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池のまんなかのベンチ

「あの人、手を振ってませんか」
昼休みの公園で、隣のベンチの女にそう言われた。池の真ん中を指していた。浅い池で、噴水は節電のため止まっている。水は濁っていたが、人が入ればすぐ分かる広さだった。私はサンドイッチの袋を膝へ置き、柵の間から覗いた。
水の上に、ベンチが一脚あった。

正確には水の中にあるようにも見えた。赤茶色の座面だけが浮かび、両端の脚が下へ沈んでいる。女の人が腰掛けていた。青い半袖のブラウスを着て、片手を上げていた。噴水の丸い台より向こうだったので、岸からは十五メートルほどあった。
「撮影でしょうか」
私が言うと、隣の女は、かもしれません、と答えた。

その公園は会社から五分くらいで、昼に食べる場所がないときに来ていた。普段ならベンチはほとんど埋まっている。雨が上がったばかりのその日は空いていた。隣の女も私も、座面をハンカチで拭いて座った。年は私と同じ三十くらい。足元の紙袋から、履き替え用らしい靴が覗いていた。

「こんなところに、前からありました?」
女は池のベンチを見ていた。彼女も青いブラウスだった。そのことは初めから目に入っていた。色だけなら珍しくない。だが右の袖に、細い白い折り目があった。池の女にも同じ折り目があった。隣の女が自分の肘をこすると、池のほうの女は動かずに座っていた。
ただの反射ではない。反射なら、位置もおかしい。

「お知り合いじゃないんですか」
訊くと女は、いいえ、と首を振った。
そのとき池の女が、遅れて肘をこすった。私は立ち上がった。隣の女も腰を浮かせたが、すぐ座り直した。
「立たないで」
「何でですか」
「まだ、座ってるから」
彼女の視線を追うと、池の女はもう立っていた。岸の女が立ちかけるよりも先に、腰が座面を離れていた気がした。

池の柵には、鯉に餌をやらないようにという板が掛かっていた。以前は鯉がいたのかもしれない。私はずっとこの辺で働いているのに、そんなことも知らなかった。知らない設備が池の中央にあっても不思議ではない。そう考えようとした。けれど岸には撮影の人も、渡るための板もなかった。池の女の足は、水面のすぐ下で止まっていた。

私は携帯で公園の管理事務所を探した。検索画面を出していると、隣の女が私の手首に触れた。指が濡れていた。
「大丈夫です。私、行きます」
彼女は膝の紙袋を抱え直した。指の濡れたところから水が垂れ、紙に丸い染みを作った。ブラウスや髪は乾いている。私は自分の手首についた水を拭いた。池の匂いがした。

女はこの近くの会社へ面接に行くところだと言った。早く着きすぎたので、靴を履き替えながら待っていた。応募書類を入れる角形の封筒も持っていた。封筒は膝の下に隠れていた。私は自分が就職活動をしていたとき、書類を皺にしないよう、座る場所に困ったことを思い出した。
「何時からですか」
「一時」
時計は十二時三十三分だった。私は一時には会社へ戻らなければならなかった。

池の女が、両腕を前へ伸ばした。手を振っているように見えたのはその動作だった。手首から先だけ、力が入らないように垂れていた。岸の女の指が、紙袋の紐から外れた。
袋が倒れた。片方の靴が、柵の手前まで転がった。
拾おうとした私を、彼女が肘で止めた。手では止められなかったのだと思う。両手は膝の上にあり、指先だけが池へ向いていた。

私はもう、気味の悪さを言葉にするのをやめた。
「具合、悪いですよね。救急車を呼びます」
女は首を振った。断ったからといって、放ってはおけないと思った。電話を掛け、場所と、手が動かなくなった女性がいることを伝えた。女は途中から電話の相手へ聞こえるよう、息を吸い込んだ。
「入ってないです」
それを何度か言った。水には入っていない。ずっとここにいた。
私もそれは見ていた。

電話の指示に答えているあいだ、池の女は上着を着るように、自分の胸を両手で引いた。何も羽織っていなかった。青い布の前が開き、首の下へ暗いものが覗いた。肌ではなく、岸からでは見えないほど細かい草のようだった。岸の女がむせた。
「口の中に何かありますか」
彼女は口を開けた。舌の上に、小さな藻が載っていた。唇の内側にも緑の細いものが絡んでいた。息をするたび、それが奥へ入ったり出たりした。

通りかかった男の人が立ち止まった。私が助けを求めると、池にいる人を見て、あっちですか、と言った。
両方です、と答えるしかなかった。
男の人は柵へ手を掛けた。池へ入るつもりらしかった。岸の女が突然、靴を履いていない足で男の脛を蹴った。鋭い音がして、男が怒鳴った。女は謝らず、膝を抱えて丸まった。

「触ったら、座れなくなる」
男は私を見た。私は首を振った。意味は分からなかった。けれど私は彼の上着の裾をつかんだ。池へ入ってもらいたくなかった。池の女が、手を伸ばしたままこちらへ笑っていたからだ。笑った顔が岸の女とは違っていた。似ていないのではなく、笑うのがひどく上手だった。

岸の女の右足に、赤い筋ができた。履いていたパンプスの縁より少し上だった。池の女が柵のない場所を歩くように、脛を何かへ当てた。赤い筋が深くなった。
男はしゃがみ、女の足元へ自分のハンカチを置いた。
「押さえられますか」
女は両手を見た。男が代わりに押さえた。彼女は今度は拒まなかった。助けを拒んでいるのではないと、そのとき思った。

私は救急車が入れる道を説明するため、少しだけ入口へ行った。五歩ほどの距離だった。戻ると、女が封筒を私へ差し出していた。指はまだ開いたままで、封筒の端を両肘で挟んでいた。
「もし、遅れたら」
言葉が切れ、喉から水が出た。透明ではなかった。男が背を支えた。
私は封筒を受け取らなかった。
「自分で連絡しましょう。電話は使えますから」
女は小さくうなずいた。少し怒っているようにも見えた。知らない人に正しいことを言われるのが嫌なのは、私にも分かった。

池のベンチが近くなっていた。
流れてきたのかと思ったが、水はほとんど動いていなかった。地面に固定されたベンチが池の中央から岸へ近づくなど、考えても仕方なかった。それでも私は目を離せなかった。女の脚が水面から出ていた。青いブラウスの女は、先ほどまで岸の女が履いていた片方の靴を履いていた。

岸の女が私の腕へ噛みついた。痛くて声が出た。彼女の顎が開かず、私も引き抜けなかった。歯の間に藻が挟まっていた。
「あっちを、見ないで」
噛んだまま言ったので、言葉はほとんど聞き取れなかった。私は彼女の頭を押さえそうになり、その手を止めた。肩を向こうへ押すと、彼女の口から腕が抜けた。小さな歯形がついた。水の中の女が、その場所をこちらへ向けて見せた。彼女の腕にも同じ歯形があった。

救急隊員が来たとき、岸の女は息を整えていた。手も動かせるようになっていた。池の女はすぐ後ろの水上に座っていた。隊員がそちらへ声を掛けたが、返事はなかった。公園の職員が長い棒を持って来て、池の深さを確かめ始めた。
私と男は、女から少し離された。手当てに邪魔になるからだった。女は急に落ち着いた声で、自分の名前と会社の電話番号を言った。私は、そのはっきりした声を初めて聞いた。

「付き添いの方ですか」
隊員に聞かれ、二人とも首を振った。女がこちらを見た。
「もう、大丈夫です」
それが私に向けた言葉か、池のほうへ言ったのか分からなかった。

隊員の一人が、女の膝から紙袋と封筒を持ち上げ、ベンチの座面へ並べた。もう一人に呼ばれ、そちらへ手を貸しに行った。

担架が動き出すと、水上の女も立った。足の裏が濁った水を踏んだ。沈まなかった。岸へ向かって三歩歩き、柵の間に身体を入れた。金属の棒をすり抜けたようには見えない。肩を狭め、肋骨を一本ずつ向こうからこちらへ出していた。
私は公園の職員へ声を掛けた。声が届いたときには、女はもう柵の外にいた。

濡れていなかった。池の匂いも、彼女のほうからはしなかった。
女はベンチの座面から紙袋を拾った。脱げた靴を足へ戻し、その隣の封筒を取り上げた。表に宛名が書かれていない封筒だった。私の見ている前で、角の皺を丁寧に伸ばした。
「遅れますから」
女はそう言って公園を出ていった。笑っていなかった。とても普通の、急いでいる人だった。

会社へは遅れた。上司に事情を話すと、病院へ行くよう言われた。腕の傷は浅かったが、人に噛まれたと説明した。女の名前は覚えていなかった。すぐ横で聞いたはずなのに、苗字の最初の一音も出てこなかった。
公園のベンチが水に浸かっていた話は、病院ではしなかった。

夕方、電話が来た。昼に手を貸してくれた男からだった。私の会社の名刺を渡していた。
「どうしても気になって」
彼はあのあと公園の職員へ話を聞いたらしい。池にはベンチなどなかった。水の下の小さな台が、椅子に見えたのではないかと言われたそうだ。彼は、それはいいんです、と続けた。
「運ばれたほうの人、靴、両方履いてましたよね」

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