は素直に頷いた。

店内には八人いた。奥の二卓で四人が打ち、世話役の関がその間を行ったり来たりしている。店主の岡村は、カウンターでサンドイッチの耳を切っていた。火曜日の午後二時。窓の外では、植え込みの低い葉がクーラーの室外機に吹かれて震えていた。

小幡は石をすぐ打った。考えない人なのかと思ったら、一つ置くたびに芳乃の顔を見て、そこでもいいですか、と確かめた。
「どこへ打ってもいいんですよ。置いたあとは動かせませんけど」
「これは」
「それも大丈夫」
芳乃はなるべく相手の石を取らずに打った。一局目から手も足も出なくなって、来なくなる人がいる。小幡の黒石は隅に集まり、小さくまとまっていた。

最初に気づいたのは匂いだった。

焦がした砂糖に似ていた。岡村が新しいデザートでも作っているのかと思い、芳乃はカウンターを見た。パンの皿しか出ていなかった。男が右の袖を引くと、甘い匂いが少し強まった。

「暑いですか。冷房、強くしてもらいましょうか」
「このくらいがちょうどいいです」
小幡の額に汗はなかった。首の下だけが赤かった。日に焼けた人のように、襟から見える肌が赤くなっている。芳乃が水のグラスを寄せても、口をつけなかった。

二局目になった。小幡は黒石を取り上げ、窓の光に透かして見た。もちろん透けなかった。親指でつるつるした面を撫でる。その手首から、細い煙が上がった。

芳乃は身を乗り出した。袖に煙草の灰が落ちたように見えたのだ。店は禁煙になって久しかったが、それを忘れて火をつけようとする人はいた。小幡の左手は膝の上で開いており、煙草もライターも持っていなかった。

「小幡さん、ちょっと」
男は盤の上で手を止めた。右の袖口の下に、小さな黄色い火があった。
「燃えてます」
言った途端に火は引っ込み、煙も消えた。芳乃は自分のグラスを見た。水面には窓の光が揺れている。反射を見間違えたのかもしれなかった。

小幡は何も訊き返さなかった。石を置いて、両手を膝へ戻した。シャツの袖口には黒い縁ができていた。

芳乃は席を立ち、岡村のそばへ行った。厨房の洗い桶に水が張ってあった。
「あちらの方、袖が焦げたみたい」
「どなた。今来た人?」
「私と打ってる人。煙が出たの」
岡村はパンの耳を口に放り込み、手を拭いてカウンターから出てきた。関にも声をかけた。三人で向かっていくことになり、芳乃は大事にしすぎた気がして、小幡へ笑いかけようとした。

男の肩が燃えていた。

右の肩から首へ、揺れる黄色いものが這っていた。炎の先が耳の後ろまで伸びて、短い髪の中へ入っていった。小幡は目を伏せたまま、盤を見ている。黒石を置く場所を探していた。

「立って。早く立ってください」
芳乃が呼ぶと、小幡は顔を上げた。口元が少し緩んだ。それが、助けを求める人の顔には見えなかった。
「まだ途中です」
「服に火がついてます」
「ええ」
右の眉にも、火が移った。

岡村が芳乃の脇をすり抜け、男の背に手を伸ばした。止める間もなく、燃える肩を二度叩いた。
「煙草ですか。ここは駄目ですよ」
手に火は移らなかった。岡村は掌を一度見て、もう一度、肩へ目をやった。そこでやっと足を引いた。

関が壁の消火器を取った。芳乃は厨房から洗い桶を抱えてきた。水が腹へこぼれ、ズボンの前が冷たくなった。男の髪は燃え続けている。焦げた部分が縮れ、赤い耳の縁が光っていた。頭を冷やさなければならない。それ以外のことは思いつかなかった。

小幡はこちらを見た。
「やめて」
初めて大きな声を出した。芳乃は桶を傾けかけたところだった。水が、男の左の頬と胸へかかった。

椅子が後ろへ倒れた。
小幡は立ち上がり、頬を押さえてカウンターへ逃げた。踏んだ水で靴が滑り、端へつかまり損ねた。身体を床へ打ちつけた音が、店じゅうに響いた。

「痛い」
男はそう言った。
繰り返す声は小さかった。左手で頬を覆い、右手でその手を剥がそうとしていた。掌の下から、赤黒い水が細く流れた。

芳乃は桶を置いた。まだ半分ほど水があった。自分の腹も脚も濡れている。冷たい、ただの水だった。

小幡の髪は燃えたままだった。床へ伏せると火が頭から離れ、上へ長く伸びた。眉のあった場所は黒くなっていた。頬を押さえた手を外した時、芳乃はそこに、濡れた紙を剥がしたような赤い面を見た。水が流れた筋に沿って、肌が裂けていた。

関は消火器のホースを向けていたが、噴射はしていなかった。
「救急、呼ぶからね」
岡村が電話を取りに行った。芳乃は床の男へ近づこうとして、小幡が靴をばたつかせたために止まった。顔を覆ったまま後ろへ下がり、カウンターの下へ入ろうとしていた。

「もう、かけません。水はかけませんから」
芳乃は両手を男に見せた。桶を関のほうへ押した。小幡は、その桶が離れるのを見届けてから、壁に背をつけた。

奥の客が一人、扉を開けた。火事だと叫びながら外へ出て、残る三人も鞄を取って続いた。呼ばれた関が消火器を持って戸口へ行った。芳乃は男から離れられなかった。自分がかけた水の下で、皮がずれたのを見てしまった。

店主は電話で住所を告げていた。服が燃えている、意識はある、男の人が一人。聞こえてくる説明のどれも間違っていなかった。芳乃は床へしゃがみ、男と目を合わせようとした。

「何をしてあげればいいですか」
小幡は口を開けた。その奥に火があった。舌の両脇で細い炎が立ち、前歯の裏へ届いていた。男が息を吸うと、火は口の奥へ引っ込んだ。息を吐く時に、また揺れた。

「もう、帰ります」
それだけ言って、膝を立てようとした。左の靴が水溜まりに入った途端、短く叫んだ。芳乃は靴を引こうとして、その足へ触れた。

熱くなかった。
靴の革は温かい程度で、芳乃の指に焦げ跡もつかなかった。彼女は足を持ち上げ、乾いた床へずらした。小幡は膝を抱えて、長く息を吐いた。息と一緒に、口から明るい火が出た。

男の頭から上がる煙が、カウンターの上に低く溜まり始めた。目を細めると、入口の上にある時計が霞んで見えた。

濡れたズボンの布が足首へ貼りついていた。小幡はそこに指を入れ、肌から引き剥がそうとした。その指先まで赤くなった。芳乃は肩に掛けていた薄い上着を脱ぎ、床の水へ押し当てた。男はまた後ずさった。
「拭くだけ。床を拭くだけです」
芳乃は桶を自分の足元へ引き、上着をその上で絞った。水が跳ねる音で、男の肩が縮んだ。

窓の外に人が集まり始めていた。携帯を胸の前へ構えた人が、ガラスへ近づいた。芳乃はその人に向けて手を振った。男の顔を撮らないでほしかった。小幡は頬を隠し、カウンターの奥へ目を向けていた。

芳乃は、あの人にも見えているだろうかと思った。火のことではなかった。燃えているのに平気だった人が、冷たい水を怖がって、口を閉じることもできなくなっている。さっきから何度も、唇を合わせようとしては、痛そうに開いているのだった。

「水は、飲まない人なんですか」
訊いてから、なんて馬鹿なことを言ったのだろうと思った。
小幡は首を振った。
「今は」
そのあと何か言いかけ、右の手で口を押さえた。火が指の隙間を通り、爪の端へついた。男はその手を下ろさず、目を閉じて待った。手を離した時、唇は元の形へ閉じていた。左頬の赤い面だけは、濡れて光ったままだった。

電話を終えた岡村が、濡らしていないタオルを持ってきた。芳乃は受け取り、男の膝の近くへ置いた。小幡はそれを取り、傷のある頬へそっと添えた。頭の火が、タオルの端を舐めた。白い布は焦げなかった。

「外へ出ましょう。ここ、煙がありますから」
岡村が言った。小幡は芳乃と店主の顔を順に見た。それから頷き、カウンターへ片手をかけて立った。芳乃は触れてもよいものか迷い、肘の下へ掌を添えるだけにした。シャツの袖が指に当たった。さらさらした、乾いた布だった。

戸口まで行くと、小幡は足を止めた。

店の前の歩道で、関が消火器を構えていた。誰かが持ってきたバケツが二つ、その隣に並んでいた。遠くからサイレンが近づいてくる。小幡の指が、芳乃の手首へ食い込んだ。
「あれ、どけてください」
芳乃は最初、消火器のことだと思った。関へ声をかけようとして、男がバケツを見ていると気づいた。

「水、離して。こっちへ持ってこないで」
芳乃は戸口から叫んだ。関が眉を寄せた。通りに集まった人たちも、こちらを向いた。小幡は燃えた顔を、芳乃の背へ隠そうとした。

火が彼女の耳のすぐ横で揺れた。熱くはなかった。それでも、呼吸をするのが怖かった。焦げた髪の匂いが、もう甘くなかった。

芳乃は男の手をほどかなかった。歩道へ片足を出し、もう片方を店に残して、バケツが遠ざけられるのを待った。背中では男が、何度も、帰りたいと言っていた。

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