花束は、トランクに入れましょうか。
菅生がそう聞くと、女は首を振った。
「膝に載せておきます。潰したくないので」
白い紙で包んだ、小さな花束だった。薄紫の花が二本と、緑の細い葉。菅生には花の名前が分からなかった。妻なら分かっただろうが、花を買って帰ったのは結婚記念日に一度だけだった。
雨が降り始めていた。女は駅の南口で乗った。年は四十前後。黒いジャケットの肩に細かな水滴があり、髪は濡れていなかった。行先は川向こうの市民会館だった。
「先生の退職のお祝いなんです」
まだ走り出してもいないのに、女はそう言った。
「それは、遅れられませんね」
菅生が返すと、女は、はい、と笑った。車内に甘い匂いが広がった。花というより石鹸に近い。菅生は子供の頃、母親の鏡台の引き出しにこんな匂いがしたことを思い出した。そこには使わない香水と、持ち手の折れた櫛があった。
南口から市民会館へは、橋を一つ渡ればいい。菅生は大通りへ出る前の交差点で停まった。左の歩道から、傘を持った女が駆け寄ってきた。後部座席の窓を軽く叩いた。乗っていた女が、その人を見て手を上げた。知り合いだと思い、菅生はドアを開けた。
二人目の女も花束を持っていた。白い紙に、薄紫の花が二本。同じ店で買えば同じものになるのだろう。だが、紙の右下に付いた丸い水の染みまで同じだった。女は傘を畳み、後部座席の右側へ座った。
「すみません。間に合ってよかった」
「お連れさまですね」
菅生が言うと、二人が同時に、はい、と答えた。
声の高さは少し違った。二人目のほうが、若く見えた。三十を出たくらい。顔立ちはよく似ていたが、姉妹だと決めるほど見比べはしなかった。客の顔を鏡でじろじろ見るのは失礼だった。信号が青になった。菅生は発進した。
「市民会館で、よろしいですね」
「南口にお願いします」
「裏口にお願いします」
二人が同時に言った。
後部座席で、短い沈黙があった。最初の女が笑った。
「南口で大丈夫です。先生、そこで待ってるから」
二人目も笑った。
「先生は、裏から入るんですよ」
菅生は、会館へ着いてから決めてもらえばいいと思った。ナビには会館の代表地点を入れてある。どちらの入口も敷地の中だった。
橋へ向かう道で、匂いが変わった。甘い匂いの下に、濡れた紙のようなものが混じった。古い押し入れを開けた時の匂いだった。エアコンの送風口を一段下げたが、消えなかった。二人は喋らなかった。仲が悪いのだろうか、と菅生は考えた。似た花束を別々に買い、目的の入口も決めていない。集まる同窓生同士なら、珍しいことでもない。
ところが、赤信号でルームミラーを見た時、二人ともこちらを見ていた。正確には、菅生の後頭部の、同じ場所を見ていた。最初の女は左に座っている。二人目は右だった。それぞれ別の角度から見ているのに、二人の視線が首の後ろの一点に集まっているのが分かった。
菅生は襟に指を入れた。
「暑くありませんか」
「寒いです」
左の女が言った。
「少し、暑いです」
右の女が言った。菅生はエアコンを止めた。その途端、窓が曇った。内側だった。後ろの窓から白くなり、左右のドアを伝って前へ来た。ワイパーを動かしても変わらない。当たり前のことなのに、菅生は一度、強くレバーを引いてしまった。
フロントガラスの曇り止めを入れた。白い膜の向こうに、手があった。外から、窓へ掌を付けていた。車は止まっている。歩道側なら人が立つ場所はある。だが手は車線側にも、フロントガラスの真ん中にもあった。どれも指を広げ、爪の先が上を向いていた。
菅生は後ろを見た。窓の外に、人の顔が並んでいた。雨に濡れた髪が頬へ張り付き、口元だけが笑っていた。目は車内へ入れようとするように、窓に押し付けられていた。信号が青になった。後ろの車がクラクションを鳴らした。菅生は走り出した。
顔は付いてきた。窓の上からぶら下がっていた。肩も腕も、ドアの下へ続いている。身体がどこにあるのか見えなかった。二人の女は、それぞれの花束を見下ろしていた。菅生は左へ寄せ、コンビニの広い駐車場へ入った。人のいる店なら、という考えしかなかった。
車を停めると、左の女が言った。
「ここじゃありません」
右の女も、同じことを言った。
「申し訳ありません。ちょっと、車の具合が」
「車は大丈夫です」
左の女がすぐに返した。右の女は菅生の肩を指した。
「運転手さんのほうです」
首の後ろが濡れていた。
菅生はハンカチを当てた。ぬるい水だった。汗とは違った匂いがした。花束の甘さと、窓の外の古い紙の匂いが、同じところから出ていた。菅生は運転席のドアを開けようとした。手が動かなかった。肘は曲がった。肩も動いた。だが指先が、ハンドルの上に置かれたままだった。握っているわけでもない。誰かに軽く押さえられているように、指だけが離れなかった。
左の女が、花束の紙を少し開いた。細い花の茎が見えた。その切り口が、菅生の指と同じ形をしていた。爪まであった。右の女も包みを開いた。そちらの切り口は、白い骨のように丸かった。菅生は自分の指を見た。五本ともちゃんと付いていた。
女たちは、互いを見た。初めてだった。二人の顔は同じになっていた。年齢の違いが消え、同じところに皺があり、同じところに髪が貼り付いていた。どちらも困ったような顔だった。
「先に乗ったのは、私です」
左の女が言った。
「呼んだのは、私です」
右の女が答えた。
菅生は南口で女を乗せた時のことを思い返した。客待ちの列にいた。女が近づき、目が合った。自分からドアを開けた。それは覚えていた。その前から、車内に甘い匂いがしていた。妻が車に忘れた菓子でもあるのかと思い、座席の下を見たことまで思い出した。まだ誰も乗っていなかった時に。
右の女が、こちらを見た。
「気づいてたでしょう」
菅生は答えなかった。左の女は、花束を胸に抱いた。
「でも、この人は私を乗せたんです」
窓の外の顔が、一斉に左を向いた。左の女は、唇を噛んだ。その顔だけは、普通の人間に見えた。失敗して、謝ることも逃げることもできずにいる客の顔だった。
菅生は、声を絞り出した。
「お二人とも、降りていただけますか」
右の女が首を傾げた。
「どこに?」
「ここです」
「この人だけなら、降ろせますよ」
右の女は、左の女を指した。窓の外の手が、後部座席のドアに集まった。爪がガラスを叩いた。
菅生は、コンビニの入口を見た。傘を差した若者が、コーヒーを持って出てきた。こちらをちらりと見て、何も気づかず横を通った。菅生は声を出した。若者は振り向かなかった。自分の声が車の外へ出ていかないのが分かった。窓にぶつかって戻るのではない。喉から先で、誰かに飲まれていた。
菅生は料金メーターを見た。千二百円だった。左の女を乗せてから、そこまで走っていた。彼は、右手の肘でメーターの停止ボタンを押した。それから苦労して腰の財布を引き出し、千円札と百円玉を二枚、助手席へ落とした。
「お代、返します」
二人の女が見た。
「まだ払っていませんよ」
左の女が言った。
「承知しています」
菅生は、紙幣を指で後ろへ押そうとした。指は動かなかった。
「乗せた時に、お連れかどうか、ちゃんと聞かなかった。すみませんでした」
彼はバックミラーの中の左の女へ頭を下げた。
右の女が、花束を膝から下ろした。甘い匂いが強くなった。
「この人は、あなたを知りませんよ」
「それでもです」
菅生は、仕事で何度も謝ったことがある。間違っていないと思いながら謝る時もあった。だが、この時は本当に、自分が悪かった気がした。窓を叩いた人を、座席の客が知っているとは限らなかった。
左の女が花束を置いた。そっと、菅生の肩に手を載せた。指がハンドルから離れた。彼はドアのスイッチを押した。左の女は外へ出た。顔の並んだ窓の下を、身を屈めて通った。菅生は右の女を見ないようにして、運転席のドアを開けた。空気が冷たかった。
二人は、コンビニまで走った。店員が驚いてレジから出てきた。菅生は車を指した。女は、後ろを見ないで、と彼の腕を掴んだ。その手は、小さく震えていた。
警察官が来るまで、二人とも窓のない事務所にいた。女は、先生の退職を祝う会へ行く途中だったと言った。二人目の女など知らなかった。窓を叩かれ、顔を向ける前に、勝手に手が上がったのだという。
「迎えに来たんだと思いました」
誰が、と聞かれると、女は泣いた。
菅生はそれ以上聞かなかった。車内には誰もいなかった。花束もなかった。助手席に、千二百円だけが落ちていた。警察官が鍵を戻した時、菅生はそれを受け取れなかった。
翌日、同僚に頼んで車を営業所へ運んでもらった。首の後ろには細い傷が五本残った。医者には、皮膚を強く掻いた跡だろうと言われた。菅生はその車に、もう乗っていない。
客を乗せる仕事は続けている。子供の学費もあるし、ほかに得意なこともなかった。花束を抱えた客が来ると、今でもトランクに入れましょうかと聞く。断られれば、それ以上は言わない。ただ、途中で窓を叩く人がいた時だけは、手を上げる客にも、ドアの外の人にも、別々に聞く。互いの名前を、相手に答えてもらう。
面倒そうな顔をされることもある。
菅生は、その顔を見ると少し安心する。知らない人を勝手に乗せられて怒れるうちは、まだ、車の中に自分の席があると思えるのだった。


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