砂で作った顔に歯を入れていたので、声を掛けた。
子供の遊びではなかった。顔は大人の頭ほどの大きさがあり、耳の穴まで丁寧に作られていた。唇の間に、白い歯が一本ずつ並んでいた。本物の歯だった。私は仕事で見慣れていた。歯科医院へ入れる義歯を作って、二十年になる。遠目には貝殻かと思ったが、近づくと根の形が分かった。砂に刺さっているのは歯根の側ではなく、噛む面だった。根が口の外へ向いていた。
「反対ですよ」
言ってから、余計なことだと思った。砂の横にいた男は、私を見上げた。黒く焼けた細い身体で、半袖のシャツの胸に煙草の箱を入れていた。年は七十くらい。顔には泥のようなものが付いていた。
「どっちが外か、分かるんですか」
男は聞いた。
私は返事に困った。
休暇で来た海だった。妻とは別行動で、私は夕方まで釣りをしていた。何も釣れず、岩場の近くで珍しい模様の蝶を見つけ、釣り道具を持ったまま追いかけた。蝶は波打ち際を飛んだ。浜の裏にこんな入り江があるとは知らなかった。気づいた時には、宿の看板も、防波堤も見えなくなっていた。
男は私の竿を指した。
「魚は、こっちには来ないよ」
「戻る道、分かりますか」
「もう少し上。水の際を歩くと遠くなる」
私は礼を言った。立ち去ればよかった。だが砂の顔の前歯が、気になった。二本が大きく開き、その間に砂の塊が詰まっていた。砂で作ったものなのに、そこだけ痛そうに見えた。
「これ、誰の歯ですか」
男は小さな缶を開けた。歯がぎっしり入っていた。形も色も違った。詰め物のあるもの、細い金属の線が付いたもの、根が割れたもの。歯科の作業場の回収容器に似ていたが、あんなふうに裸で一緒にはしない。
「落ちてるんだよ」
「浜に?」
男は頷いた。
私は砂の顔を見た。口が、少し閉じていた。さっきまで見えていた根の一本が、上唇の砂に埋まっていた。風で崩れたのだと思おうとした。だが風は海から吹いていて、砂の動く向きと逆だった。男が、顔の頬を指で押した。口が開いた。
「痛むか」
誰に聞いたのか分からなかった。
砂の喉の奥で、小さく音がした。男は眉を寄せた。
「それじゃ、駄目だな」
私は立っているのが辛くなった。釣り道具を拾い、道を教えてくれてありがとうございます、と言った。男は返事をせず、砂の顔を撫でていた。私は山側へ歩いた。
すぐに細い道が見つかった。草を抜けると、宿の駐車場へ出た。ほんの数分だった。妻は玄関で待っていた。
「顔、どうしたの」
私の頬に、砂が付いていた。手で払うと、右の奥歯が痛んだ。今まで痛んだことのない歯だった。
その夜は、温かい汁も飲めなかった。妻が鎮痛薬を買ってこようかと言ったが、翌朝帰る予定だったので、帰ってから歯科へ行けばいいと答えた。
夜中、口の中に砂が溜まった。唾を吐くと、洗面器の底が茶色くなった。何度濯いでも、歯と歯の間から細かな粒が出た。鏡で口を見た。右の奥歯が、逆さに生えていた。白い山のある噛む面が歯茎へ沈み、二本の根が舌のほうへ突き出していた。
私は指を入れた。指先が根に触れた瞬間、入り江で砂の顔を触っていた男の指を思い出した。あの指が、私の口の中へ入ってきている感じがした。声が出た。妻が起きてきた。私は口を見せた。妻は顔色を変え、宿の人を呼びに行った。
宿の主人は、私の口を見なかった。昼間、どこへ行ったかだけ聞いた。砂の顔の話をすると、目を閉じた。
「あの人に、教えましたか」
「何を」
「歯のことを」
私は頷いた。主人は、少し待ってください、と言って外へ出た。妻は救急相談の電話を掛けていた。私は椅子に座り、口にタオルを当てた。噛むと痛いのに、口を開けていると砂が零れた。
主人が戻るまで、三十分ほど掛かった。あの男を連れていた。
男は玄関でサンダルを脱ぎ、私の前へ来た。砂浜で見た時よりずっと小さく見えた。
「間違えたね」
男は私ではなく、自分に言ったようだった。妻が怒った。何をしたんですか、と詰め寄った。男は頭を下げた。
「話が通じると思ったんだよ。歯を見て、すぐに分かったから」
主人が妻を宥めた。
私は男を見ていた。胸のポケットの煙草の箱が動いていた。中で、何かが箱の角を押していた。男はそれを指で叩き、今じゃない、と小声で言った。
「口を開けて」
私は首を振った。男は座った。
「じゃあ、ここで待つ」
その言い方は脅しではなかった。私の歯を無理に触るつもりはなさそうだった。
妻が電話を終え、車の鍵を持ってきた。私は立ち上がった。足元へ、歯が落ちた。白い歯だった。私の口から落ちたのではなかった。ズボンの裾から出た。床に当たると、細い脚を六本出して走った。男が素早く手を伏せた。掌の下で、かちかちと音がした。
妻が悲鳴を上げた。私は椅子へ戻った。男は掌の下のものへ、じっと耳を傾けていた。
「こっちで噛んだのか」
しばらくして、そう言った。
「そりゃ、痛いだろう」
私の右頬が、内側から膨らんだ。何かが歯茎の中を歩いていた。一本ずつ、歯の根元を確かめるように。私は両手で頬を押さえた。
男が掌を上げた。床にいたのは、白い、小さな甲虫だった。翅はなく、背中が人の臼歯の形をしていた。男はそれを缶へ入れた。
私は口を開けた。男は覗き込んだが、手を入れなかった。
「ここに作ったんだね」
誰に聞いているのか、もう分かった。男は主人に、水と皿を持ってこさせた。水を含み、右側を下にして吐いてほしいと言った。私は従った。水に混じって、砂の小さな顔が出た。
親指の先ほどだった。私に似ていた。根を外へ向けた歯が、口の周りを囲んでいた。皿に載った顔は、目を開けた。私の右目の奥が痛んだ。男は、薄い布を皿に被せた。痛みが少し引いた。
「口が違ったんだな」
男は煙草の箱を開けた。中から、黒い虫が顔を出した。
身体は長く、細い脚が何十本もあった。頭だけは人の乳歯の形をしていた。男の指へ乗ると、口のあるはずの場所を開き、小さな歯を見せた。私は椅子の背へ身体を押しつけた。男は布の下へ虫を入れた。何かを噛み砕く音がした。私の歯が一本ずつ軋んだ。妻が手を握った。私はその手を潰しそうになり、慌てて力を抜いた。
男は目を閉じていた。顔の肌が、少しずつ剝がれた。泥だと思っていたものが、頬から落ちた。下は白かった。骨ではなかった。固い砂だった。主人は、黙って雑巾を持ってきた。男の顎の下へ差し出した。男はそれに手を添え、口から砂を吐いた。
皿の下の音が止まった。私の口には、普通の歯が戻っていた。舌で触ると、いつもの奥歯の丸みがあった。右目も痛まなかった。男は布を取り、虫を箱へ戻した。皿には、歯が一本残っていた。根が三本あり、噛む面に、小さな目が二つ付いていた。
男はそれを缶へ入れた。妻が、持っていかないで、と言った。男は手を止めた。私の身体から出たものを、知らない人へ渡してはいけない。そう思ったのだろう。私も同じ気持ちだった。だが男は、困った顔をした。
「あんたたちが持つと、また覚える」
何を覚えるのかは聞かなかった。
私は妻の手を握り、持っていってください、と言った。男は立ち上がった。頬の半分が、白い砂のままだった。宿の主人が帽子を渡すと、それを深く被った。玄関の明かりの下で、男の耳が崩れた。男は手で押さえ、もう一度形を整えた。
妻が、男の肩に載った砂を払おうとして手を止めた。男はそれを見て、取ってくれ、と言った。妻は私のタオルを半分に畳み、肩に残った白い砂を受けた。顔を支えているものを、自分の手で崩してしまいそうだったのだろう。いつもよりゆっくり、袖のほうへ払っていた。
「これ、戻さなくていいんですか」
男は帽子の縁を押さえた。
「乾くと落ちる。濡らせば、また付く」
妻は宿の主人を見た。主人は桶に水を入れた。男はそこへ両手を浸し、頬へ当てた。指の間から黒い水が流れたが、手を離すと、元の皺の深い顔があった。
その仕草が、朝に顔を洗う父に似ていた。私は、痛くないんですか、と聞いた。男は困ったように笑った。
「痛いところを、あんまり増やさないようにはしてる」
その時だけ、虫へ話す時とは違う声を聞いた気がした。私は礼を言った。男は振り向かなかった。
「歯を見ても、口を決めないほうがいいよ」
帰り際に、それだけ言った。
翌朝、妻と予定通り帰った。帰宅してから、かかりつけの歯科で診てもらった。右の奥歯に異常はなかった。口の中の傷もなかった。私は砂浜のことを説明しなかった。説明できる証拠がなかったからではない。模型を前に、これはこういう口だ、と決める自分の仕事を、その日だけはしたくなかった。
数日休み、作業場へ戻った。注文の模型が机に積まれていた。どれも、そこに来たことのない人の口だった。私は一つずつ手に取り、噛み合わせを確かめた。今まで通りの作業を、今までよりゆっくり進めた。昼休み、同僚が私の弁当を見て、もう歯は治ったの、と聞いた。
私は頷いた。米粒を噛んだ時、右の奥で、小さく、かち、と音がした。
痛みはなかった。
私は箸を置き、しばらく口を動かさなかった。何かが、私が噛み終わるのを待っている。その気配だけが、はっきりと残っていた。


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