祖父の髪を切る役は、夏の間だけ、美帆に回ってきた。
床屋へ行くと長さが気に入らない。家で叔母に切らせると、耳を傷つけられると怒る。美帆なら文句を言わないのは、腕がよいからではなく、孫に嫌われたくないからだった。縁側へ椅子を出し、新聞紙を広げる。首に古い風呂敷を巻くと、祖父はようやく大人しくなった。
八月の初め、美帆はいつもより長い白髪を、鋏で少しずつ落とした。耳の後ろに、黒い髪があった。一本だけではなかった。指で分けると、内側に若い人のような太い髪がまとまって生えていた。
「ここだけ黒いよ」
美帆が言うと、祖父は鏡を寄越せと言った。
丸い手鏡を渡すと、祖父は横顔を映して、満足そうに頷いた。
「まだ生えるんだな」
二十一歳の美帆には、八十二歳で新しく生えた髪を喜ぶ気持ちが分からなかった。それでも、よかったね、と言って、黒いところは残した。
その夜から、祖父は二階で寝ると言い始めた。足腰が弱り、階段を使わずに済むよう、一階の和室へ布団を移したばかりだった。叔母が止めても聞かなかった。
「こっちは蒸す」
冷房のある和室でそう言った。美帆は二階へ布団を運んだ。祖父の部屋だった場所には、描きかけの絵が何枚も立て掛けてあった。祖父は昔、中学校で美術を教えていた。退職後も、頼まれれば近所の人の肖像を描いた。
その中に、祖母の絵があった。祖母は十二年前に亡くなっていた。美帆の記憶の中では、いつも短い髪にエプロンを着た人だった。絵の祖母は若かった。胸まである黒髪を、片側へ流していた。顔は輪郭だけで、目も鼻もまだ描かれていなかった。髪だけが妙に細かく、一本ずつ撫でつけたように光っていた。
「これ、いつからあるの」
美帆が聞くと、祖父は布団の端に座りながら、ずっとだ、と言った。
「仕上げてないんだ」
「顔を忘れた」
美帆は祖父の顔を見た。祖父は冗談を言った顔ではなかった。
「写真、いっぱいあるじゃない」
「写真とは違う」
それ以上聞くのは、悪い気がした。
翌朝、祖父の黒髪が肩に届いていた。白髪は昨日切った長さのままだった。耳の後ろの一束だけが、襟足を越えて伸びていた。美帆が触ろうとすると、祖父は肩を避けた。
「引っ張るなよ」
「引っ張らない。ちょっと見せて」
髪には、細かな黄色い粒が付いていた。花粉に似ていた。指で擦ると潰れ、青い草の匂いがした。
叔母は祖父を病院へ連れていこうとした。祖父は、髪が生えたくらいで病人扱いするな、と怒った。叔母も怒鳴り返した。美帆は二人の間に入るのをやめ、縁側の新聞紙を畳んだ。昨日切った白髪が、なかった。風で飛んだのだろうと思ったが、新聞紙の折り目には、黒い短い髪が幾つも残っていた。
美帆はそれを紙に包んだ。
その夜、二階で櫛の音がした。窓を開けていたせいで、虫の声の合間にはっきり聞こえた。髪を梳かす、長い音だった。美帆は階段を上がった。祖父は絵の前に座っていた。背中へ垂れた黒髪が、畳の上まで届いていた。手には、祖母の使っていた赤い櫛があった。
櫛を通すたびに、祖父の背中が少し丸くなった。手鏡には、若い女が映っていた。祖母かどうかは分からなかった。目を伏せ、唇を結んだ女。祖父が櫛を下ろしても、鏡の女は自分の髪を梳かし続けた。美帆は祖父の肩を叩いた。祖父が振り向いた。
顔の皮膚が、紙のように薄くなっていた。頬の皺の奥に、細い黒い線が詰まっていた。髪だった。
「切ろう」
美帆は言った。祖父は首を振った。
「もう少しで、思い出せる」
「何を」
「ばあさんの顔だ」
美帆は絵を見た。輪郭だけだった顔に、口ができていた。
笑っていなかった。上下の唇が強く押し合い、顎が少し引かれていた。祖母が怒る時に似ていると思った。
「これ、おばあちゃんが嫌がってるんじゃないの」
美帆が言うと、祖父は初めて声を荒げた。
「お前に分かるか」
声は祖父の声だった。
そのことが、美帆には怖かった。妙なものに乗り移られているのなら、まだ祖父を庇えた。だが、今の祖父は、自分の欲しい顔を孫に邪魔されたくなくて怒っていた。美帆は部屋を出た。
翌朝、祖父は屋根にいた。二階の窓から、物干し台を伝って上がったらしかった。黒い髪が瓦を覆い、雨樋から庭へ垂れていた。髪の束の先には、黄色い粒が花のように固まっていた。叔母が梯子を運び、美帆が下を支えた。祖父は降りようとしなかった。
「こっちは風がいい」
真夏の屋根の上で、涼しそうに笑った。救急へ電話した叔母が、どう説明していいか分からず、父が屋根に、と繰り返していた。
美帆は二階へ上がった。絵の祖母には、両目ができていた。二つとも閉じていた。髪は絵の中から床へ続いていた。絵の具の黒い部分が枠を越え、畳の目に沿って細く伸びている。祖父の背中の髪と、窓の敷居で絡み合っていた。美帆は鋏を持ってきた。
一本を切ると、屋根の上で祖父が呻いた。二本目を切ると、鏡の女が目を開いた。手鏡は畳に伏せてあった。それなのに鏡の丸い裏側に、女の目が見えた。美帆は鋏を止めた。祖父が窓へ顔を出した。
「やめろ」
髪に引かれ、頭だけが下がっていた。自分で覗いているのではない。首の後ろから何本もの髪が伸び、顎を窓の高さへ吊っていた。
美帆は祖父の両肩を掴んだ。髪が、手首へ巻き付いた。強い力だった。祖父を引き込もうとした美帆の身体が、逆に窓枠へ押し付けられた。外から叔母の声がした。梯子を上っていた。
「美帆、離して」
「落ちる」
「こっちで持つから」
叔母の手が、祖父の腰を掴んだ。
美帆は手首の髪を鋏で切った。皮膚も少し切れた。血が出ると、髪の先が傷へ集まった。彼女は腕を服に擦りつけ、絵の前へ下がった。若い女の口が開いていた。歯は描かれていなかった。口の中は白い下地のままだった。それを見て、美帆は思い出した。
祖母は、写真を撮られる時、いつも口を閉じていた。前歯を一本欠いていて、人に見せたくないのだと、子供の美帆に教えてくれた。祖父が笑えと言うので、余計に笑わなくなる人だった。美帆は祖父の机から筆を取った。白い絵の具を出した。
顔を描き足すつもりはなかった。目を閉じ、口を開かされている、その顔を見ていたくなかった。最初に、口を塗り潰した。窓の外で祖父が叫んだ。絵の髪が、筆へ巻き付いた。引っ張られ、筆先が女の頬を横切った。白い筋が鼻のあるはずの場所まで伸びた。
美帆は筆を放した。手の平で、顔を塗った。絵の具が指の間へ入った。髪が手首へ絡んだ。美帆はそのまま腕を大きく動かし、目も眉も、祖父が一晩で描いたはずの顔を消した。絵の裏から、息を吐く音がした。長かった。我慢していた息を、ようやく外へ出す音だった。
窓の外で髪が落ちた。祖父の身体を吊っていた束が、ただの重い髪になった。叔母が悲鳴を上げ、美帆は窓へ戻った。二人で祖父を支え、どうにか部屋へ入れた。救急隊が来た時、祖父は畳に横たわっていた。髪は全て白くなっていた。長さも、前日に切ったところまで戻っていた。
隊員が血圧を測る間、美帆は床の黒髪をタオルで覆った。誰かに踏まれるのが嫌だった。
祖父は病院で一週間過ごした。脱水と疲労がひどかった。美帆も手首の傷を縫った。傷口に異物が入っていたので、処置には思ったより時間が掛かった。祖父は退院しても、二階へ上がりたがらなかった。絵をどうした、とだけ聞いた。叔母は、仕舞った、と答えた。
実際には、白く塗り潰したまま納戸へ入れた。黒髪は乾くと粉になり、掃除機で吸うことができた。美帆は集塵袋を厚い袋へ入れ、しばらく物置に置いた。
秋になる前に、美帆は下宿へ戻った。出発の日、祖父は縁側の椅子に座っていた。膝の上に風呂敷を置き、切ってくれ、と言った。耳の後ろの白髪が、少し伸びていた。美帆は鋏を持ってきた。祖父は手鏡を持たなかった。
「ばあさん、こんなふうに髪を切ってくれたんだ」
美帆は頷いた。
「長い髪、好きだったの」
祖父は答えるまでに時間を掛けた。
「俺はな」
美帆は、耳の上の白髪を少しずつ落とした。
その年の冬、叔母から電話があった。祖父が、あの絵を人に見せたいと言っているらしかった。顔を消したままでは気の毒だ、と。美帆は行かないで、と言った。叔母は、何を、と聞いた。美帆は電話を耳から離しかけた。叔母の声の後ろで、櫛を通す音がしていた。乾いた髪を梳く音ではなかった。濡れた布を、ゆっくり引き裂くような音だった。
美帆は電話を切らなかった。祖父を呼んでもらい、絵の前から離れるまで喋り続けた。大学の話をした。就職が決まらないことも、叔母には言えなかった借金のことも話した。祖父は途中から怒り始めた。
美帆は泣きながら聞いた。
電話の向こうで、ようやく櫛の音が止まった。


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