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帰る人の役

「帰らせてくれ、でいいんですね」
中西さんは椅子へ腰を下ろすと、渡された紙を膝の上で伸ばした。老眼鏡を忘れたらしく、紙を遠ざけては、また近づけていた。

町内の防災訓練で、私は避難所の受付をやることになっていた。中西さんは、家に戻りたがる人の役だった。印刷された説明には、受付の人から理由を聞かれたら、薬を取りに行きたいと答えるよう書いてあった。
「薬、何の薬ですか」
私が訊くと、世話役の細井さんは、そこまで決めなくていい、と笑った。
「練習なんだから。二人で適当にやってよ」

私は、その適当が苦手だった。町内の役を受けたのは初めてで、誰へどこまで訊いていいのかも分からない。家を買って七年になるのに、近所の人を顔でしか知らなかった。職場では人の名前をすぐ覚えられるのに、町内では何々さんの御主人、という呼び方で済ませていた。

中西さんとは、月一度の資源回収で一緒になる。折った段ボールを私が縛っている間に、余った紐を短く切ってくれる人だった。受付の練習をしてくれないかと頼むと、それなら口だけで済む、と引き受けてくれた。

会場は団地の集会所だった。玄関の右に事務室、左に調理室、突き当たりの引き戸を開けると広い板の間がある。昼間使っていた卓球台を壁へ寄せ、その跡へ青いシートと長机を並べた。窓の向こうに小さな広場があり、向かいの棟の廊下の灯りが見えた。

その年は、夜にも一度やってみよう、ということになった。勤めから戻ってくる人に合わせ、開始は七時の予定だった。ところが、弁当を届ける店の都合で三十分早くなった。回覧板に訂正を入れたのは細井さんで、班ごとに電話をしたのは私たち役員だった。

一回目はあっけなく終わった。中西さんが、薬を取りに帰りたい、と言い、私が、持病がおありですか、と訊く。彼は少し考え、いろいろあるよ、と答えた。後ろにいた人が笑った。私は紙に書いてある続きが分からなくなって、細井さんの方を見た。
「勝手に帰ったことにしなければ、それでいいんだよ」
細井さんは中西さんを立たせた。私の欄へ丸をつけて、次の係へ回した。

中西さんは携帯を見ていた。
「俺、もう帰ってもいいかな。今日は親父の飯があるから」
お父さんは独りで暮らしていて、毎晩一度は様子を見に行くのだという。私は自分も帰りたいと思っていたので、つい、もうすぐですよ、と答えてしまった。

七時を少し過ぎて、玄関が騒がしくなった。
五班の人たちが入ってきた。開始時刻を変えた電話が回っていなかった。子供を風呂へ入れてから来た人も、夕飯を置いてきた人もいる。終わっていると聞くと、一人の女性が、うちには七時って、と配布した紙を出した。

私は細井さんを捜した。細井さんは調理室にいて、弁当の数を数えていた。私の話を聞くと、紙の袋を抱えたまま、困ったな、と言った。
「受付だけ、もう一回やってもらえないかな。ここまで来てもらったんだから」
中西さんは靴を履きかけていた。私は、すみません、一度だけ、と頭を下げた。
彼は片足を上がり框へ戻した。
「今度は帰らせてよ」
冗談だと思って、私は笑った。

中西さんは先ほどと同じ椅子へ座り、紙を私へ返した。
「これ、持ってても見えないから」
私は用紙を裏返して机へ置いた。五班の人たちが、入口の方に半円になって立った。細井さんは、こういうこともありますからね、と説明を始めた。何を指して言っているのか、私は聞いていなかった。

「家へ帰りたいんですけど」
中西さんが言った。
私は、はい、と答えてしまった。後ろから細井さんが、まだまだ、と笑った。
「何を取りに戻られますか」
訊き直すと、中西さんは口元へ手をやった。
「置いてきたの。ああいう所へ、置いとけないでしょ」

急に女の人のような言い方になった。声は中西さんのままだったが、句切るところで息が細く抜けた。彼は自分の喉へ手を当て、その手を膝へ戻した。練習を面白くしているのだと思った。五班の女性が一人、頷いていた。

「御家族ですか」
私が訊くと、中西さんは、そうじゃないのよ、と早口で答えた。
「はしご。下ろしたままなの。二階から、下りてきちゃうのよ」

私は細井さんの方を見た。細井さんは、続けて、と手で示した。
「戸締まりのことですか」
「戸は閉めた。だから、はしごなのよ」

そこで中西さんが噎せた。咳を二つしてから、額に浮いた汗を袖で拭いた。
「ごめん、何だっけ」
今度はいつもの声だった。私が紙を裏返すと、彼は身を乗り出し、薬、と読んだ。
「薬をね。取りに帰りたい」

五班の女性が、はしごはいいんですか、と声をかけた。
中西さんは笑わなかった。
「はしご?」

私は、役を変えて難しくしてくださったんです、と言った。中西さんの顔を見るのを避けた。自分でもなぜ、そんなことを言ったのか分からない。細井さんへ助けを求めるより、私が説明した方が早かった。女性は、それなら先に言ってくれないと、と笑った。

中西さんは椅子を引き、立ちかけた。
「もういいか。これ以上は」
膝から手が離れたところで、腰が下りた。座り直したのかと思ったが、椅子は少し後ろへずれていた。彼は端に尻を掛け、片手を机へついた。

「だめなんですか」

私に向かっていた。唇の両端を固く結び、何度か喉を動かしてから、もう一度同じことを訊いた。今度の言い方は中西さんのものだった。私は立ち上がって、終わりです、と言った。
「ありがとうございました。これで」

中西さんも立った。
出口へ二歩進むと、急に引き返した。私を押し退けるようにして椅子を探し、さっきと同じ向きに座った。机の端へ両手を揃え、何かを待っていた。

「中西さん?」
私は机の脇を回った。
「俺、何してるんだろ」
彼は膝へ下ろした両手を見ていた。困って笑う口の形のまま、顎が小さく震えた。
「帰るって、言ってるよな、俺」

後ろで誰かが手を叩いた。乾いた音が一度しただけで、続かなかった。細井さんが、少し休んで、と言った。私は中西さんの正面へ回り、帰るなら送ります、と言った。彼は頷き、膝に置いた手をまた机の縁へ掛けた。

「痺れたんじゃない?」
五班の男の人が言った。中西さんはその人へ顔を上げた。
「連れていってくれる?」
男の人は笑ったまま頷いた。
中西さんが、私の腕を掴んだ。

指の力が強かった。
「今、俺が言った?」
彼は男の人の方を向いたまま、私に訊いた。
「言いましたよ」
「何て」
答えようとすると、同じ口が先に動いた。
「じゃあ、支度しますから」

中西さんは私の腕から指を離し、自分の口を押さえた。

それで、見ていた人たちが後ろへ下がった。中西さんの目に涙が溜まっていた。彼は口を塞いだ手を、反対の手で上から押していた。鼻で息をしようとして肩が上がり、そのたびに、小さな声が指の間から漏れた。

私は手をどけてもらおうとした。中西さんは首を振った。細井さんが、皆さん弁当はあちらです、と玄関を指した。動く人はいなかった。五班の女性が、救急車を呼んだ方が、と言い、もう一人が携帯を取り出した。

「そうして。頼みます」
私が言うと、細井さんは私の袖を引いた。
「その前に、向こうで話してくれないか」
何を、と訊く代わりに、私はその手を振り払った。細井さんは中西さんに見えないよう、顔を背けた。
「俺が頼んだんじゃないよ。あんなことまで」

私は、分かってます、と言った。細井さんが息を吐いた。
「急に何か始めたから、五班の誰かと打ち合わせたのかと思って」
私もそういう説明をしたばかりだった。細井さんにだけ腹を立てるわけにはいかなかった。

中西さんが机を叩いた。
口から片手が離れていた。その手で、出口を指した。私は椅子ごとならどうかと思い、背もたれへ手を掛けた。
「椅子のまま、動かしますよ」
彼が頷いた。

玄関から、靴の音がした。
誰かが戸を引いて入ってきた。白いシャツの年配の男だった。細井さんと顔を見合わせ、まだやってたの、と言った。四班の田辺さんだった。一回目の訓練で、私の向かいへ座った人の一人だった。

「携帯忘れちゃって。ここへ置かなかったかな」
田辺さんは長机の下を覗いた。私が返事をする前に、中西さんが口から両手を離した。

「見つかった?」

女の人の声だった。今度は、誰の声かと思って顔を上げるほど違っていた。
田辺さんが、机の下を覗き込んだ顔を上げた。
「いや、まだ」
普通に返事をした。

中西さんの顔から、涙が顎へ落ちた。
「早く帰ろう。いつまでも、こんな所へ」
田辺さんは立ったまま、中西さんを見ていた。首を少し傾けた。聞き覚えのある声なのか、田辺さんは中西さんへ近づきかけた。けれど知り合いだと言うでも、誰だと訊くでもなかった。

中西さんは私の袖を引いた。
「今、何時」
私は腕時計を見た。七時半を過ぎていた。
「三十分も、こうしてた?」
一回目からなら、もっと経っていた。そう言いかけた私へ、田辺さんが、そんなには経ってない、と言った。
「俺、出たばっかりだよ」

田辺さんは携帯を忘れたことに、車へ戻って気づいたという。車は集会所の前にあった。そこまで行って帰ってくるだけだから、まだ一回目の途中なのだと思っていたらしい。私は、五班の人が来て、二度目を、と説明しかけた。

玄関でまた戸が開いた。
今度は二人だった。夫婦かと思ったが、別々に靴を脱いだ。一人は袋に残っていた弁当を取りに、もう一人は上着を忘れたという。どちらも一回目に来た人だった。

中西さんがそちらへ顔を向けた。
「まだいたの」
私は椅子から手を離した。彼の口から出たのは私の声に似ていた。似ているだけで、私はそんな言い方をしないと思った。軽く、親しげで、帰ってきた人を喜んでいた。

田辺さんが、自分の胸ポケットへ手を入れた。
携帯が入っていた。
彼は取り出して画面を見た。何か言うつもりだった口を開けたまま、その場へ座った。入口の二人も、机へ来ずに戸口へ腰を下ろした。上着を忘れたと言った人は、その上着をもう着ていた。

細井さんは玄関へ向かった。私は誰かに説明しに行くのだと思った。彼は戸を開け、外を見たあと、ゆっくりこちらへ戻ってきた。
「向かいの棟まで行った人も、戻ってきてる」

中西さんは椅子から立った。
今度は椅子へ戻らなかった。一歩、二歩と歩いたので、私は肩へ手を添えた。彼は手を払いのけず、私と並んで玄関へ向かった。入口に座った人たちが、足を畳んで通してくれた。

上がり框へ来ると、中西さんは自分の靴を見つけた。左を履き、次に右へ足を入れた。踵を指で起こしてから、私へ、ごめん、と言った。
「俺、帰るの嫌だ」

私は彼の顔を見た。中西さんの声で、中西さんの顔だった。
「帰りたいんじゃないんですか」
訊いてから、あの紙に書いてあっただけだ、と思い出した。薬を取りに帰りたい。それは私が手渡した役の説明だった。

中西さんは開いた戸へ目を向けた。
「さっき、一度出たんだよ」
「さっき?」
「お前が、もうすぐ終わるって言ったあと」
彼は喉を押さえた。玄関の外から、足音が近づいてきた。
「俺、そこまで行って。誰かが待ってたから、一緒に戻ってきた」

私は、中西さんが靴を履きかけていた姿を思い出した。あの時には、片足だけ脱げていたのだろうか。履いていた途中と、私が勝手に決めただけではないのか。

戸口へ、見知らぬ女の人が立った。
大きな荷物は持っていなかった。胸の前で両手を重ね、集会所の中を見ていた。
「まだ、入っていいですか」
私は中西さんの腕を掴んだ。彼は女の人を見ずに、私の手へしがみついた。

細井さんが、はい、と答えかけた。
私は振り返り、首を振った。何を断ればいいのか分からなかった。ただ、細井さんに、今ここで知らない人へ頷いてほしくなかった。

女の人は私たちの返事を待たず、脇へ寄った。
後ろから、田辺さんが入ってきた。

板の間にも田辺さんが座っていた。胸ポケットから出した携帯を、両手で持っていた。入ってきた田辺さんは、靴を脱ぎながら、その人へ、見つかった、と訊いた。座っている方は顔を上げなかった。

中西さんの手が私の肘まで上がってきた。
「どっちへ行けばいい」
私は腕を引いて、彼を板の間へ戻した。帰らせてほしいと言われたら、帰れない理由を説明する。そんな練習をしていたはずだった。

電話をかけていた五班の女性が、こちらへ携帯を向けた。
「係の人、代わってって」
私は受け取った。相手は救急車を向かわせるので、入口に誰か立ってほしいと言っていた。中西さんが私の袖を握っている。玄関には、田辺さんが二人いた。

「入口では待てません」
私が言うと、電話の向こうで、どうしました、と訊かれた。
私は玄関に近い側の窓を見た。駐車場へ直接出る低い窓だった。中西さんへ窓を示すと、彼は大きく首を振り、それから、分からない、と言った。

外から来た田辺さんが、部屋へ上がった。女の人も続いた。二人とも濡れても汚れてもいなかった。田辺さんは、座っている自分の向かいへ腰を下ろした。

私は救急の人へ、窓のところにいます、と伝えた。中西さんと二人でそこまで歩いた。鍵を開けたが、窓は動かさなかった。ガラス越しなら、外から来る人の顔を先に見られた。

中西さんはまだ靴を履いていた。私の足の横へ二つ、泥のついた底を並べ、窓へ額をつけた。
「親父には、俺が電話するから」
彼はそれだけを、自分の声で何度も言った。

受付の机が空いていた。女の人はその前へ立ち、私を待っていた。

電話の人が、中西さんと話せるかと訊いた。私が携帯を差し出すと、中西さんは受け取って耳へ当てた。自分の名前を、姓と名に分けて伝えた。声は落ち着いていた。

少しして、電話を下ろしかけた。
途中でまた耳へ戻し、背筋を伸ばした。
「代わりました。もしもし」
今度の声を、中西さんは口を閉じて止めようとした。頬が膨らみ、唇の間から、はい、はい、と返事が漏れた。

私は彼の肘を支えていた。中西さんは携帯を私へ押しつけ、離しかけた手でまた強く掴んだ。

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