喫煙所のガラスに、赤いものがついていた。
唇の跡だと思った。
誰があんなところへ口をつけるのか。そう思いながら、私は火を消そうと煙草を下げた。
跡は少しずつ丸くなった。真ん中の色が薄くなり、向こうの駐車場が透けて見えた。
ガラスから離れ、一つの泡になって浮いた。
九月の平日で、日が暮れたばかりだった。
仕事先から車で戻る途中、私は高速道路の休憩施設へ寄った。眠いわけではなかったが、腰が痛くなり、少し歩きたかった。
同じ道を何度も走っていた。食堂の営業時間も、駐車場のどちら側が空くかも、だいたい分かっていた。
ところが、いつも屋根の下に置かれていた灰皿がなくなっていた。
代わりに、小さなガラス張りの喫煙所ができていた。
駐車場の端に、四角い箱を置いたような建物だった。中がよく見えた。銀色の灰皿が二つと、腰を預けるためらしい細い台があった。
誰もいなかった。
私は扉を引き、一人で中へ入った。
その日、上司に煙草をやめろと言われたばかりだった。
私の体を気遣ったわけではない。たまたま休憩中の電話へ出なかったら、また吸いに行っていたのかと腹を立てられたのだ。
一服くらい好きな時間にさせてくれ。誰に言うでもなく思いながら、携帯の画面を下にして台へ置いた。
換気の音がしていた。少し埃っぽい匂いがあった。
ガラスの赤い跡に気づいたのは、煙草が半分になったころだった。
初めの泡は、小指の爪くらいだった。
外側から離れたように見えた。
風がないのに横へ流れ、駐車場へ出た。その後ろへ、もう一つ、小さな泡が続いた。
私は台から腰を離した。
口の跡だと思ったものは、まだガラスにあった。いや、ガラスの向こう側に、誰かが顔を寄せているのだと思った。
横へ動くと、赤いところも横へ動いた。
顔は見えなかった。
外灯に照らされた白い地面と、線を引かれた駐車枠だけがある。
私は台に置いた携帯をつかみ、扉へ手をかけた。
少し固かった。もう一度引くと開いたので、そのまま外へ出た。後ろで扉が閉まり、換気の音が聞こえなくなった。
ガラスを外から見た。
何もついていなかった。
端から端まで歩き、地面も見た。赤い泡はどこかへ流れたのか、見つからなかった。
私は自分の煙草を見た。火を消したつもりで、まだ指に挟んでいた。
先は灰になっていた。
灰皿へ戻すのは嫌で、携帯灰皿へ押し込んだ。
車へ戻りかけた時、若い男とすれ違った。
作業服の袖を捲り、耳に携帯を当てていた。駐車していたワゴン車から来た人だった。
男は、これから帰るよ、と電話へ言いながら喫煙所に入った。
私は立ち止まった。
ガラス越しに姿が見えたので、声をかけようか迷った。
男は台へ携帯を置き、煙草をくわえた。
何を言えばいいのか分からなかった。
赤い泡が出たと教えても、酔っているのかと思われるだけだろう。
男は普通に火をつけた。
扉も、普通に閉まった。
私は車に乗り、駐車場を出た。
本線へ戻ると、交通量は少なかった。
前に大型の車が一台あり、しばらく同じ間隔で走った。
道は長く続いていた。灯りの列が、フロントガラスの上を一定の速さで滑っていく。
走っているのはこちらなのに、景色だけを送られているような感じがした。
窓を少し下げると、風の音が大きくなった。
助手席側の窓に、赤い丸が映った。
後ろの車の灯りだと思い、ミラーを見た。
車は遠かった。
赤い丸だけが、私の車のすぐ横にいた。
昼間に見たら、ただのシャボン玉だと思っただろう。表面に細かな色が流れ、中を通してガードレールまで見えた。
窓の外を、こちらと同じ速さで飛んでいた。
私は窓を閉めた。
丸は少し後ろへ下がった。
ミラーの中で、もう一つの丸と重なった。二つとも割れず、大きさを変えながらついてきた。
どこから来たのか、考えなくても分かった。
私は前を見て、ハンドルを握り直した。
追い越していく車があった。
赤い泡はその風に巻かれるように一度散り、また集まった。数が増えていた。
大きいものは拳ほどあった。後ろの灯りを受けると、その内側に暗い線が見えた。
私は目を逸らした。
次の休憩施設まで、十数キロあった。
泡は先回りしてきた。
フロントガラスの右端へ、一つが貼りついた。弾けると思ったが、平たくなるだけだった。
私はワイパーを動かした。
赤いものが横へ伸びた。
筋になった赤の中に、一瞬、歯のような白いものが並んだ。
ワイパーが戻ると、白いものは消え、細い汚れだけが残った。
私の携帯が鳴った。
上司だった。
出ることも、切ることもできなかった。呼出音が止むまで、前だけを見ていた。
泡の一つが運転席の窓へ寄った。
呼出音が止んでも、短い電子音がそこから聞こえていた。
窓を上げ切ったままなのに、男の声が、もしもし、と繰り返していた。
私は、そこをもう見なかった。
車の速さを少し落とし、左側を走った。
路肩へ止めれば、泡の方も止まるのだろうか。確かめたくはなかった。
休憩施設の分岐が見えた時には、肩が痛くなっていた。
車を入れ、食堂の正面に近い所へ止めた。
扉を開ける前に、窓の外を見回した。
泡はなかった。
前のガラスに、赤い筋だけが残っていた。私はエンジンを切らず、しばらく座っていた。
食堂から人が出てきた。子供を連れた夫婦だった。
その人たちがそばを通る時、エンジンを止め、ようやく車から下りた。
同じ喫煙所があった。
駐車場の端ではなかった。食堂へ向かう通路の途中に建っていた。
ガラス張りで、銀色の灰皿が二つ。細い台も同じだった。
新しく揃えたものなのかもしれない。
私は入口の正面を避け、離れて通ろうとした。
中から、ガラスを叩く音がした。
若い男がいた。
袖を捲った作業服で、片手に携帯を持っていた。さっき入れ替わりに入った男だった。
あのワゴン車に追い越された記憶はなかった。
男は私へ気づき、何か言った。
音は聞こえなかったが、扉を指したので、開かないのだと分かった。
私は取っ手を引いた。
扉は少し動き、止まった。
男も内側から押した。反対向きかと思い、今度はこちらから押してみたが、やはり開かなかった。
店の人を呼んできます。
そう言うと、男は激しく首を振った。
携帯の画面をこちらへ向けた。
通話中の画面だった。
誰かを呼んでいるのだろうと思ったが、男は画面の上を指で何度も叩いた。
時刻ではなく、話している時間の数字を指していた。
数字は少しずつ増えていた。
男は口を大きく動かした。
「まだ」
そう言ったように見えた。
最初の休憩施設で、男は、これから帰るよと電話へ言っていた。
その電話を、まだ切っていないのだろうか。
私は男の肩越しに駐車場を見た。
ガラスの向こうには、食堂の明かりが見えるはずだった。
そこには、白いワゴン車が止まっていた。
男の指先が赤くなった。
ガラスを叩くたび、丸い跡がついた。
跡が膨らみ、泡になった。
男は携帯を耳へ戻した。私には何も聞こえなかったが、電話の相手へ何度も頭を下げていた。
泡がガラスからこちら側へ離れた。
男は急に頭を上げた。唇をきつく結んだまま、首を横へ振った。
私は取っ手から手を離した。
扉が、ほんの少し内側へ動いた。
その隙間から、換気の音が聞こえた。
埃っぽい匂いがした。中へ一歩入れば、扉が何に引っかかっているのか確かめられる。
そう考えた自分が怖かった。
私は後ずさりし、そのまま食堂へ走った。
店の人を呼んで戻ると、喫煙所には誰もいなかった。
男のことを話し、扉を確かめてもらった。店の人は簡単に開けて、中も見せた。
ガラスのどこにも、赤いものは残っていなかった。
私はワゴン車を捜したが、見つからなかった。
自分の車は、止めた場所にあった。
その日はそれ以上運転せず、迎えを頼んだ。
理由を説明するのに時間がかかった。上司は最初、車をぶつけたのかと何度も訊いた。
そうではないと言うと、今度は体の具合を心配した。
私は食堂の入口に立ったまま、携帯を耳に当てていた。
ガラス張りの喫煙所が、そこから見えた。
電話を切ろうとした時、受話器の向こうで、誰かが短く息を吹いた。
上司の声が遠くなった。
「もしもし」
私が言うと、さっきの男が、まだ、と答えた。
食堂のガラスに、電話をしている私が映っていた。
その口の前へ、赤い丸が一つ、ゆっくり膨らんでいた。


コメント