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十七番の預かり

「その子、うちでは吠えないんです」
飼い主にそう言われると、里奈はたいてい笑って受け流した。家と預かり先で様子が違う犬は珍しくなかった。けれど、十七番の犬については、話が逆だった。

店では一度も吠えない。世話の順番を待ち、散歩の綱をつけると立ち上がり、戻れば自分から檻に入る。ほかの犬が騒いでも、顔を背けて眠っていた。右の前足が悪く、少し傾いて歩く。毛は白いが、老犬だから白くなったのか、もともとの色なのか、里奈には分からなかった。

その犬が飼い主の車を見たときだけ、店の中が静かになった。
吠え声は、里奈の思っていた老犬の声ではなかった。体の奥から押し出すような低い声で、喉が裂けそうなほど続いた。他の犬たちは、一斉に自分の寝床へ引っ込んだ。

飼い主は岸本という女の人だった。四十代くらいで、仕事帰りらしい服を着ていた。窓の外から犬を見て、今日は無理そうですね、と言った。
店長は、ではまた、と答えた。
里奈は二人の間に立ち、何が無理なのか分からなかった。

その犬の名前は、サブといった。十七番は檻の番号で、どの犬にも名前と連絡先を書いた札をつけていたが、サブの札だけは内側を向けてあった。犬が動いて札を落とすからだと店長は言った。サブが札へ触れるところを、里奈は一度も見なかった。

里奈が店で働き始める前から、サブはいた。犬を預かるほか、洗って毛を整える仕事もしている店で、預かりだけではたいして儲からなかった。長くいる犬は飼い主の事情が深刻なことも多い。里奈はあまり詮索しなかった。
岸本は毎月、料金を払いに来た。一度も遅れなかった。

秋に店長が腰を悪くし、店を畳む話が出た。里奈も次の働き口を探し始めた。長期預かりの犬は順に別の施設へ移り、檻が空いていった。最後まで、十七番の札だけが残った。

「どうして連れて帰らないんですか」
里奈が聞くと、店長は困った顔をした。
「家に入れないんだって」
「犬をですか」
「うん」
言い終わるまでに間があった。

岸本が次に来た日、里奈は店の外で話をした。犬が車を嫌うだけなら、訪問で慣らす手もある。預かり先を替えるにしても、まず運べなければいけない。岸本は頷きながら聞き、犬は車が好きなんです、と言った。

「迎えに来た人が、嫌なの」
「岸本さんが?」
「私だけじゃなくて」
岸本は鞄からスマートフォンを出した。動画には、玄関の前で立ちすくむサブが映っていた。門から家まで、ごく普通の短い通路だった。サブは後ずさりし、家の中へ向かって唸っていた。
「夫も。娘も。誰が迎えに来ても同じ」

画面の端に、中学生くらいの女の子が映った。しゃがんで両手を広げていた。サブはその姿を見て、さらに低く頭を下げた。女の子は泣いていた。
里奈は動画を返した。
「家で、何か怖いことがあったんでしょうか」
岸本は、そうかもしれません、と言った。否定してほしかった答えだった。

サブは外では岸本に懐いていた。首の下を掻かれると目を細め、手を止められると鼻を押しつけた。岸本が帰るときも、追いかけようとはしなかった。名残惜しそうではあるのに、檻の中に戻ったほうが安心するらしかった。

里奈が初めておかしな声を聞いたのは、閉店後だった。洗い場でタオルを畳んでいると、入口で岸本が呼んだ。
「すみません、サブを」
店長は帰っていた。里奈は手を拭きながら、はい、と返事をした。そのすぐあと、十七番の檻からも「はい」と聞こえた。

犬の鳴き声がそう聞こえたのだと思った。振り向くと、サブは寝床から顔を上げ、里奈を見ていた。口は閉じていた。
入口には誰もいなかった。自動扉の電源は切ってあった。ガラスの外は暗く、向かいの薬局の看板だけが点いていた。

翌朝、店長へ話すと、間違っててもいいから、声だけで開けないでね、と言われた。何のことか聞き返す前に、客が来た。里奈はそのまま犬を洗い始めた。
仕事を終えてから、店長が岸本に電話をしているのを聞いた。
「今度の子も聞いたみたい」
その言葉だけ、はっきり聞こえた。

里奈は辞めるつもりで話をした。怖いことを隠して働かせるのはおかしい。店長は反論せず、ただ謝った。それから、サブを連れてきた最初の日のことを話した。

岸本の家に、知らない人がいるのだという。家族は全員揃っている。人数も増えていない。それでもサブは、玄関を入ったとたん、そのうちの誰かに吠える。
「じゃあ、本当に誰か」
「私は見てないから」
店長は言葉を選んでいた。
「岸本さんも、見てないって。ただ、犬がそうするから」

一度、店長が家まで送ったことがあった。岸本と娘が、玄関で迎えた。サブは店長の足の後ろへ隠れた。娘がしゃがんで手を伸ばしたとき、店長のすぐ後ろでも、娘がサブを呼んだらしい。
振り返ると、誰もいなかった。
「それで、連れて帰った。ここへ」

里奈は、犬のことではないじゃないですか、と言った。店長はうなずいた。
「でも、預かったのは犬だからね」
その言い方が嫌だった。困っている家族の事情を、動物の世話の話へ押し戻しているようだった。里奈は、自分もサブを別の施設に移せばいいと思っていたことを、口には出さなかった。

休みの日、里奈は岸本の家へ行った。犬は連れていかなかった。岸本から呼ばれたわけでもない。自分で確かめれば、普通の事情が見つかるかもしれないと思った。

岸本は驚いたが、家に入れてくれた。夫は単身赴任で、娘と二人だという。玄関には、サブの古い首輪が掛かっていた。食器も片づけずに置いてあった。犬の暮らした家に残る、家具の下の細い毛が見えた。

娘は学校から帰ってきて、里奈を店の人だと知ると、サブは元気ですかと聞いた。動画より大人びていた。家族写真が棚に何枚もあって、どれも同じ三人だった。里奈は、異常を探しに来た自分が失礼に思えた。

帰るとき、岸本が靴べらを渡した。娘は台所にいた。
「サブに、待ってるって言ってください」
玄関の外から声がした。娘の声だった。里奈は片方の靴を履いた姿勢で止まった。岸本は靴べらを持ったまま、里奈を見ていた。

「今の」
里奈が言うと、岸本はゆっくりうなずいた。
台所で冷蔵庫が閉まった。娘が廊下に出てきた。
「どうしたの」
岸本は、何でもない、と言った。里奈も同じことを言った。

外へ出ると、岸本が門までついてきた。里奈は道へ出てから振り向いた。娘が玄関の隙間に立ち、こちらを見ていた。
岸本は振り返らなかった。
「いつからですか」
里奈が聞くと、岸本は首を振った。
「気づいたのは、サブが吠えてから。だから、いつからかは分からない」

閉店まであと二週間になった日、岸本は娘を連れて店へ来た。店長と里奈とで、最後の相談をすることになっていた。別の預かり先は二か所断られていた。長期になると分かっていて、いつ迎えに来るか決められない犬を引き受けるのは難しかった。

娘がサブの前にしゃがんだ。サブは顔を近づけ、彼女の指を嗅いだ。いつものように膝へ顎を載せた。娘は泣かなかった。しばらくして、私が一緒なら帰れるかな、と言った。
岸本は目を伏せた。

里奈は、自分が家まで一緒に行くと言った。犬が怖がったら戻る。それだけを決め、車に乗せた。サブはおとなしかった。娘の膝へ片足を載せ、窓の外を見ていた。店長は店に残った。

家の前で、サブは車から下りた。門を通り、敷石を踏んだ。里奈が綱を持ち、娘が横にいた。岸本が先に玄関を開けた。
サブは止まらなかった。
里奈はほっとして、よかったね、と言いかけた。

玄関の上がり框に、サブがいた。悪い右足をかばって座り、こちらを見ていた。里奈の足元にもサブがいた。綱が張り、手首に食いこんだ。
娘が、二頭を交互に見た。

家の中の犬が立ち上がった。爪が床板を掻いた。里奈の横の犬は吠えなかった。喉の奥で、一度だけ息を詰まらせた。
娘が名前を呼んだ。
どちらも振り向いた。

里奈は娘の腕をつかみ、車へ引いた。岸本が何か言った。聞き取れなかった。犬の綱を放さないようにするだけで精いっぱいだった。娘を後部座席へ乗せ、犬も抱き上げた。岸本は玄関に立ったまま、家の中を見ていた。

「乗ってください」
里奈が叫ぶと、岸本は両手で口を覆った。それから、玄関の内側に何度も頭を下げた。すみません、すみません、と言っていた。謝る相手が誰なのか、里奈には見えなかった。

店へ戻ったサブは、いつも通りに水を飲んだ。寝床を前足でならし、丸くなった。娘は檻の前から動かなかった。岸本も帰ろうとしなかった。店長は三人にお茶を出したが、誰も手をつけなかった。

夜になり、娘が言った。
「こっちで、合ってるよね」
里奈は答えられなかった。綱は一度も放していない。車から下ろした犬を、そのまま連れ戻した。そのことは確かだった。それでも、何をもって合っていると言えるのか分からなかった。

娘は檻の隙間から指を入れた。サブは舐めた。右の前足を、少しだけ彼女の手に重ねた。
「うん」
娘は自分で答えた。
「こっち」

岸本と娘は、その晩、家へ帰らなかった。以後のことを、里奈は詳しく聞いていない。家をどうしたかも、夫が何と言ったかも知らない。閉店の日、岸本がサブを迎えに来た。新しい住所は店長へ渡した。里奈は見なかった。

サブは今も生きている。ずいぶん年を取って、ほとんど歩かないという。里奈が勤めを替えた店へ、ときどき爪を切りに来る。娘は髪を短くした。サブが眠ると、胸が動くのを一度確かめてから、スマートフォンを見る。

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