最後の日くらい、自分で喋ればいいのにと森田は思った。
井口は控室の長机に弁当を広げ、先に食べていいか、と訊いた。午後の投影は二時からだった。あと二十分ある。森田が頷くと、井口は割り箸を抜き、蓋についた海苔を丁寧に取って御飯へ戻した。
市の小さなプラネタリウムで、二人は八年間働いた。解説を担当するのは、ほかに非常勤の一人だけだった。井口は翌週から隣県の施設へ移る。退職するのに送別の投影もしないし、常連の客にも知らせない。これまで通りに終わりたい、と言われ、森田は花を用意することもやめた。
「途中で代わりましょうか」
「何で」
「せっかくですから」
井口は口の中の物を飲み込んでから、次の職場でも喋るよ、と言った。森田は、そうですね、と笑い、解説の紙を持って立った。
本当は、自分の話を少し聞いてほしかった。この半年、井口と同じ言い回しをしないように、原稿を書き直していた。子供には難しいと言われて削った話を、今日は一つ戻してある。井口が控室で弁当を食べているなら、聞かれずに済む。それが少し面白くなかった。
客は九人だった。学校帰りらしい兄弟と父親、離れて座る女の人が三人、最前列に老夫婦、出口に近い席に若い男がいた。森田は操作卓の椅子に腰を下ろし、客席を見渡した。
「これから、ゆっくり暗くなります」
声を出すと、兄のほうが寝転ぶように背もたれを倒した。弟も真似をした。森田は父親の笑う顔を見て、少し気が楽になった。
天井はまだ、薄い水色だった。夜へ移る前の空だった。ところが暗くしても、色が変わらなかった。
最初は自分が順番を間違えたのだと思った。星を出す前に別の映像を選んだことは、過去にもあった。手元を見直した。操作卓の表示は、いつもの通りだった。客席の照明だけは落ちていた。
「本日の夕方の空を、ご覧いただいています」
森田は少しゆっくり言った。その間に、天井の青が濃くなった。夕方の青ではなかった。よく晴れた日の、昼の青だった。
どこかで、木を切る音がした。
電動の鋸が板へ触れ、離れるたびに高くなる音だった。森田は音量を下げた。止まらなかった。客席を見た。携帯の動画を流している人はいなかった。兄弟が二人とも天井を見ていた。
「工事、してる」
弟が言った。父親が、静かにね、と肩へ手を置いた。
森田は、少々お待ちください、とマイクへ言った。音声を止め、映像も消した。天井の青だけが残った。
操作卓に引き寄せていた紙を、彼は置いた。さっきまで原稿の文字を読むために使っていた小さな明かりが、今は必要なかった。空から届く光で、文字が読めた。自分の影が、紙の上へ落ちていた。
出口の扉を開け、控室へ顔を出した。井口は食べ終わった弁当の蓋を閉じるところだった。
「映像、消えません」
「何が出てる」
「昼です。星が出ないんです」
井口は椅子を引いて立った。何も持たずに森田のあとへついてきた。
扉を閉めると、鋸の音が近くなった。頭の真上で切っているようだった。それなのに、低い振動は床に届かなかった。井口は客席の照明をつけ、操作卓の脇から天井を見た。
明るくなった客席で、一人の女性が目をこすった。
「寝ちゃってた」
隣の女性へ小さく言った。連れではなかったらしく、相手は少し遅れて笑った。森田は客へ、機器の調子が悪いため確認しています、と告げた。
井口の手が、操作卓を離れた。
「動いてないな」
「映像のほうですか」
「こっちからは、何も出してない」
その言い方が嫌だった。井口は断言する時、声を大きくしない。
最前列の老人が腕を上げた。
「あそこに、窓があるね」
森田は指されたほうを見た。
青い天井の端に、四角い灰色の枠があった。ドームの丸みに沿わず、平らに見えた。こちら側には桟も金具もない。あれほど明るい空の中に、窓だけがはまっていた。
枠の中で、白い布が動いた。
カーテンだった。風で膨らみ、半分開いた窓から外へはみ出していた。鋸の音が止まり、布がすぐに垂れた。
井口が、客席の真ん中まで歩いた。森田もついていきかけたが、客から離れることが不安で、通路の端で止まった。九人は座っていた。男の子たちの父親だけが上着を膝から取り、いつでも立てるようにしていた。
「あれ、映してるんじゃないんですか」
父親が森田へ訊いた。
森田は返事に詰まった。その間に窓が大きく開き、女の人が顔を出した。
黒っぽい服を着ていた。髪を後ろで束ね、片手を窓枠へついている。遠いから顔までは分からないと思ったのに、唇が動いたのが見えた。
「見える?」
声は小さかった。スピーカーから聞こえた時のように、近くの壁が鳴らなかった。天井にある小さな口から、そのまま届いた。
弟が、大きく手を振った。
森田はその手を止めかけた。けれど届く距離ではなかったし、振ると何か起きる理由もなかった。女は弟のほうを見て、窓の内側へ顔を引いた。誰かへ、いるよ、と言っていた。
井口が戻ってきた。
「いったん、出てもらおう」
「中止にしますか」
「うん」
井口はもう天井を見なかった。
森田はマイクのある席へ戻りかけた。井口に肘を軽く叩かれ、足を止めた。客はすぐ前にいる。そのままの声で、本日は中止します、申し訳ありません、と言った。
出口に近い男が最初に立った。鞄を肩へ掛け、空を一度だけ見て歩き始めた。女性たちもそれに続いた。森田は出口の扉を押さえた。井口が最前列へ行き、杖を探していた老婦人に、彼女が座っていた席の下を指して教えた。
窓から子供が顔を出した。
一人ではなかった。小学生くらいの子が三人、窓枠へ顎を並べた。首の上へ別の子の頭が重なって見えたが、後ろから覗き込んでいるだけだった。知らない家の窓だった。どこにでもありそうな、アルミの枠の窓だった。
「みんな、出ちゃう」
上の子供が言った。
こちらの兄弟は扉の前で立ち止まった。父親に背中を押されても、上を見ていた。
森田は弟へ顔を向けた。
「明るいところへ出ようか」
「あっちも、明るいよ」
弟はそう言って、父親に連れられて出ていった。
最前列の夫婦が来た。森田は扉を広く開け、井口と二人で外へ出た。扉はいつもの重さで閉じた。廊下には節電のため消している蛍光灯があり、投影室より暗かった。
客を受付へ案内する途中、木の匂いがした。切ったばかりの板の匂いだった。森田は足を止めず、返金のことを事務室の人へ伝えた。兄弟の兄が、さっきの子たちもお金払ってるの、と父親に訊いていた。
父親は、分かんないな、と答えた。
客が出ていくまで、森田は玄関にいた。若い男は何も言わず帰った。女性の一人が、あれは新しい番組の試しじゃないんですか、と尋ねた。森田は、違います、と答えた。笑って済ませてもらえる返事を、別に考えられなかった。
最後に、老夫婦が出た。老人は空を見上げた。市役所の駐車場の上には薄い雲があり、午前中に見た飛行機雲が、ほどけて広がっていた。
「あの家の子が、下を見てた」
老人は言った。
「星を見に来たのにね」
森田は頭を下げた。老人が何を惜しんだのか、訊けなかった。
事務室から責任者が来た。森田が説明している間、井口は離れたところで聞いていた。投影機の不具合なのかと聞かれて、森田は、分かりません、と言った。電源を切って見てもらうことになり、三人で投影室へ戻った。
扉を開ける前に、中から笑い声がした。
子供たちだった。あちらの、と森田は思った。自分がすでに、あの青空を天井とは別の場所として考えていることが気味悪かった。
責任者が先に入り、立ち止まった。青空は残っていた。窓の位置も変わっていない。今は大人が二人と子供が一人、こちらを覗いていた。
「空いた」
誰かが言った。
責任者は廊下へ戻り、もう一度扉を開けた。中を見てから、電源を落とすね、と井口へ言った。井口は頷いた。責任者が入口脇の主電源を切った。天井の青は暗くならなかった。
森田は、ほかに人を呼んで見せたくなかった。誰かが来るたびに、窓の人たちの顔がこちらへ向く。向こうも、見物に来る人が増えているようだった。子供の背後にいた大人が、一歩ずつ前へ出ていた。
井口は出口の扉を閉めた。森田と二人、暗い廊下へ残った。責任者は事務室へ電話をかけていた。今日は全て中止にすること、客へ連絡することを話している。言葉にできる用事があって、森田は羨ましかった。
「前にもありましたか」
井口へ聞いた。
井口はすぐには答えなかった。上着のポケットを探り、畳んだハンカチを出した。それで手の甲を拭いた。
「一度だけ」
「いつ」
「ここへ来る前。子供の時」
森田は井口の顔を見た。冗談を言ってくれたほうが、まだよかった。
井口の家の隣では、建て替えの工事をしていたという。二階の窓を開けると、作業の様子がよく見えた。ある日、職人が休憩して誰もいなくなった場所へ、椅子がたくさん並んでいた。屋根も壁もない所で、人が上を向いて座っていた。
「家族に言ったら、片づけた椅子だろうって」
「それ、この客席だったんですか」
「そこまでは、覚えてないよ」
井口はハンカチを戻した。
「見下ろした覚えがあるだけだよ」
森田は、今日が井口の最後の日だったことを思い出した。そういう日に起きたから、何か意味があるように感じられるだけかもしれない。井口も、その話をしたあとは黙っていた。
窓にいた女が、また何か言った。扉越しには聞き取れなかった。笑う声がして、小さな足音が続いた。森田は顔を上げ、それから扉を見た。音はその向こうから聞こえていた。
森田は操作卓に残した原稿を思い出した。明日からも使う紙だった。部屋へ入り、そこまで歩けば取れる。井口は止めなかったし、一緒に行こうとも言わなかった。
森田は扉を開けた。
窓は閉まっていた。ガラスの内側に、大勢の顔があった。小さな子は、大人に抱えられて高いところから見ていた。森田が通路を進むと、その顔が少しずつ横へ動いた。誰もこちらへ降りてこなかった。それがかえって、上を向いて歩くのをやめられなくした。
操作卓の原稿を取り、紙を揃えた。女が窓を少し開けた。
「また始まる?」
森田は首を振った。口で言えば届く距離なのかも分からなかった。それでも、今日は終わりです、と言った。
窓の向こうで、大人が何かを説明していた。小さい子が不満そうな声を出した。森田は紙を胸へ抱え、通路を戻った。背後で窓が閉まった。
戸口に井口がいた。森田は紙を見せて、その横を通った。何も訊かれなかった。二人で扉を閉め、鍵を掛けた。
森田は鍵を抜き、井口へ渡しかけた。井口は受け取らなかった。明日からそれを持つのは自分だと気づき、森田はポケットへ入れた。
昼の番組で戻しておいた話は、結局、喋らずに終わった。森田は原稿を折らずに持っていた。
扉の向こうで、椅子を引く音がした。見上げる側の九人は、もう帰っていた。


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