私たちが最後に出店した日は、折り畳みの机を濡らして終わった。
月に一度、駅前の広場で小さな市が立つ。美紀が布の鞄を売り、私は古本、篠田は中古の台所用品を並べていた。三人とも本業は別にあり、売上より昼飯を一緒に食べるのが楽しみだった。
ただ、片づけのたびに篠田がいなくなる。煙草を買う、車を回す、トイレへ行く。その日に限っては私も我慢が切れ、美紀と二人で先に机を運んだ。
広場から駐車場へ行くには、大きな歩道橋の下を通った。信号を渡るための橋で、階段の一部が歩道へ長く張り出している。そこまで来たところで雨が落ち始めた。粒が大きく、道路に跳ねる白いものが見えた。
私たちは台車を橋の下へ寄せた。机は脚を畳み、箱の上に平らに載せていた。美紀の鞄はもう売れていたが、見本として吊るしていた一つが残っていた。濡らしたくないと言って、胸へ抱いた。
「篠田、傘持ってるよね」
美紀が携帯を見た。
私は返事をしなかった。さっき篠田がいなくなったとき、ちゃんと怒っておけばよかったと思っていた。普段から彼に何も言わないくせに、美紀と二人になると腹が立った。そういう自分も嫌だった。
篠田は五分ほどして来た。傘は閉じて持っていた。車へ荷物を一度運んでいたらしく、背中が濡れていた。
「こっち、まだだったの」
その言い方でまた腹が立った。美紀は、車を持ってきてよ、と言った。
「ここ、停められないよ」
篠田が大通りを指した。バスが水を巻き上げて通った。私たちは口を閉じた。雨のせいで喧嘩になったことにして、台車の上へ腰掛けた。
歩道橋の下にはほかにも雨宿りの人がいた。灰色のスーツを着た若い男と、白い買物袋を持った女。二人は階段の柱に近い、屋根の切れるぎりぎりのところに立っていた。
女の髪から雨が落ちていた。地面に水溜まりができていた。
少し待っても、水が落ちる量は減らなかった。
美紀が私の膝を軽く叩いた。
「あの人、ずっと濡れてない?」
言われて見ると、女の肩からも細い水が流れていた。雨の中から来たばかりなのだと思ったが、私たちが来たときにはもう立っていた。服が水を吸っているなら、あれほど長く同じ量は出ないだろう。
私たちは顔を見合わせた。女へ聞こえないように、美紀が口だけで、すごいね、と言った。
雨脚が少し強くなった。
向こうの横断歩道を人が渡っていた。傘を差していない人もいた。そのうち一人が、歩道橋の下へ入ってきた。若い男だった。半袖の襟をつまみ、胸から離した。よく見る動作だった。
ところが襟を離したあと、その指が戻らなかった。
手首の先から白い雨が散り、指がなくなった。
私は息を止めた。男は腕を下ろし、階段の柱へもたれた。肘の先はあった。手だけがなかった。腕の先から雨水が流れた。
篠田も見ていた。閉じた傘の先を地面へ押しつけ、身体を少し遠ざけた。
男は私たちを見なかった。
美紀が立った。見本の鞄を台車へ置いたので、私は彼女を止めようとした。けれど美紀は男のほうへ行かず、机に掛けていたシートを引いた。
雨が当たるところだけ、丸く色が薄くなっていた。
その丸みの中に、誰かの膝があった。
最初からそこに座っていたのかもしれない。美紀のすぐ隣だった。大人の膝が二つ、机の縁から出ていた。ズボンは見えず、白い脚に雨の粒が貼りついていた。
美紀はシートを引く手を止めた。
膝の上に、手が載った。細い指が五本、急に形を持った。肩も頭もなかった。雨の当たる机の端に、人の下半分だけが腰掛けていた。
私は美紀の手からシートを取った。掛け直すことも、剝がすこともできなかった。シートが雨を遮れば、その人の膝に触る気がした。
篠田が台車の取っ手を握った。
「もう行こう」
私は、どうやって、と言った。駐車場へは雨の中を歩くしかなかった。その雨には何人も立っていた。遠くからなら普通の人に見える。近くでは、頬の表面に水の粒が埋まっていた。雨が当たる側にだけ耳ができ、反対側の顔は薄かった。
美紀が座り直した。さっきの場所から、少し離れたところへ。
「待とう。濡れるし」
彼女はそれだけ言った。
篠田は不満そうだった。私は彼がいつものように一人でいなくならないか、取っ手に掛けた手を見ていた。彼の指にも雨が当たっていた。形は変わらなかった。爪の脇が赤く剝けているのが分かった。
買物袋の女が、私たちへ近づいた。
私は反射的に脚を引いた。彼女はそれを見て、立ち止まった。
「少し、寄ってもらえますか」
声は小さかったが、普通に聞こえた。隣へ座りたいらしかった。
美紀が自分の鞄を膝へ戻した。女は机の縁へ腰を下ろした。木の板が軋んだ。女の重みで、私の座る側が少し持ち上がった。
女の顔は、こめかみの辺りが欠けていた。頭蓋骨が見えるのではない。そこには橋の向こうのトラックの色が見えた。濡れた髪の一本一本はあったのに、その下だけ人がいなかった。
彼女は買物袋を足の間に挟んだ。中には長葱の青いところが見えた。葱から水が落ちていた。
私は袋の中を見るのをやめた。
篠田が携帯を出した。誰かに電話するのかと思った。彼は私へ画面を向けた。雨雲の動きを示す地図だった。
あと二十分くらい、と唇が動いた。
二十分で帰れるとは、私には思えなかった。それでもうなずいた。彼は画面をしまい、台車の下へしゃがんだ。本の入った箱を、濡れない場所へ押し込んでいた。私は手を出した。二人で箱の角を持った。
雨宿りの人が増えた。階段の途中からも降りてきた。橋には屋根がないので、階段を下りる途中までは全身が見えた。
最後の四段が橋の影へ入る。そこで頭がなくなる人がいた。腹から上が薄くなり、半袖のシャツだけが畳まれずに漂う人もいた。みんな、自分に足りないところがあるのを知っているように、狭い日陰でぶつからない場所を選んでいた。
私は時計を見た。雨が降り始めてから、まだ二十分も経っていなかった。
これまで同じ場所で何度も雨宿りした。今日だけ、この人たちが来たのだろうか。前にもすぐ隣で肩を濡らしていたのではないか。
女の買物袋が、私の足へ触れた。冷たかった。私は謝って、足を戻した。
女も謝った。私より、少し遅れて。
美紀が小さくくしゃみをした。
篠田が持っていた傘を開いた。雨宿りの場所で開いたので、骨の先が柱へ当たり、乾いた音がした。私も美紀も彼を見た。
「車、行ってくる」
今度は誰も文句を言わなかった。篠田は私たちの顔を順番に見て、それから傘の中へ入った。横断歩道まで、普通に歩いた。
私は彼の足を見ていた。
雨の中へ出ても、篠田の身体は何も変わらなかった。背中が濡れ、踵が水を跳ねた。信号が変わると渡っていった。
横にいた半袖の男も、同じ方向へ一歩出た。欠けていた手が、雨に打たれながら戻った。指の先から腕へ、続けて肉の色がついた。彼は両手を擦り合わせてから歩き出した。こちらを振り返ることはなかった。
美紀は目を閉じていた。眠っているのかと思った。
「頭が痛い?」
尋ねると首を振った。
「覚えたくない」
女のこめかみが私のすぐ横にあった。通りの向こうの薬局が、その穴から見えた。私も目を閉じた。机の上で誰かが腰をずらす重みだけが伝わってきた。
雨は、急に細くなった。
隣の女が立った。買物袋の底が濡れた地面へ引っ掛かり、私は持ってあげそうになった。女は両手で持ち直した。そこにはもう葱がなかった。青いものが、袋の内側を静かに流れていた。
女は私に会釈した。こめかみの穴が広がり、耳の上まで来ていた。それでも顔つきは変わらなかった。待っていればいいと思っている顔だった。
篠田が車から降り、手を振っていた。交差点の向こうの短い道に停めていた。私たちは机を二人で持ち上げた。
まだ誰かが座っているのではないかと怖かった。重さはいつもと同じだった。美紀の隣に見えた脚は、雨の切れ目と一緒になくなっていた。机を箱の中央へ載せ直し、台車を押した。
横断歩道を渡る前に、一度だけ橋を見た。
雨宿りの人は残っていた。灰色のスーツも、買物袋も、柱の脇にあった。顔のない人たちが、みんな外を向いて立っていた。
雨が止むのを待っていたのではなかった。
車に載せた本は端が少し膨らんでいた。篠田は謝った。私は、さっき来てくれたから、と答えた。美紀が後ろの席で鞄を抱き、今日はご飯を食べず帰ろうと言った。
三人とも、次の市には申し込まなかった。そこで何か決めたわけではない。連絡を取るたび、別の用事を先に話しただけだった。
机は今も篠田の倉庫にある。去年の冬、別の人へ貸したと聞いた。何もなかったそうだ。
この夏、私たちは久しぶりに会った。美紀が駅の反対側の店を予約した。店を出ると雨だった。篠田が先に傘を開き、美紀が少し待ってと言った。
向こうの歩道橋から、人が次々に下りてきた。
私たちは軒の下で、その人たちが渡り終えるのを待った。


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