雨に濡れた幟は、思っていたより重かった。三浦は布の端を持ち直し、向かいの須藤にもう少しゆっくり下ろしてくれと言った。須藤は聞こえなかったらしく、竹竿をそのまま寝かせた。三浦の手から白い布が滑り、地面へついた。
「そこ、泥になるよ」
言われなくても分かっている。三浦は声に出さず、布を拾った。
祭りが終わった翌日の午前だった。夜のうちに降った雨は上がり、神社の境内では子供が水溜まりを踏んでいた。片づけに来たのは町内会の七人で、三浦がいちばん若く、唯一の女だった。昨日は朝から釣銭の袋を首に提げていた。三十四歳にもなって、女子にお金を預かってもらおうと言われるのには参った。新しい賃貸の住人が持ち回りで班長になると聞いた時、回覧板を配る程度の役だと思って引き受けた。祭りの三日間は会社へ行くより早く起きていた。
須藤は元の班長だった。何をどこへしまうかは彼しか知らず、皆が指示を待った。三浦は昼の一時から歯医者の予約があった。十時には終わると言われていたので、その話をしたことがない。
「あれ、そっちも降りたんだ」
いつの間にか、隣の幟が竿から外れていた。背の低い男が、畳んだ布を石の上に置くところだった。黄色い雨具のズボンをはき、上は薄手の灰色のシャツだった。朝、須藤から根岸さんと紹介された。三浦の住む棟へ先月越してきた人だという。
三浦は彼が作業するのを見ていたはずだった。竿と布を留める紐は、濡れて締まり、三浦の爪では隙間も作れなかった。それを根岸は指先でつまみ、竿の向こうへ少し回しただけだった。
地面に落ちた紐を拾うと、両端が結んであった。輪のままだった。
「切らなかったんですか」
「切ると短くなるから」
「でも、結んでありますよ」
根岸は布の泥を手で払った。指の先に白い皮がめくれていた。三浦が見せようとした輪を、見なかった。
須藤が別の幟を指し、そっちもやってくれないかと頼んだ。根岸は返事をして移った。三浦は輪を結び直した跡を探したが、古い結び目のくぼみには砂が詰まっていた。
五本ある幟が、十分ほどで外れた。皆が根岸に感心していた。普段何の仕事をしているのかと聞かれると、今は休んでいる、とだけ答えた。須藤は、こっちにこんな人がいるなら去年も楽だったのに、と笑った。
根岸は三浦へ畳んだ布を渡した。
「重いの、嫌でしょう」
「持てます」
「嫌なら嫌でいいんですよ」
三浦は返事に迷った。布を受け取ると、根岸は彼女の腕へ掌を添えて重さを確かめ、それから放した。その手つきが、荷物を持たせた後に相手の顔を見る須藤と少し違った。
境内の隅には、提灯を吊るすために組んだ木の骨組みが残っていた。二本の横木が榎本という大きな男の胸ほどの高さで交差し、太い綿の縄で縛ってある。榎本は縄をほどこうと左腕を上げ、すぐに下ろした。肘が痛むのだと言った。
「昨日は平気だったじゃないか」
「昨日やったから、今日痛いんですよ」
榎本は苦笑していた。三浦には、わざと明るく返しているように聞こえた。彼は軽食の屋台に立つため仕事を休んだと、昨日の昼にも言っていた。
根岸が横木へ寄った。榎本より頭ひとつ小さい。須藤は長い横木の右端を両手で支え、榎本が短いほうの真ん中を持った。根岸は背伸びもせず、結び目から垂れている縄を持った。
「そこ引いたって」
須藤が言い終える前に、根岸の手に縄が揃った。木は落ちなかった。短い横木を持っていた榎本の肘が下がった。まだ結び目を緩めているところだと思い、右手だけで支えていたのだ。急に全部の重さを受け、膝を曲げた。
三浦が走って片端を持った。二人で地面へ置いた時、榎本は左腕を抱えていた。根岸は縄を巻いていた。四重に重なった中央の結び目は、つぶれた団子のように固まったままだった。
「榎本さん、救急とか」
「そこまでじゃない。筋、やっちゃっただけ」
榎本は肘を曲げようとして、顔をしかめた。
根岸が近づいた。
「挟まったんでしょう。見せて」
「木には挟んでないよ」
「そっちじゃなくて」
根岸は榎本の左袖をつまんだ。榎本は笑いながら、ああ、脱ぐの手伝って、と腕を上げかけた。その瞬間、根岸の手が肘の下へ消えた。
シャツの袖の口は、三浦のほうを向いていた。そこには榎本の太い腕が通っている。根岸が指を差し入れたのは、袖の、布の途中だった。布は裂けずに指へ沿い、入った先の輪郭も見えなかった。
榎本の笑いが止まった。
「何やってる」
根岸が手を引いた。白い長袖がついてきた。榎本が今着ているのは、青い半袖のシャツだった。白い袖は肘の辺りで折れ、根岸の指に挟まれたまま伸びてきた。湿っていて、黄色い細い縞があった。
「やめて」
榎本は低い声を出した。「それ、やめて」
根岸は手を止めた。白い袖の先に、握り拳があった。榎本の左腕は青い袖から出ていて、彼自身が右手で支えている。もう一本の腕が、半袖の縫い目のないところから、肘を先に出していた。
三浦は二歩下がり、竹竿につまずいた。転ばずに済んだが、声が出た。須藤が振り向き、根岸の背後へ近寄った。榎本の顔を見ると、須藤も口を開けたまま止まった。
「あんたのじゃないの」
根岸は榎本へ聞いた。
榎本は首を振った。喉がひくひく動いていた。
「じゃあ、離れて」
「離れるって、どうやって」
白い袖の拳が開いた。人差し指だけが立ち、榎本の青いシャツの胸に触れた。それから、胸のボタンを一つ外した。
榎本は根岸の手を払い、横へ逃げようとした。白い腕が突っ張った。青いシャツが肘の上で深くへこみ、榎本は引き戻された。
根岸は白い袖を放さなかった。
「動かないで。途中でやると、引っかかるから」
三浦は電話を取り出していた。救急へ何と説明するか考えるより先に、榎本が助けてくれと言った。根岸に向けてではなかった。三浦の目を見ていた。汗が頬を伝い、顎の下から落ちた。
「根岸さん、手、離してください」
三浦が言うと、根岸は彼女へ顔を向けた。
「戻ってもいいんですか」
「痛がってるから」
白い指が二つ目のボタンへ掛かった。三浦は電話を右手に持ったまま、左手で榎本の襟をつかんだ。引き離そうとしたのではない。胸を開けさせたくなかった。冷たくなった布の下で、掌に硬いものが当たった。
内側から三浦の手を握る手だった。
三浦は襟を放した。布越しの握手が解けず、榎本の胸元へ左手が残った。指を伸ばそうとしても、相手の指が間に挟まっていて伸ばせなかった。榎本は口を閉じた。三浦の手を見て、自分が叫べば余計に引かれると思ったように、肩で浅く息をしていた。
須藤が根岸の肩をつかんだ。
「何したんだよ、おい」
根岸は振り返らず、白い袖を引き直した。袖が出た分だけ、三浦の左手は榎本の胸へ沈んだ。胸板を押した感触はなかった。指を握る相手の、汗で滑る皮膚が分かるだけだった。
三浦は電話を地面へ落とした。空いた右手で左の手首をつかみ、引き抜こうとした。左手は動かず、手首から先が見えなくなった。青い布は破れていなかった。袖口から出ている榎本自身の左腕が、すぐ隣にあった。
「引っ張らないで」
自分が言ったのか榎本が言ったのか、三浦には分からなかった。根岸だけが、大丈夫です、と言った。
須藤は手を離した。周りにいた人の一人が駆け寄り、何があったのかと聞いた。須藤は、腕が、と言って続かなかった。根岸の足元に白い服の肩が出ていた。そこから二本目の袖が、地面へ伸びていた。
三浦の手を握っているのは、この袖の先にある手なのだと思った。見えている白い袖口には、何もなかった。握られる感触はまだ、榎本の胸の奥にあった。
「止めてください。もう出さないで」
三浦が言うと、根岸は初めて困った顔をした。
「途中だと、つながってますよ」
「いいです。止めて」
根岸は指を緩めた。白い服は地面へ落ちず、榎本の腕と胸にぶら下がった。服の肩のところが少し持ち上がり、三浦の掌が強く握られた。三浦は榎本を見た。榎本も彼女を見ていた。
「こいつ、何か言ってる?」
榎本が聞いた。
三浦は首を振った。
「俺のほうでは、ずっと言ってる。早くしろって」
三浦の掌に、爪が当たった。急かすように、二度。痛くはなかった。握っている相手が、こちらの手をほどく気はないことだけが分かった。
根岸はしゃがみ、地面に置いた太い縄を拾った。さっき横木から抜いた縄だった。中央の結び目を榎本の左肘の下へ寄せた。
「やめろ」
須藤が言った。根岸は、こちらへ移すだけだから、と答えた。
三浦は、その時にはもう、根岸が何をしているのか知りたくなかった。説明を聞いてから決める時間などなかった。榎本の顔が傾き、彼の右手が三浦の肩へ落ちてきた。大きな身体を支えきれず、二人ともしゃがみ込んだ。
根岸が縄を白い肩へ重ねた。結び目が布の中へ半分入り、三浦の指が一本ずつ解けた。三浦は勢い余って尻餅をついた。左手は何ともなっていなかった。爪も指輪もあった。榎本の胸のボタンが二つ外れ、汗の浮いた肌が見えた。
白い服は縄に巻き込まれていた。根岸が端を引くと、布も、その中の膨らみも、固い結び目の裏へ消えた。長袖の一部だけが縄の間にはさまっていた。
榎本が泣き出した。喉から出る声を抑えようとして、何度も咳き込んだ。須藤は彼の背をさすり、三浦が地面の電話を拾うのを待っていた。三浦は救急へ電話し、男性が倒れたこと、腕に痛みがあること、意識はあることを伝えた。
住所を答えている間に、根岸は縄を腰の辺りへ持ち上げた。結び目の両側を引き、絡んだ白い布を確かめていた。
「それ、置いといて」
三浦が電話から口を離して言った。
根岸は、はい、と答えた。
救急車が入れるよう、須藤が参道の鎖を外しに行った。残った人たちが、倒した竿を道の脇へ寄せた。三浦は榎本の横で待った。彼は左腕を抱え、青いシャツのボタンを自分で留めようとしていた。二つ目が留まらず、三浦が手を出すと、首を振って止めた。
根岸の姿がなくなっていた。縄は木の台の上にあった。三浦は触らずに近づいた。結び目から、白い袖が少し出ていた。先には手があり、指を曲げて台の縁をつかんでいた。
根岸が履いていた黄色い雨具が、台の下に脱いであった。畳まずに脚をそろえて置かれ、腰のところには草の実が一つ付いていた。
三浦が顔を上げると、参道を戻ってくる須藤が見えた。
「根岸さん、帰った?」
「そっちにいなかったんですか」
須藤は台を見た。縄へ伸ばしかけた手を引っ込めた。白い指が、台の縁を離したところだった。縄の下から灰色の布が出てきた。肩を先に、少しずつ。三浦は黄色い雨具を見たまま、動けなくなった。
結び目の内側で、誰かが膝を立てた。


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