桃の箱を開けたとき、頼子は弟が帰ってきたのかと思った。
果物の匂いより先に、古い石鹸の匂いがした。洗面所に置きっぱなしにして、端が乾いて割れた石鹸。弟は新品を出すのを嫌がり、小さくなると次の石鹸に押しつけて使った。最後はいつも二つに剥がれ、排水口の網に詰まった。
箱には桃が六つ入っていた。どれも大きく、白い網に包まれていた。弟の字で、硬いうちに食べて、と短い紙が添えてあった。送付状の住所は山梨だった。頼子は携帯を出して写真を撮り、ありがとうと送った。既読はつかなかった。
弟の隆史は、去年の秋から果樹園で働いていた。前の職場を辞めたあと、知人の紹介で住みこみの仕事を見つけた。若いころには、虫が嫌いで窓も開けなかった。果樹園で暮らせるのかと頼子が笑うと、今は好きだよ、と言った。人間より虫のほうが、嫌なら嫌だと分かるからだという。
四十三にもなって、何を言っているのか。そう思った頼子は、返事をしなかった。弟の前の職場で何があったか、詳しく知らない。無理に聞くほど仲がよくもなかった。母が亡くなってからは、実家の片づけや固定資産税の話でしか連絡していなかった。
桃は二つだけ食べた。頼子と、高校生の娘の千帆の分だった。硬い桃を食べ慣れない娘は、これまだ早いんじゃないと言った。けれど、歯を当てると汁が出る。甘さも十分だった。皮を剥いた指に、あの石鹸の匂いが残った。
千帆は種を洗った。美術の授業で使えるかもしれないという。頼子が食器を洗っているあいだ、歯ブラシで溝の果肉を掻き出していた。
「桃の種って、毛が生えてるんだね」
差し出された種の割れ目から、黒い毛が数本出ていた。果肉の筋ではなかった。水を流すと、長い一本が、種の中へ引っ込んだ。
頼子は娘の手から種を取り、ビニール袋へ入れた。虫がいたのだろう。農薬をあまり使わない果樹園なのかもしれない。千帆は気持ち悪がったが、食べた桃はおいしかったと言い張った。頼子も、口に入れた果肉には何もいなかったはずだと思った。
袋の口を結ぶと、中で爪を立てる音がした。
頼子は袋をもう一枚重ねた。音はしなくなった。そのまま、ごみ箱には捨てられなかった。虫が出るのが嫌だと自分に言い聞かせ、ベランダのバケツへ入れて蓋をした。
翌朝、千帆が弟の夢を見たと言った。
会ったのは母の葬儀のときが最後で、娘は隆史とほとんど話したことがない。それなのに、夢の中では一緒に風呂場を掃除していたのだという。古い実家の風呂で、青いタイルの一枚だけ色が違うところまで、娘は知っていた。
「隆史さん、ずっと窓の外を見てた。お母さんが帰ってくるって」
頼子は、私、と聞いた。千帆は首を振った。
「自分のお母さん」
娘は、弟のことをさんづけで呼ぶ。年に一度会うかどうかの大人だから、叔父さんという呼び方が馴染まない。夢の中でだけ、隆史と呼んだらしかった。その声も自分の声ではなかったと言った。頼子は、桃を貰ったから夢を見たんでしょう、と答えた。
弟へ電話した。呼出音は鳴ったが、出なかった。留守電に、桃をありがとう、種に虫がいた、と入れた。自分でも嫌な伝言だと思い、そのあと、元気ならいい、と付け足した。
昼休みに携帯を見ると、弟から動画が来ていた。果樹園の木々が映っていた。葉が茂り、白い袋を掛けた桃が枝にぶら下がっていた。風がないらしく、どれも動いていなかった。画面がゆっくり上を向くと、枝の間に人の手が見えた。
指先に、白い袋が一つずつ結んであった。
頼子は動画を止めた。拡大すると、普通の枝にも見えた。枝の節が指の関節に似ているだけだ。動画は十三秒しかなく、声は入っていなかった。ただ、遠くで、板を小さく叩くような音が続いていた。洗面器の縁へ石鹸を置き損ねると、こんな音がした。
果樹園の名前を調べると、直売の案内が出てきた。住所も電話番号もあった。電話に出た女の人は、隆史さんなら畑へ出ています、と言った。姉だと名乗ると、少し待たされ、それから、来られるなら午前中に、と言われた。
頼子は土曜日に車を借りた。千帆は部活へ行く予定だったが、急に一緒に行くと言い出した。種を弟へ見せたいのだという。頼子は、あんなもの持っていかないと言った。バケツの中では、袋の種がいつのまにか一つになっていた。袋には穴がなかった。
残った四つの桃は、冷蔵庫の野菜室にあった。冷えているはずなのに、箱から出すと手の中で温かかった。頼子はそれも紙袋へ入れ、車の後部座席へ置いた。途中で千帆が、車酔いをするから前に座る、と言った。まだ走り始める前だった。
果樹園へ着くと、直売所のシャッターは下りていた。脇の小さな戸から、若い女の人が出てきた。電話に出た声とは違った。頼子が名乗ると、女は千帆を見て、食べた、と聞いた。
娘はうなずいた。
「種は」
頼子が袋を出すと、女は受け取らず、裏へ案内した。
畑の入口に立つだけで、石鹸の匂いがした。湿った地面ではなく、枝の上から降りてくる匂いだった。頼子は弟の名を呼んだ。返事はなかった。案内の女が一本の木の前で止まり、見上げた。
隆史は枝の上にいた。
脚立に乗っているのだと思ったが、足元に脚立はなかった。裸足で二本の枝をまたぎ、幹に背中を預けていた。作業着の襟が開いていた。胸から首にかけて、白い毛のようなものが生えていた。日の当たるところだけ、かすかに紫色をしていた。
「隆史」
頼子が呼ぶと、弟は顔を向けた。頬がふっくらして、以前より若く見えた。
「早かったな」
普通の声だった。頼子は、それだけで少し安心してしまった。怒る相手がようやく見つかったように、連絡ぐらいしなさいと言った。
隆史は、悪かった、と答えた。枝へ両手を載せ、降りようとする動きを見せた。白い袋が、指の先で揺れた。右手に三つ、左手に二つ。手袋に結んであるのではなかった。袋の細い針金が、皮膚の中へ食いこんでいた。
千帆が頼子の後ろへ隠れた。
隆史は動きを止めた。案内の女が、まだ早いです、と言った。頼子へ向けてではなかった。隆史は木の上でうなずき、元の位置へ座り直した。首の白い毛が、一斉に幹へ向かって倒れた。
下りなさい、と頼子は言った。今度は強く言った。
隆史は、下りたいよ、と答えた。
「だから、呼んだんだよ」
頼子は後部座席から桃の袋を持ってきた。弟が欲しがっている気がした。四つの桃を見せると、隆史は、食わなかったか、と笑った。笑うと、口の奥に白い毛が見えた。舌の上で揺れていた。
千帆が、二つ食べた、と言った。
隆史は笑うのをやめた。
案内の女は、頼子の持つ種の袋を見ていた。腕には、赤茶色の細長い虫が這っていた。女はそれを指でつままず、手首を傾けて袖の中へ入れた。
「お兄さん、これ以上は上がれないんです」
彼女が見ている木のてっぺんは、頼子にも届かない高さだった。そこにある葉は薄く、空の光で透けていた。
隆史の左の足の指が、幹をつかんでいた。木の皮の隙間へ深く入り、指の先が見えなかった。右足は、もう足の形ではなかった。踵から先が二股に分かれ、枝へ沿って伸びていた。頼子は胸が悪くなり、目を閉じた。千帆の手が、自分の手の中で冷たくなっていた。
「夜になると、上へ行きたくなるんだ」
隆史は言った。
「昼は分かる。上がっちゃ駄目だって。夜になると、何で下にいたのか分からなくなる」
頼子は救急車を呼ぼうとした。女は止めなかった。携帯の番号を押す頼子の横で、女は長い採果鋏を持ってきた。先端に受け袋のついた道具だった。隆史へ向けると、彼は首を振った。
「姉さんに」
女は頼子を見た。頼子は携帯を耳へ当てたまま、鋏を受け取らなかった。
救急の人に場所を伝え、木の上から降りられない人がいると言った。怪我はと聞かれ、している、と答えた。どこをと聞かれて、足も手も、と答えた。それ以上は言葉にできなかった。隆史が枝へ口を当て、白い毛を噛み切ろうとしていたからだ。
千帆が採果鋏を取った。
頼子は電話を切り、娘から道具を奪った。刃は開いたままだった。千帆は、あの袋を切れば下りられる、と言った。
「何で分かるの」
娘は種の入った袋を指さした。中から、さっきと同じ板を叩く音がしていた。
頼子は弟を見上げた。隆史は右手を前へ出した。袋を結んだ針金のところなら、指を切らずに済むかもしれなかった。鋏の先を近づけると、隆史は、痛くないから、と言った。まだ何も切っていなかった。
一つ目の袋が落ちた。
受け袋の中で、桃が激しく動いた。鋏の柄に振動が伝わった。弟は悲鳴を上げず、左の足を幹から引き抜いた。指の跡が五つ、木の皮に残った。その穴から、白い毛がゆっくり伸びてきた。
頼子は続けて切った。二つ、三つ。途中で弟が笑い始めた。笑いながら、もう少しだ、と言った。千帆は耳を塞いでいた。案内の女は大きな箱を用意し、落ちた桃を白い網に包んだ。どれも普通の桃に見えた。弟の手の上にあったときより、ずっと小さかった。
最後の袋を切ると、隆史は木から落ちた。
頼子が受け止めるつもりで両腕を出すと、作業着だけが腕へ掛かった。膝の高さで、何かが地面を跳ねた。頼子はしゃがみ、土を掻いた。細い脚のあるものが、袖口へ潜りこんだ。顔は見えなかった。作業着の襟から石鹸の匂いがした。
案内の女が、服ごとでいいです、と言った。頼子は弟の作業着を丸め、抱き上げた。中で何かが動いた。小さな手が、頼子の親指をつかんだ。子供のころ、暗い道を歩くと弟はいつもそうした。手を全部握るのを、男だから嫌だと言っていた。
救急車が着いたとき、頼子は箱を抱いて直売所の前にいた。隊員を畑へ案内した。木の上には誰もおらず、脚立が一本倒れていた。隆史は自力で降りた、と案内の女が言った。頼子はそれを否定できなかった。箱の中の作業着が、自分の腕に擦り寄ったからだ。
電話に出た女の人は、結局現れなかった。頼子は隆史の部屋も見せてもらった。荷物は少なく、壁に自分たちの古い家の写真が貼ってあった。洗面所の写真だった。青いタイルの一枚だけが新しかった。写真の隅に、小さな石鹸が置いてあった。
帰りの車で、千帆が箱を膝に載せた。頼子は助手席に置くよう言ったが、娘は首を振った。箱の中で布が擦れるたび、底を指で叩いた。二回叩くと、向こうからも二回返ってきた。
頼子は、その音を聞きながら運転した。
四つの桃を、畑へ置いてくるのを忘れていた。来るときの紙袋が、後部座席の足元に残っていた。途中の休憩所で頼子が袋を持ち上げると、桃はもう冷えていた。甘い匂いがしなくなっていた。
代わりに、娘の制服から石鹸の匂いがした。
頼子は千帆の襟を開いた。首筋に、細い白い毛が一本あった。抜こうとすると娘は痛がった。毛の先だけが、車の天井へ向かって真っすぐ立っていた。
箱の中で、弟が何度も底を叩いた。
頼子が運転席へ戻るまで、その音は止まらなかった。


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