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沢の反対側

まだ洗っていない匙が、下流の石に載っていた。

柄の赤い塗りが剥げた、私の匙だった。午前に家を出るとき、弁当の袋へ入れた。昼にカレーを食べたあとも、袋へ戻したはずだった。三十歩ほど下の石の上で見つけ、私は思わず自分のリュックを開けた。そこにも一本あった。洗っていない方には、乾いた黄色い筋が残っていた。

恭子は匙を両方並べ、双子みたい、と言った。

私たちは同じ中学校を出た。互いに結婚せず、隣町で働きながら五十代になった。たまに会っても将来を相談するような間柄ではなく、山菜や茸の季節になると連絡する。恭子は会社を早期退職して、最近は植物を押し葉にすることを覚えた。私は植物の名前にはあまり詳しくないが、二人で沢沿いを歩くのは好きだった。

あの日の沢は小さかった。水に入らず石伝いに渡れたし、向こう岸にもこちらと同じ明るい林があった。車を止めた橋から少し登り、平たい石の上で昼飯を食べた。恭子は採った葉を新聞紙へ挟み、私は袋の中から洗う物を取り出した。匙が足りないと気づいたのはそのときだった。

リュックを探すより先に、さっき歩いた水際へ行った。落とすならそこでしゃがんだときだろう。そう思った。下流の石に見つけ、戻って袋を開けると、もう一本あった。自分の匙なのに、誰かの物を取ってきたように感じた。

落ちていた方には、柄の傷も同じところへあった。ただ、いつも少し曲がっている首の部分が真っ直ぐだった。私は恭子に、同じ形の物を持ってくる人だっていると言った。安い匙だったので、珍しくはない。
「そんな古いの、まだ売ってる?」
恭子が聞いた。私は答えず、拾った方を石の上へ置いた。

使った匙を洗うと、首のところへ指が滑った。石に当て、少し力を入れてしまった。乾かしてみると、曲がりが真っ直ぐになっていた。私はさっきの場所を見た。拾った匙はなかった。恭子に聞いても、触っていないと答えた。

帰ろうか、と私が言った。恭子はまだ見たい草があるので、少しだけ上へ行こうと誘った。気味が悪いとは言い出せなかった。匙が二本あったと言いながら、今は一本しかない。私の荷物の整理が悪かっただけのようにも思えた。

沢を遡ると、湿った石に白いものが掛かっていた。薄い布で、裾が水につかっている。誰かの洗濯物かと思った。水の中の端が、流れに逆らってこちらへ揺れた。石に引っかかっているのではなく、白いものの方が石を抱えている。私は恭子の腕を引いた。
彼女は小さく頷き、川へ近づかなかった。

少し先に、紙が一枚落ちていた。新聞紙だった。恭子が押し葉に使っているのと同じ地元紙で、同じ面が上になっていた。開くと、まだ採っていない草の葉が挟まっていた。
恭子は自分の束を確かめた。全部揃っていた。私が帰ろうと言うと、彼女は紙の葉を見つめた。
「これ、見つけたいと思ってたんだよね」
たぶん、この沢にある。恭子はそう言った。

私にはその葉の種類が分からなかった。だが、虫に齧られた丸い穴が三つ空いているのは覚えた。恭子が少し歩いた先で同じ葉を見つけたので、私はすぐにやめてと言った。彼女はもう葉の柄を切っていた。丸い穴が三つあった。
「採らなかったら、どうなるの」
私は訊いた。
恭子は葉を持ったまま、困った顔をした。自分でやっておいて、考えてなかった、と答えた。

元の場所へ戻ると、新聞紙は消えていた。白い布のようなものも見えなかった。浅い水が、普通に下へ流れていた。恭子は自分の葉を新聞紙へ挟んだ。私はもう何も触らないで、車へ戻ろうと言った。彼女は素直に頷いた。

戻る道は一本だった。往きに見た倒木も、岩に残る鉤形の苔も、同じ場所へあった。迷ってはいなかった。それが余計に落ち着かなかった。先へ出たものを私たちが拾い、そのあとで自分たちが同じことをする。私は匙のとき、自分で落としたと思っていた。でも、落としたところは覚えていなかった。

川岸の枝に、私のタオルが掛かっていた。リュックの肩紐には、同じタオルを結んでいた。首へ巻こうとして結び目をほどく手が止まった。枝のものは端が裂けている。これから引っかけるのかもしれない。私はそのタオルを取らず、肩紐の結び目もそのままにした。

恭子が笑いかけた。
「先が分かるのに、得した感じがしないね」
声が震えていた。私は、知りたくないこともある、と答えた。彼女はもう笑わなかった。

橋の近くで、車のドアを閉める音がした。私たちは足を止めた。停めてある車は私の一台だけだった。鍵はズボンのポケットへ入っている。山へ入る別の人が来たのだろうか。音のした方へ行くと、車の横に恭子が立っていた。

恭子は私の後ろにいた。同じ色の帽子も、両手へ抱えた新聞紙も、車の横の彼女と変わらなかった。向こうの恭子は、助手席の窓へ手をつき、こちらを見ずに待っていた。私は後ろへ手を伸ばした。恭子が掴んだ。いつもの乾いた手だった。

「あっちに、私がいない」
私は言った。運転席には誰もいなかった。
「もう乗ってるのかも」
恭子の言葉に、私は強く手を握った。窓の向こうの運転席を、もう一度見ることができなかった。

車の横の恭子が、リュックを下ろした。こちらの恭子は下ろさなかった。向こうは車へ頬を寄せ、窓の中の誰かと話していた。私には声が聞こえなかった。こちらの恭子の手が、少しずつ汗ばんだ。

「待ってたら、先に帰るかな」
恭子が言った。私は待てないと答えた。夕方になる前にここを離れたかった。二人で車を通り過ぎ、橋を渡った。車の横の恭子は、一度もこちらを向かなかった。私の車なのに、鍵を開けられなかった。運転席の中へ自分の手を入れることを、考えたくなかった。

橋を渡りきると、携帯の電波が戻った。私は隣の市に住む兄へ電話し、迎えに来てほしいと頼んだ。車が動かないのかと聞かれ、動かしたくない、と答えた。場所を伝えると、三十分はかかると言われた。私は待てると答えた。さっき恭子には待てないと言ったのに、聞き慣れた兄の声を聞くと、急に待てる気がした。

恭子は橋の手摺へ腰を預け、新聞紙を持っていた。置いていこう、と私は言った。彼女は首を振った。
「置いたら、また落ちてるんじゃない」
意味は分かった。私たちが拾う前に、ここへ来てしまう。そうなると、何も持ち帰らずに済んだことにもならない。私は彼女の束へ触らず、自分のリュックを抱えた。

兄の車が来るまで、沢へは近づかなかった。一度、橋の下で人が咳をした。兄だと思って顔を上げたが、まだ車は来ていなかった。恭子は自分の口を押さえた。咳をしようとしていたのか、聞くことはできなかった。

兄は私たちを家まで送った。途中で私の車も見たが、誰もいなかったと言った。恭子はそれを聞いて、私が先に帰ったのかも、と言いかけた。兄は何の話か分からない顔をした。私は道の渋滞の話へ変えた。

翌日、兄と車を取りに行った。私は沢の方を見ず、すぐに運転席へ乗った。何もなかった。助手席の窓に手の跡はなかったし、拾ったはずの新聞紙も落ちていなかった。恭子の新聞紙は彼女の家にある。あの葉を押したまま、開いていないという。

それきり一緒に山へ行っていない。連絡はしている。互いに口にしないことが一つ増えただけで、関係が変わったとも言いにくい。私はあの匙をまだ使っている。しまった場所を何度も確かめるくらいなら、食事のたびに出した方がよかった。

秋、兄が家へ来た。玄関で私を見て、もう帰ってたのかと言った。仕事からは一時間前に戻っていた。どこかで見たのかと尋ねると、今、向こうの角を曲がっていった、と答えた。
「買い物に出たのかと思った」

私は靴を履かなかった。その日は買い物へ行くつもりだったが、冷蔵庫にある物で済ませた。兄は一緒に夕飯を食べ、気にするなと言って帰った。

夜になって、玄関の外で袋を置く音がした。私がいつも買って帰る、重い牛乳の入った袋を置く音だった。戸の外に立つ人は、鍵を探しているらしかった。布を探る音ばかりが長く続き、鍵は差し込まれなかった。
私は内側から鍵を握り、今夜はもう、外へ出ないつもりだった。

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