奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

お隣の解体日

隣の家がなくなれば、台所にも朝日が入る。

妻はそれを楽しみにしていた。二軒の間は、人が横向きになってようやく通れるくらいしかなかった。台所の窓を開けても見えるのは隣家の壁で、湿気の多い日は、窓枠まで緑がかった色になった。隣に住んでいた高瀬さんが亡くなり、土地を売ることになったのは六月だった。

息子さんが挨拶に来た。長く家を空けることになると思っていたが、買い手が早く決まった。解体の間は音が出る。窓は閉めておいてほしい。そういう、きちんとした挨拶だった。私たちは菓子折りを受け取り、お気遣いなく、と言った。

その夜、台所で洗い物をしていると、隣の壁に階段の影が映った。初めは、工事の足場が月明かりで映っているのだろうと思った。だが足場はまだ組まれていなかったし、影は斜めに上がる階段の形をしていた。人が下りてきた。足から見えた。ゆっくり二段下り、一段のところで止まった。

私が蛇口を閉めると、影も止まった。窓を開けた。隣の壁には何も映っていなかった。

翌日から工事が始まった。まず屋根の瓦が剝がされ、窓が外された。妻は騒音を避けて図書館へ出かけた。私は在宅で仕事をしていたので、昼休みに外へ出て、職人の人たちへ冷たいお茶を差し入れた。庭には、鏡が並んでいた。大小合わせて十枚ほどあった。姿見も、洗面台の鏡も、木の枠に入った小さなものも、全部が裏を上にして置かれていた。

「こんなに鏡があったんですね」
私が言うと、職人の一人が頷いた。
「壁の中にも入ってたんですよ」
言い方が可笑しかったので、私は笑いかけた。職人は笑わなかった。
「台所の壁。そちらのお宅に面してるところです」
鏡は、壁板と土壁の間に挟まっていた。どれも鏡面を隣へ向けていたのだという。釘で留めるでもなく、布で巻いて、柱と柱の間に立ててあった。

私は昨夜の影を思い出した。職人は話を切り上げ、お茶を配りに行った。

その午後、私の台所へ初めて日が入った。正確には、隣家の屋根がなくなり、西日が斜めに射し込むようになったのだった。妻は帰宅すると、明るいね、と何度も言った。窓の前に、小さな鉢を置いた。水をやる間、私は壁を見ていた。階段の影は、昼間もあった。

隣家の壁はもう半分なくなっていた。それなのに影は、残った壁から先へ続いていた。向こうが透ける空間にも、段の形が黒く浮いていた。私には見えた。妻には見えなかった。
「目が疲れてるんじゃない」
妻はそう言い、私の前に飲み物を置いた。

夕方、職人が道具を片付けた後で、私は隣の庭を覗いた。まだ柵はなく、ロープが一本張ってあるだけだった。壁から出た鏡は、トラックに積まれていた。地面に、小さな石が散らばっていた。砕けた土壁の中から落ちたのだろう。丸く磨かれた、灰色の石だった。

一つ拾った。薄い縁に光を当てると、虫が入っているのが見えた。羽を畳んだ、小さな蛾に似ていた。石の中へ虫を埋めた飾り物だと思った。その虫が、身体を裏返した。脚が壁に張り付いた人の手のように動いた。私は石を落とした。石は地面に当たり、二つに割れた。

中は空だった。隣家の影の階段で、誰かが一段下りた。足が、地面に着いた。私は家へ戻り、台所のカーテンを閉めた。妻には、窓を開けないでほしいと頼んだ。何を言っているのか分からない、という顔をされた。私も説明しながら、自分の声が妙に大きくなるのを感じた。

その晩、壁を歩く音がした。天井ではなかった。台所と居間の間の壁を、足の裏で踏んでいる音だった。上から下へ、畳に近づいてきた。妻も聞いた。二人で居間の真ん中に座り、音が床へ達するのを待った。最後の一歩だけが、いつまで経っても来なかった。

翌朝、私は解体業者に鏡を返してもらえないか頼んだ。勝手にはできないと言われた。私は高瀬さんの息子さんへ電話した。息子さんは、鏡、と聞いただけで黙った。
「何かありましたか」
その声で、知っていたのだと思った。私は見たものを全て話した。息子さんは途中で遮らなかった。最後に、石を割ったことまで話すと、長い息を吐いた。

「父には、触るなと言われていました」
「何のために入れてあったんですか」
「分かりません」
私は腹が立って、分からないでは困る、と言った。息子さんも声を荒げた。
「私だって困ってるんです。知らないものを、相続しただけなんですから」
電話を切る前に、彼は住所を確認した。

その日の午後、息子さんが来た。鏡を積んだトラックも戻ってきた。職人たちは理由を聞かず、敷地の隅へ鏡を下ろした。息子さんは父親の遺品らしい大きな手帳を持っていたが、開かなかった。
「これは仕事の帳簿でした。何も書いてありません」
期待される前にそう言った。

私たちは台所に向かい合う壁の前へ鏡を運んだ。二枚を立て掛けた時、息子さんが鏡の中を見て、手を止めた。映っていたのは、私の家だった。その屋根の上に、人が何人も立っていた。全員、膝を曲げていた。立っているのではなく、地面へ下りる直前の姿勢だった。首が前へ倒れ、両腕だけが長く後ろへ伸びていた。

私は自宅の屋根を見た。誰もいなかった。息子さんが鏡を回した。影の人々も向きを変えた。その一人が、鏡の端へ近づいた。顔のある場所に、小さな灰色の石が詰まっていた。石の一つ一つの中で、黒い脚が動いていた。息子さんは鏡を伏せた。

自宅の壁が、内側から叩かれた。妻が中にいた。私は走って家に戻った。妻は台所の床に座り、両手で耳を塞いでいた。水切り籠が落ち、皿が割れていた。

窓の外に、手があった。隣の壁とこちらの壁との間を、何本もの腕が横切っていた。両側に掌を突っ張り、狭い隙間で身体を支えていた。身体は見えなかった。手の甲の真ん中に、蛾のような翅が生えていた。私は妻を玄関から外へ出した。

息子さんは、鏡を立て直していた。今度は鏡面を隣家の内側へ向けていた。私の家ではなく、自分の父親が暮らした部屋の跡を映す向きだった。影の階段が、そちらへ傾いた。息子さんの肩へ、何かが載った。見えない重さに押され、彼の膝が折れた。

私は鏡の反対側を持った。二人で支えた。息子さんの首筋に黒い斑点が増え、その一つが小さく羽ばたいた。
「こっち、向けて」
彼は歯を食いしばって言った。鏡を、家の中央へ向けた。まだ壊していない風呂場があった。窓のない小さな部屋で、浴槽だけが残っていた。

鏡の中では、そこに高瀬さんが座っていた。亡くなった時と同じ白髪で、下着姿だった。両手を浴槽の縁に掛け、こちらを睨んでいた。息子さんが、お父さん、と言った。高瀬さんは口を開いた。聞こえたのは、人の声ではなかった。乾いた石を何十個も擦る音だった。

鏡が重くなった。息子さんが手を離しかけ、私は支える位置を変えた。鏡の縁が掌に食い込んだ。地面の石が、風呂場へ転がっていった。一つずつ、土の塊から出てきた。石の内側から脚が突き出し、それで歩いていた。風呂場の壁が、外へ膨らんだ。

私は鏡を放した。割れる音を覚悟したが、鏡は地面へ着かなかった。途中で何かに支えられ、斜めに浮いていた。息子さんが私の腕を引いた。二人でロープの外へ出た。風呂場の壁が、ゆっくり倒れた。崩れたというより、身体を横へ寝かせるような倒れ方だった。浴槽を中へ抱え込み、残った柱も同じ向きに曲がった。

鏡は、その内側へ消えた。砂埃が上がった。それが収まった後、敷地には普通の瓦礫があった。石も、影の階段も見えなかった。

解体作業は三日後に再開した。私は、その三日間を妻とホテルで過ごした。業者から連絡が来るたびに、妻は私より先に電話を見た。息子さんは、土地の売却をやめた。理由は詳しく聞かなかった。ただ、基礎を掘る作業を見てから決めたのだという。

作業員が撮った写真を、一枚だけ見せてもらった。地面の下に、壁があった。私たちの家へ向かって、横倒しの家が埋まっていた。部屋の入口らしい四角い穴があり、その奥に、小さな鏡が並んでいた。息子さんは、掘るのをやめてもらった、と言った。

「父が入れたのかと思ったんですけど」
彼は写真を拡大した。土の中の鏡は、どれも、私の家と反対を向いていた。その意味を、二人とも口にはしなかった。

隣は今、空き地のままだ。台所へ朝日が入る。妻はそこへ鉢を三つ並べている。私は窓を塞ごうかと言ったが、妻は首を振った。
「せっかく明るくなったのに」
その気持ちは分かった。

夜だけ、二人でカーテンを閉める。窓に自分たちの顔が映る前に閉める。

息子さんは月に一度、空き地の草を刈りに来る。終わると私の家へ寄り、お茶を飲む。父親の話はしない。私も、壁の下から一歩だけ足音がする日があることを、まだ言えずにいる。

コメント

タイトルとURLをコピーしました