夫が私の名前を呼んでいた。
声をかけようとして、やめた。
こちらを向いていなかった。川沿いの草の中で、石に載せた菓子へ顔を近づけていた。
私の名前をもう一度言い、今度は手を合わせた。
何かの冗談を、誰に見せるつもりなのだろうと思った。
その少し前から、夫は一人で釣りへ行くようになっていた。
朝早くに出て、昼には戻る。釣った魚を持って帰ったことはない。行っても釣れないんだよ、と笑うので、道具の使い方から習った方がいいのではないかと言った。
夫はむっとした。
結婚して十三年になる。そんなことで腹を立てる人ではなかった。私も仕事が忙しく、会話の半分くらいが、片づいていないことを指摘する言葉になっていた。
もう少し普通に話さなければ、と思っていた。
朝ご飯は食べたのか、車に忘れた傘は濡れたままなのか。口を開けばまた同じようなことを言いそうで、黙ってしまう。
夫も黙っていた。
釣りへ出る日だけ、機嫌がよく見えた。
私が休みを取った日の朝、夫の手提げ袋から菓子の箱が見えた。
四角い、白い箱だった。
私の好きな焼き菓子を売る店の物だ。勤め帰りの夫に買ってきてと頼んだら、遠回りになると断られたことがあった。
何で持っているの、と訊きかけた。
夫は袋を畳んで口を隠し、釣り道具と一緒に玄関へ置いた。
ほかに女の人がいるのだと思った。
その方が、色々なことに説明がついた。
釣れない釣りへ行くことも、夜に携帯を裏返すことも、話しかけると肩を小さく動かすことも。
私は勤め先へ行く支度をし、いつもと同じ時刻に家を出た。夫には休みだと知らせていなかった。
近くの喫茶店で待ち、夫から出かけるという連絡が来てから、家の方へ戻った。
夫は川の下流へ向かって歩いていた。
釣り竿を一本持っていたが、服は休日と同じだった。
夫が橋を渡ったので、私は手前で曲がり、対岸の遊歩道へ下りた。
川は浅かった。曲がって流れる所に木が茂り、その向こうに小さな水門があった。夫は水門の手前で道を外れ、岸へ下りた。
釣り人が何人か集まっていた。
私は木の陰に立った。
夫は仲間と挨拶し、置いてあった籠を持ち上げた。水辺に仕掛けておいたものなのか、底から水が滴っていた。
男の一人が、また入ってる、と言った。
夫は籠を覗き、顔をしかめた。
「これ、俺がやるの」
「今日はそっちだろ」
笑い声がした。
夫は籠を持ち、ほかの人から離れた。
草の途切れた所で、籠を傾けた。
細長い物が落ちた。蛇だった。
小さかった。夫は落ちていた枝を拾い、蛇が草へ入ろうとするたびに、進む先を叩いた。
追い払っているのだと思った。
しかし、夫は蛇が川へ戻ろうとしても、同じように叩いた。
やがて動かなくなったものを、枝の先で岸の下へ押し落とした。
私はしゃがんだ。
蛇の血は見えなかった。どれくらい強く叩いていたのかも、向こう岸からでは分からない。
それでも、夫があんなふうに腕を使うところを初めて見た気がした。
家で小さな虫が出た時には、いつも私を呼ぶ人だった。
私は夫が怖がるのを、少し面白がっていた。
夫は籠を元の場所へ戻し、手提げ袋を持って岸を上がった。
木の向こうで見えなくなったので、私は少し先の橋へ走った。渡り切ってから、草の中へ下りる道を探した。
夫のいた方へ戻る途中で、菓子の箱が見えた。
平たい石の上に置かれていた。
蓋は外されていた。個々の包みまで、夫が開けたらしかった。
夫は石の前へ膝をついた。
そこで、私の名前が聞こえたのだった。
ほかの女に渡す菓子ではなかった。
私に買ってきてくれたものでもなかった。
夫は手を合わせたまま、ゆっくり頭を下げた。何か長く喋っていたが、川の音と重なり、言葉は拾えなかった。
最後に私の名前だけ、またはっきりと聞こえた。
私の携帯が震えた。
夫からだった。
私は驚いて、画面を押した。夫も立ち上がり、携帯を耳へ当てていた。
「今、喋れる?」
声が二つ聞こえた。
耳元の夫の声と、目の前の草の向こうから来る声だった。
私は口元を手で覆い、少しなら、と声を落として答えた。
夫は今日も泊まりなのかと訊いた。
母の家へ行くことが、月に何度かあった。母は一人暮らしで、通院の日は私が迎えに行っていた。予定が変わったことを言ったつもりだったが、夫は覚えていなかったらしい。
「今日は帰るよ」
私は言った。
夫は少し黙った。
それから、何時、と訊いた。
「いつもくらい。何かあるの」
夫は、ないよ、と答えた。
「何にもないけど。今晩も帰るんだね」
私はそう言ったと返した。自分の声がきつくなるのが分かった。
夫は、分かった、と電話を切った。
携帯をしまわず、石の方を見た。
手提げ袋を開け、菓子の箱へもう一つ、小さな包みを置いた。
人が来たので、私は道へ戻った。
犬を連れた女の人だった。長い紐を引き、犬が草へ入らないようにしていた。
私が夫のいる方を見ていたせいか、女の人も足を止めた。
「ああ、また置いてある」
小さく言った。
私は、いつもあるんですか、と訊いた。
女の人は頷いた。
犬が食べてしまうので、置かないでほしいと頼んだことがあるという。
男の人は奥さんのためだと言い、怒り出した。
好きだった物なのに、そんなふうに言うことはないだろう。そう言われて、それ以上は言えなかったのだと。
「でも、あれだけ頻繁だとねえ」
私は、そうですね、と答えた。
自分がその奥さんだとは言わなかった。
夫はまだ石の前にいた。
私は女の人と一緒に橋まで歩き、そのまま駅の方へ向かった。
途中、耳のそばで虫が鳴った。
払っても、離れなかった。髪を耳へかけ、手を振った。羽音は一度止み、またすぐに鳴り始めた。
携帯を出すと、夫からの着信が残っていた。
さっきの会話は二分にも満たなかった。
駅の化粧室で、耳を見た。
髪に何かついているのかと思ったが、鏡ではよく見えなかった。指で耳の後ろを触っても、何も取れない。
細い音だけが、ずっと鳴っていた。
時々、音の間に息を吸う間があった。
私は蛇口の水を出した。水音に紛れると、少し楽になった。
帰宅するつもりはなかった。
駅前の店から母に電話し、今夜はそちらへ行くと伝えた。仕事が休みだったことは、母にも言っていなかった。
何かあったの、と訊かれて、夫が怖い、と答えた。
言葉にしてしまうと涙が出た。
母は理由を急かさず、とにかくおいでと言った。
家へ荷物を取りに戻る勇気はなかった。
着替えくらい、向こうで借りればいい。明日の仕事に必要な物も、今はどうでもよかった。
電車を待っている間に、羽音が変わった。
短く切れた後、同じ高さで二つ続いた。
聞き取ろうとすると、私の名前になった。
夫の声ではなかった。
小さな、喉を使っていないような声だった。
私は振り向いた。ベンチには女の子が一人座り、携帯を見ていた。私を呼んだ様子はなかった。
その声が、また名前を言った。
最後だけ、はっきりしない。
紙を舐めて剥がすような、湿った音が続いた。
夫から連絡が来た。
今夜は母のところへ行く、と短く返した。
すぐに電話がかかってきた。
私は出なかった。着信を切ると、次は文字が届いた。
帰るって言ったじゃないか。
それだけだった。
私は画面を閉じた。
次の電車が母の家の方へ行く。それを何度も確かめているうちに、到着を知らせる放送が流れた。
扉が開いても、足がすぐには動かなかった。
耳のそばで、誰かが笑った。
顔の横へ冷たいものが触れた。
私は手で払った。その瞬間、指に薄い膜のようなものが引っかかった。爪の先へ、白いものが少しついた。
菓子を包む紙だった。
あの店の、薄い半透明の紙だった。
そう見えたが、確かめる前に、指から落ちた。
私は電車へ乗った。
空いていたが、座らずに扉のそばへ立った。母へ、あとどのくらいで着くか連絡しようとした。
携帯の画面に、夫からまた言葉が届いた。
いま、どこにいる。
私は答えなかった。
耳の中で、包みを開ける音がした。
細かな紙を、左右へ引き剥がす音だった。
それから、夫が石の前で言ったのと同じ調子で、私の名前が呼ばれた。
窓には、携帯を持つ私が映っていた。
耳を隠していた髪が、内側から少しずつ持ち上がっていた。


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