奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

目を閉じる家

飯塚が一人で鍵を受け取りに行ったのは、酒を買う役を引き受けたせいだった。
集まるのは、高校時代の友人四人。五十を過ぎてからは、誰かの家で朝まで飲むこともなくなっていた。一泊で借りられる家を見つけたのは長谷川で、酒と食べ物は持ち込みだという。四人で割れば宿より安かった。
「昔みたいにしよう」
長谷川が送ってきたその一行に、皆がすぐ返事をした。

家は湖へ下りる坂の途中にあった。車を一台停めるといっぱいになる庭と、錆びた物干し台がある。管理をしている女性は近くの喫茶店にいて、鍵を渡す時に、床が冷えるから暖房をつけておいてください、と言った。ほかに変わった注意はなかった。
飯塚は二度車と家を往復した。ビール、氷、水、つまみ。長谷川たちは釣り道具を借りに寄っていて、あと一時間はかかるらしい。釣れなければ肉を買っていく、という電話があった。飯塚は、魚が釣れても肉は買えよ、と言って切った。

台所の流しに、小さな蛙がいた。
蛇口の付け根へ腹をつけている。つやのある茶色の背中で、片方の目だけが飯塚を向いていた。目の上の皮が少し下がり、今にも閉じるところだった。
触るのは嫌だった。外に出すために何かの容器を探し、吊り戸棚を開けた。その時、背後の居間で電球が一つ、ちかっと暗くなった。振り返ると、大きなガラス戸に白い顔が映っていた。

狐かと思った。
鼻が細く、白い毛が額から頬へ流れていた。ガラスの外にいるのではなかった。反射する位置を辿ると、居間の天井近く、梁と壁の間へ、顔の半分が挟まっていた。
そこで初めて、飯塚は息を止めた。梁と壁の隙間など、指が入るほどもない。白い顔には首から先がなく、頬の下の皮が、梁に沿って平たく延びていた。目は半分閉じていた。
瞬きをしているところだ、と飯塚は思った。

彼は後ずさり、勝手口のノブへ手をかけた。戸は普通に開いた。庭に風が吹き、物干し台に掛かった一本の洗濯ばさみが揺れた。その動きを見た途端、少し落ち着いた。妙な飾りのある家だったのかもしれない。
勝手口の脇には浴室があった。戸が開いていたので、横を向けば中まで見えた。白い浴槽に、黒いものが入っていた。
魚だった。大きな目と、丸く開いた口。腹から下が浴槽の向こう側へ続き、尾は見えない。水は一滴も張られていなかった。魚の目には薄い膜が斜めにかかり、その膜の端に、浴室の窓が映っていた。

飯塚は庭へ出ようとした。
目の前に、蛇口にいた蛙が見えた。身体を向け直したわけではない。庭の土も、洗濯ばさみも見えているのに、同時に、台所でこちらを向いた小さな目があった。
梁の白い顔も見えた。浴槽の魚も見えた。三つのものは重ならず、互いの邪魔をしなかった。どれも、飯塚の顔を同じ近さで見ていた。
彼は目を閉じた。暗くならなかった。自分の瞼の裏側が赤くなる、その赤の向こうから、三つの目がこちらを向いていた。

庭へ一歩下りると、右の膝が抜けた。
転ぶほどの段差ではない。十センチくらいだった。勝手口の縁へ手をついた時、指の関節にひどく深い皺ができた。手を伸ばしても皺が残った。
飯塚は膝を折り、庭に座り込んだ。身体は軽かった。なのに、自分の腰を持ち上げられなかった。指先から手の甲へ、細かな茶色い斑が増えていった。手首の時計がゆるみ、掌のほうへ下がってきた。
時計は動いていた。秒針が、いつもと同じ速さで回っていた。

長谷川へ電話しなければと思った。
ズボンの後ろポケットから携帯を出した。指が滑り、庭へ落とした。屈もうとすると背中が痛んだ。仕方なく左手を地面につき、身体ごと倒れながら拾った。
画面の文字は読めた。さっきの通話のところに、長谷川の名前がある。そこを押した。呼び出しの音がして、向こうで車の窓を開ける音がした。
「もう着いた?」
飯塚は、来てくれ、と言ったつもりだった。
自分でも、どこから声が出たか分からなかった。喉の前に、薄い袋が垂れていた。その袋の中で声が鳴った。長谷川が聞き返した。
「誰ですか」

飯塚は苗字を言った。二度言って、やっと伝わった。
「どうした、風邪か」
彼は返事をしようとした。口の中で、奥歯が一本動いた。舌で押すと歯茎から離れ、頬の内側へ落ちた。携帯を握る指が曲がらなくなった。落とす前に膝へ載せようとして、手を下げた。
その膝も、さっきまでの自分のものではなかった。ズボンの布が余り、下で丸い骨だけが目立っていた。
「飯塚?」
長谷川の声がした。彼は口を開いた。歯が胸へ落ち、そのまま地面へ転がった。

目はまだそこにあった。
蛙の上瞼は、最初に見た位置から少しも動いていない。梁のものも、魚の膜もそうだった。飯塚の視界の奥には、その三つと一緒に、知らない目がいくつもあった。座敷の押入れ、洗面台の下、廊下の突き当たり。見に行っていない場所なのに、どこにいるか分かった。
一つは濡れた羽に囲まれていた。別の一つは、太い毛の束に隠れていた。瞼のない、丸い穴のようなものもあった。そこにも、閉じようとする動きだけがあった。
家じゅうの何かが、こちらを見てから、目を閉じようとしていた。

飯塚は携帯を胸へ引き寄せた。
長谷川は切らずにいてくれた。後ろから別の友人の声がした。何かあったのか、と訊いていた。聞こえる、と伝えたかった。まだ聞こえている。自分はここにいる。
唇が乾き、口が横へ裂けたような痛みがあった。片頬だけが肩へ近づいていった。顎を引いたのではない。首が支えられず、顔の重さで傾いていく。
手から携帯が外れた。身体の上を滑り、庭へ落ちた。長谷川の声は、地面から聞こえた。

飯塚は車まで這おうとした。
ほんの三メートルほどだった。白いドアが見えている。そこへ行ければ、シートに座れる。ドアを開け、クラクションを鳴らせば、喫茶店まで聞こえるかもしれない。
両手を土についた。指は閉じたままだった。手の甲を使って身体を送ろうとすると、皮膚が砂利で裂けた。血が滲んだが、腕はもう痛まなかった。
車のドアに映ったものを見て、彼は動くのをやめた。
背中が高く盛り上がり、頭がその下に垂れていた。シャツの首元から、毛のない頭が出ている。口は開きっぱなしで、頬の内側の黒いところまで見えていた。飯塚が見ている間にも、その頭は小さくなっていた。

足元で、乾いた音がした。
車のタイヤに、小さな木の実が当たった音だった。庭の隅に生えた木から落ちてきた。風は相変わらず吹いている。洗濯ばさみが、物干し台の棒を何度も叩いていた。
その音に腹が立った。こんなところで、何もかも普通に動いている。目の前の坂を、自転車を押した人が上がってきた。呼ぼうとしたが、空気が漏れただけだった。人は家の前を通り過ぎた。飯塚は、片手だけでも上げようとした。
その時、台所の蛙の目が、すっと閉じた。梁の白い顔も、浴槽の魚も、同時に目を閉じた。

暗くなった。
ほんの一瞬だった。車のドアが目の前に戻った時、彼は右腕を伸ばしたまま庭に座っていた。腰の下に落ち葉が一枚挟まり、尻が冷たかった。
手には皺も斑もなかった。口へ指を入れると、奥歯は全部あった。舌を何度も当てた。額、頬、首を順に触り、それから、自分の膝を抱えた。
庭の携帯から、長谷川が何か言っていた。

「おい、どこ行った」
飯塚はそれを拾った。立ち上がろうとはしなかった。膝の上で携帯を持ち、息を吸ってから答えた。声は元に戻っていた。
「外にいる」
「家の?」
「庭」
「何だよ。もしもしって、ずっと言ってたんだけど」
長谷川が笑った。後ろで、もう一人も笑った。
飯塚はしばらくその声を聞いていた。さっきの自転車は坂を上りきっていた。洗濯ばさみは風の止むたびに黙り、吹けばまた棒へ当たった。

友人たちが着くまで、飯塚は庭にいた。
車の鍵はズボンのポケットにあるのに、取り出そうとすると、指が動かなくなりそうで怖かった。長谷川の車を見て初めて立った。足は普通に伸びた。身体の重さを、両足の裏で受け止めた。
何があったと聞かれ、彼は台所のほうを指した。少し前まで見えていた、あの無数の目はもうなかった。開いた勝手口の向こうに、買ってきた氷の袋が置きっぱなしになっていた。水が床へ広がっていた。

長谷川が家へ上がった。止める声が出る前に、台所の蛙を見つけたらしかった。
「こいつか」
少し笑った声がして、長谷川が空の菓子箱を持って出てきた。中に蛙がいた。庭の草の上で箱を傾けると、蛙は一度跳び、草の陰へ消えた。
飯塚は、もうここには泊まらない、と言った。長谷川は彼の顔を見た。その場で管理の女性へ電話をかけ、急に体調が悪くなったと伝えてくれた。

氷も酒も、友人たちが運んだ。
飯塚は門の外で待っていた。誰かが家の中から笑うたび、息が止まった。最後に長谷川が戸を閉め、鍵をポケットへ入れるところまで、彼は一歩も動かなかった。
夕暮れには、四人で湖の向こうの旅館にいた。飯塚は酒を飲まず、椀の蓋を両手で持っていた。女将が料理を運んできて、彼の前で一度足を止めた。
「熱いですから、お気をつけて」
子供か老人に向けるような、ゆっくりした言い方だった。
飯塚は顔を上げず、蓋を置いた。まだ温かい膝の上で、指を一本ずつ曲げた。向かいの三人には、何も訊けなかった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました