奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

岩場のまばたき

叔母は、相手の名前をまだ聞いていないと言った。
それで結婚の相談をされても困る。私はそう言いかけて、飲みかけのお茶を置いた。
「結婚なんて言ってないでしょう。一緒に見てほしいだけ」
「何を」
「あの人を」

叔母が誰かと親しくなったらしい、と母から聞いたのは先月だった。いい歳をして身元の分からない男に入れ込んでいるから、何か言ってやってほしい。母は電話でそんな頼み方をした。妹のことを悪く言う時だけ、急に年寄りのような言葉を使う。

私は叔母が嫌いではなかった。中学の頃、家へ帰りたくないと言うと、理由を訊かずに二日泊めてくれた。三日目の朝には洗濯を手伝わせ、夕方には母へ電話しろと言った。その加減を、私は大人になってからも覚えていた。

叔母は去年、長く勤めたスーパーを辞めた。膝を傷めたためで、今は週に三日、近所の惣菜屋を手伝っている。住んでいる海辺の町へ来たのは二年ぶりだった。昼の電車で着くと、駅まで迎えに来た叔母は、私の靴を見て少し困った。

「底、滑らない?」
「駅から遠いの」
「すぐそこ。でも少し下りるのよ」

私は紐のついた運動靴を履いていた。叔母はそれでいいと言った。自分は青い長靴を履いていた。暑い日で、長靴の上に出た靴下の縁だけが白かった。

駅前の食堂で昼を食べながら、私は相手のことを訊いた。年齢も仕事も、叔母は知らなかった。会うのは決まって昼間で、海を見ながら話すのだという。
「何を話すの」
「昨日、何を食べたとか」
「名前も知らないのに?」
「私だって、あなたの会社の名前を言えないよ」

それはそうだった。名刺を渡したことはあるが、覚えていないだろう。叔母は私の職場の先輩がやたらと土産を配ることや、部屋の台所が狭いことは覚えていた。言い返せずにいると、叔母は卓上の紙で口を拭いた。
「今日は、顔をちゃんと見せてくれるって」

私はそこで初めて、食べる手を止めた。
会って話している人の顔を、今まで見ていないのか。叔母は店員に二人分のお茶を頼んでから、いつも帽子をかぶっているから、と言った。

海沿いの道には観光客がいた。私たちは土産物屋の前を通り、低い柵に沿って歩いた。叔母は坂を下りる時だけ私の肘を借りた。こんな道を一人で歩いているのかと思うと、母に何か言われるのも仕方がない気がした。

階段の下は平たい岩場だった。大きな岩の間に水が残り、海草が濡れて光っていた。沖へ張り出した岩の端に、男が立っていた。白っぽい帽子に灰色の長袖。釣り人の格好だったが、竿は持っていなかった。

叔母が手を上げると、男も片手を上げた。
遠いわけではない。それでも帽子の下はひどく暗かった。影というより、私がそこへ目を合わせ損ねているような見え方だった。鼻があるのか、顔を横へ向けているのかさえ分からなかった。

「姪です。昨日話した」

叔母は、すぐ隣の人へ声をかける音量で言った。

「遠くから」

男が答えた。
私は驚いて叔母の後ろを見た。声は階段の方から聞こえた。けれど、階段には誰もいなかった。

「いえ、二時間くらいです」

どちらへ向かって答えればいいのか分からず、叔母を見て言った。叔母は男に会えたことより、私が返事をしたことに安心した様子だった。

足元の水に、黒いものがあった。小さな丸が二つ並んでいた。貝だろうと思って足を避けたら、片方だけが横へ動いた。水底に張りついた何かではなかった。丸いものの縁に白い部分が増え、私の動いた方を追った。

目だった。

私はそのまま踵を引いた。叔母が肘を掴んできたので、転びそうになったのを支えたのだと思った。違った。叔母も同じ水溜まりを覗き込んでいた。
「ああ、今日はここなんだ」

水の中の目が、二つ揃って閉じた。薄い皮が上から下りた。岩肌の色になり、何もなかったように平らになった。すぐに開き直したが、二つの目はもう私を見ていなかった。叔母の膝の辺りへ、瞳が寄っていた。

私は叔母の手首を掴んだ。
「帰ろう」
「まだ話してないでしょう」
「見えたでしょ、今」

叔母は、うん、と答えた。男は岩の端に立ったままだった。片手を腰の辺りに置き、待っていた。帽子が少し傾いていた。
「今日は私だけじゃ、まずいと思ったの」

叔母の手は乾いていた。力を入れて引けば、階段の方へ連れていけると思った。だが、叔母は私に身体を預けたまま、男へ声をかけた。
「この子に嫌なことはしないでね」

私へ言った方がまだましだった。知らない相手の返事を待つ間、叔母を掴む手に力が入った。
「しませんよ」

今度は私の足元で返事がした。
目のあった水溜まりには、口も喉もなかった。浅い水の向こうに小石が見えた。自分の靴がそのすぐ横にあるのが嫌で、私は足をずらした。

叔母は男に会うようになった日のことを話し始めた。膝が痛んで階段で休んでいたら、下にいる男に声をかけられた。最初は釣りの人だと思った。向こうも足が悪いのか、ずっと同じ岩に立っていた。毎回、帽子に手をかけるところまではするのに、なぜか脱がなかった。
「私が帰ると、あの人、見えなくなるの。途中で振り返ってもいない。でも、下まで戻ればいるのよ」
「そんなの、近くの岩に隠れてるだけかもしれないじゃない」
「そう思ってた」

叔母はそこで口を閉じた。私に説明するつもりで来たのではなく、自分にも説明できない部分を、一緒に見てほしくて呼んだのだと分かった。母が電話で何を言ったか、ここで知らせるのはやめた。

男が帽子を取った。
頭がなかったわけではない。額の下から顎の先まで、普通にあるはずの顔が、どこにも見えなかった。灰色の襟の上に肌色のものがあった。それを顔として眺めようとすると、すぐ脇の海へ目が逸れた。逸らしたのは私だったのか、見たかったものがそこへ動いたのか、分からなかった。

岩の右側で、水が小さく光った。
少し離れた水溜まりにも目があった。一つだけだった。目尻の皺まである、年を取った人の目だった。その奥、波が崩れる低い岩にも、こちらを向く黒い丸が見えた。

私は男を見直した。
男の濡れた前髪が風に動いた。それなのに顔を見つけられなかった。目があると分かった水の方へ、どうしても視線を持っていかれた。

叔母は口を開けていた。嬉しそうではなかった。帽子を脱いでもらえば、それで済むと思っていたのかもしれない。
「思ってたより、たくさん」

男は帽子を胸の前へ下げた。
私は叔母に何の数を言っているのか訊けなかった。岩場を横切って海を見ると、光るところがあちこちにあった。近くは目として見え、遠くは波の日差しと区別できない。どこまで目が続いているのか、見渡して確かめる気にはなれなかった。

「もういいです」
私は男に言った。
「顔、見せなくていいです」

男は動かなかった。帽子を持つ指が、一度だけ握り直した。
叔母が私の腕を叩いた。
「あなたにじゃないよ」
「何が」
「私に見せてくれてるの」

二人の話なのだと言われた。それは確かにそうで、私が何でも代わりに決めていいはずがなかった。叔母の腕から手を離した。離した瞬間、叔母が岩の先へ歩き出したので、私はまた袖を掴んだ。
「ここで見ればいい」
「よく見えないのよ」
「私も見えない」

叔母は私を見た。これまでで初めて、困って助けを求める顔をした。私は自分の膝を曲げ、叔母と同じ高さへ目を下げた。足元の二つの目も、同じように下を向いた。

水が動いていた。
沖から波が来たのではない。目のまわりだけが濡れ、隣の水溜まりへ細く繋がっていった。岩の高いところを越え、乾いた牡蠣殻の上を薄い水が這っていた。飛び散った滴さえ落ちず、透明な筋を引いたまま隣の目へ寄っていった。

叔母の長靴の横に、水が届いた。
私は袖を放さず、階段の方へ一歩下がった。叔母もついてきた。男が片足を上げるのが見えた。岩からこちらへ踏み出すのかと思った。だが、足はいつまでも空中にあり、膝の角度も変わらなかった。

水の目だけが動いた。

次の瞬間には、男は一つ手前の岩に立っていた。歩くために上げたはずの足は、まだ浮いたままだった。上げた靴の裏から雫が落ち、乾いていた岩に丸い跡がついた。

私は叔母を引いた。叔母も今度は足を速めた。階段の一番下に手をついて身体を持ち上げ、青い長靴が岩から離れた。私が続いて上がると、足元の水が石段へ届いた。そこにあった一つの目が、叔母を見上げていた。

叔母は階段へ座り込んだ。膝が痛いと言った。私は二段上に立ち、叔母の肩へ手を置いた。海の側を向いたまま座っていてほしくなかったが、立たせることもできなかった。

男の声がした。
「もう少しだけ」

叔母は首を振った。声に出して断らなかった。私は何か言おうとして、叔母の肩を強く掴みすぎていることに気づいた。指を緩めると、叔母が私の手を上から押さえた。

岩場に波が入ってきた。
水溜まりを覆い、牡蠣殻の先を濡らし、一度に引いた。目は残っていた。濡れた岩のあちこちで、ばらばらに瞬きをしていた。男はもう帽子をかぶっていなかった。腕を下ろして、こちらを向いていた。

叔母が、小さく息を吸った。
「分かった」

何が、と訊く前に、叔母は顔を両手で覆った。手のひらの下で、頬が上がっていた。笑っているのかと思ったが、漏れた声は泣く時のものだった。
「このくらい離れないと、顔にならないんだ」

私は海から目を外した。
叔母の指の間には涙があった。その指が頬から離れかけるたび、私は上から押さえた。叔母は怒らなかった。ただ、もう見えてしまったのよ、と私の手の中で言った。

コメント

タイトルとURLをコピーしました