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駅前の聞き役

私が返事をする前に、隣の席から私の声がした。
「それは、大変でしたね」
まだ誰も座っていない椅子の向こうだった。私は口を開きかけたまま、その言葉を聞いた。

駅前の広場で、人の話を聞く催しを手伝っていた。福祉団体が月に一度開いているもので、私は短期の受付スタッフだった。窓口で何かの相談先を決めるほどの知識はない。初めにそう伝えるよう言われていた。
机を三つ並べ、向かい合わせに椅子を置く。話したい人が来たら座ってもらう。生活の具体的な相談になれば、経験のある職員へ替わる。私は主に空いている席を案内した。

雨上がりの金曜日だった。仕事帰りの人が広場を抜けていった。
終了は八時。七時半になると、職員が隣の二つの机を片づけ始めた。私の前には誰もいなかったので、椅子を拭いて重ねようとしていた。
そのとき男が来た。
「まだ、いいですか」
断る理由はなかった。私は椅子を戻した。

男は四十代くらいだった。鞄を持っていなかった。シャツの腹のところだけが湿り、布が肌へ貼りついていた。
私は自分が受付であることを伝えた。
男はうなずき、誰かに聞いてもらえればいいと言った。紹介された窓口ではなく、今ここで話したいのだと。
私は向かいへ座った。

男は、背中が重いという話を始めた。
病院へ行ったかどうか、私は聞かなかった。すぐ助言を返すのでなく、まず何を話したいのかを聞いてほしいと、打合せで言われていた。
朝、起きても疲れが取れない。上着を着ると肩が引かれる。食事をしている間も、誰かが後ろへ立つ気配がする。
男はそう言って、自分の両肩を軽く叩いた。

私は返事をしようとした。
隣から、私の声がした。
それは、大変でしたね。
男はその声へうなずいた。こちらを見たまま、うなずいた。
私は声のした席を見た。折り畳んだ机が一つ立てられ、椅子は空だった。拭いたばかりの座面に、薄く水が残っていた。

近くの店のスピーカーかと思った。
似た声はある。自分の声は録音で聞くと別の人のように聞こえる。私は首を少し戻し、続きをどうぞと言おうとした。
「それで、どうされたんですか」
隣から先に聞こえた。
私が言うつもりではなかった言葉だった。

男はシャツの腹をつまんだ。
「今も、ここにいるんです」
湿っているところへ、指が四本立った。布の内側から押していた。男の両手は外にあった。
私は椅子へ背をつけた。
背中に、重みが載った。肩甲骨の間から腰まで、誰かの膝を押しつけられたようだった。

隣の席から、ええ、と声がした。
今度は私がうなずく前だった。
背中の重みが少し下がった。腰骨へ何かが乗り、私は両足を広げて踏ん張った。
男の肩が下がった。
楽になった人の姿勢だった。

私は職員の森さんを見た。
彼女は少し離れたところで、案内板を畳んでいた。私に気づき、近づいてきた。
「替わりましょうか」
私はうなずいた。
男は私を見たまま、まだ途中なんですけど、と言った。責める声ではなかった。席へ案内された人の、当然の言い分だった。

森さんが私の横へ立った。
私は椅子から立とうとした。膝が伸びなかった。重さが増していた。目の前の机へ両手をつくと、天板が少し鳴った。
森さんはすぐ椅子の背を押さえた。
「気分が悪い?」
私は、背中が、と答えた。
隣の空席からも、背中が、と聞こえた。

森さんは空席を見た。
男も初めてそちらを向いた。
三人とも同じ場所を見ていたが、私には何もいなかった。椅子と、縦に置いた机だけだった。
男の目つきが変わった。
「そこへ座ったんですね」
誰に言ったのか、分からなかった。

私は森さんへ、自分の声がすると伝えた。
彼女はもう一度椅子を見た。頬の色が薄くなっていた。
「私には、あなたの声じゃない」
それ以上は言わなかった。誰の声か尋ねる余裕はなかった。私の腰へ、爪先のような細いものが当たり始めていた。
椅子の下に、自分の足とは別の影が二本伸びた。

男は話を続けた。
眠ろうとすると、誰かが自分の眠りを待っている。目を閉じた途端に、背中の重みが立ち上がる。だから布団へ入っても、身体を横へ向けられない。
私はやめてくださいと言いそうになった。
その言葉より先に、空席が答えた。
「分かります」

背中に、息が掛かった。
一人分ではなかった。何人もが私の襟の中へ顔を寄せていた。耳の下に湿った唇が触れ、片側だけ開いた。
男がシャツの胸を持ち上げた。布の下から、息が抜ける音がした。
私は机に伏せた。顎が天板へ当たった。痛かった。その痛みだけは、自分でぶつけたものだった。

森さんが男へ声を掛けた。
「少し休みましょう」
男は黙った。
空席から、続けてください、と聞こえた。
森さんはそちらを見なかった。男の顔だけを見て、今日はここまでにしたいと伝えた。
男は困ったように、まだ軽くならないんです、と言った。

私は机へ手をついたまま顔を上げた。
彼は私を見ていた。本人にも何が起きているか分からず、少し楽になったから話し続けたいのだと思った。
それが怖かった。
悪意のある人なら、席を立つための言葉を選ばずに済んだ。

森さんはしゃがんだ。
私の背中へ触ろうとして、一度手を止めた。そこに何を見たかは知らない。彼女は私の前腕を持った。
「立てるところまででいいから」
私は腕へ力を入れた。
背中が椅子に残るような重さがあった。それでも膝は少し伸びた。森さんが身体を支え、机の脇まで移してくれた。

別の職員が来た。
森さんは私を任せ、男の前へ戻った。向かいの椅子には座らなかった。机の横に立ち、もう話を聞ける人がいないと伝えた。
私はそれを聞いて、ほっとした。
すぐにひどく申し訳なくなった。スタッフはまだ何人もいた。聞けないのは人数の問題ではなかった。

男は空席を指した。
「あの人は」
森さんは、あの席では受けられません、と答えた。
男はしばらく空席を見た。座面の水が、誰かの膝の形を避けて両側へ流れた。
私には、そこに誰が座っているのか見えなかった。
空席は、ゆっくりで大丈夫です、と言った。

森さんは最後の机へ、受付終了の板を置いた。
置いたからといって声は止まらなかった。男のシャツの腹はまだ湿っていた。私の背中も重かった。
森さんは今日これ以上ここで話を聞くことはできないと、もう一度だけ言った。それから、いま帰れる状態かどうかを尋ねた。
男は、自分では帰れる、と答えた。
声が小さくなっていた。

男は立ち上がった。
空席から、ありがとうございます、と聞こえた。私たちが言う前だった。
彼はそちらへ頭を下げた。私には会釈だけをした。
「すみませんでした」
私は返事をしなかった。声を出すと、背中へもう一人載るような気がした。森さんが代わりに、足元に気をつけて、と言った。
男は駅のほうへ歩いていった。誰かが押しているように、上着の背中が何度も前へ膨らんだ。

私は救急に来てもらい、その晩は診てもらった。
骨には異常がなかったが、背中に細い赤い跡が何本もあった。自分では見えず、服を着替えるときに触れた。爪先で蹴られた場所と重なっていた。
誰かに何をされたのかと聞かれ、説明に詰まった。
森さんは、椅子から立てなくなったところを見た、と話した。分からないところを埋めてくれなかった。そのことがありがたかった。

数日後、荷物を取りに事務所へ行った。
森さんはあの男の身元を知らなかった。最初に名を聞かない催しなので、連絡の取りようもなかった。
私はあのあと空席がどうなったかを尋ねた。
机も椅子も、全部片づけたという。濡れた座面も拭いて、ほかの椅子と一緒に車へ積んだ。誰も隣の椅子を残してはいなかった。

「声は」
尋ねると、森さんは黙った。
片づけたあとにも、広場の同じ場所から聞こえたそうだ。人が話している声ではなく、相槌だけだった。そうですか。ええ。分かります。
誰もいない場所を向いて、職員の一人が返事をしかけた。
森さんがその人の名前を呼び、車へ乗せたという。

私は次の受付を断った。
代わりに裏方をやるかとは聞かれなかった。森さんは分かりましたと言い、私を玄関まで送った。
靴を履くあいだ、背中が少し重くなった。私は顔を上げた。
森さんは何も言わずに待っていた。
私は自分で靴を履き終えた。彼女が次の言葉をくれる前に、帰りますと言った。自分の声は、自分の口から一度だけ出た。

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