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冷蔵庫の客間

その客には、冷たい麦茶を出してはいけなかった。

佐和がそれを知った時には、もうコップが空になっていた。氷は残っていた。溶けるどころか、底に張り付き、ガラスの内側を白く曇らせていた。客は佐和の向かいで、両手を膝に載せていた。
「急に来て、すみません」
夫と同じ年頃の男だった。髪に少し白いものが混じり、くたびれた茶色の鞄を足元に置いていた。玄関では、夫の昔の同僚だと言った。

夫が帰るまで一時間ほどだった。佐和は居間へ通した。それまで、その男の名を夫から聞いたことはなかった。それでも断らなかったのは、男から懐かしい匂いがしたためだった。甘く煮た豆の匂い。佐和の母が正月に作った白花豆と同じだった。夫と結婚してからは一度も作っていない。時間が掛かるし、夫は豆の甘い煮物が嫌いだった。

「いい匂いですね。何か、お持ちになりました?」
男は鞄を見た。
「今日は、何も」
気まずそうに笑ったので、佐和はそれ以上聞かなかった。

居間の室温が下がり始めたのは、男が麦茶を飲んだ後だった。冷房は点けていなかった。九月の終わりで、窓を少し開ければ十分涼しかった。佐和は足首の冷えを感じ、膝掛けを取った。男のコップに、霜が付いていた。佐和は台所へ運んだ。

蛇口の水を掛けると、コップから薄い湯気が上がった。触れた指が痛くなり、思わず流しへ落とした。割れはしなかった。硬い音を立てて転がった。

背後で、冷蔵庫の扉が開いた。佐和は振り返った。扉は閉まっていた。だが、白い冷蔵庫の表面に、居間が映っていた。金属の薄い反射ではなかった。部屋をそのまま覗くように、男も卓も、窓際の鉢もはっきり見えた。男の向かいに、佐和が座っていた。

向こうの佐和は膝掛けを使っていなかった。半袖のまま、男に何かを話していた。楽しそうだった。佐和は居間を見た。男は一人で座っていた。口だけが動いていた。
「誰と話しているんですか」
男は台所へ顔を向けた。
「奥さんと」
佐和は、私はここです、と言おうとした。

その時、冷蔵庫の中の佐和も、こちらを見た。不機嫌な顔だった。二人の会話を邪魔された時の、自分がよくする顔だった。佐和は冷蔵庫の扉を開けた。牛乳、卵、作り置きの煮物。いつも通りの棚があった。奥の冷却口の辺りに、白い霜が付いていた。

扉を閉めると、居間が戻った。向こうの佐和は、卓に皿を並べていた。白花豆だった。男はそれを食べていた。佐和の指先に、豆を煮る時の熱が触れた。鍋の蓋を持ち上げ、湯気を掌に受けた時の、あの熱さだった。台所には何も火に掛けていない。

佐和は指を振った。冷たかった。見えるものと、感じるものの温度が合わなくなっていた。

玄関の鍵が回った。夫が帰ってきた。靴を脱ぐ前に男の鞄を見て、立ち止まった。
「誰が来てる」
佐和が名前を告げると、夫は上着も脱がずに居間へ行った。男は立ち上がった。夫は、その顔を見るなり、帰れ、と言った。佐和は驚いた。夫は人前で声を荒げる人ではなかった。家の中でも大きな声を出さない。その代わり、気に入らないことがあると二日でも三日でも口を利かなくなる。

「お客さんに、そんな」
佐和が言うと、夫は振り向いた。
「家に上げたのか」
「上げたから、ここにいるんでしょう」
口答えした自分にも驚いた。夫は男へ近づいた。男は動かなかった。夫の手が男の肩を押した。押された上着は揺れたが、肩の位置が変わらなかった。夫の掌が上着の中へ少し入った。

夫は手を引いた。指先が白くなっていた。
「麦茶、出したのか」
佐和は頷いた。
「何で」
「暑そうだったから」
夫は頭を抱えた。男は二人を見ていた。その表情に悪意はなかった。それが佐和には、かえって腹立たしかった。自分の家で起きていることを、夫もこの男も知っていて、自分だけが知らなかった。

「説明して」
夫は答えなかった。佐和は、もう一度言った。夫はようやく口を開いた。男は、昔の同僚ではなかった。二十年以上前、夫が独身で暮らしていたアパートへ、一度来た人だった。道を聞き、水を一杯飲ませてほしいと言った。夫は断った。

男は、ではまた、と言って帰った。
「それだけ?」
「その後、隣の部屋へ行った」
夫は流しのコップを見た。隣には若い夫婦が住んでいた。数日後、男のほうが会社を休み、部屋から出てこなくなった。女も、買い物へ行く姿を見なくなった。

大家が鍵を開けた時、二人は卓に向かい合って座っていた。部屋は暖房を入れたように暑かった。二人は凍っていた。
「死んだの?」
佐和が聞くと、夫は首を横に振った。
「生きてた。運ばれた。そこまでは知ってる」
「この人がやったって、どうして分かるの」
夫は、分からない、と言った。

それから、小さな声で続けた。
「二人とも、楽しかったって言ってた」
男は、静かに頷いた。
「お邪魔をしただけです」
佐和は冷蔵庫を見た。向こうの自分は、泣きながら笑っていた。夫のいない卓で、男に喋り続けていた。口の形で、母、と言ったのが分かった。

佐和の母は、去年亡くなった。その時、夫は葬儀の手配を全部やってくれた。金のことも、親戚への連絡も、不満なく引き受けた。だが佐和が母の話をすると、同じことを何度も言うな、と言った。前に聞いた、そう返されるたびに、佐和は話すのをやめた。

向こうの男は、初めて聞くように頷いていた。居間の男も、同じ速さで首を動かした。

佐和はコップを持ち上げた。縁に唇を付けようとした。夫がその手を掴んだ。
「やめろ」
コップが二人の間で揺れた。佐和の手は、夫より冷たかった。夫はその温度に気づいたのか、掴んだ手を一度緩めた。
「佐和」
名前を呼ばれ、佐和は夫を見た。

夫の口元に、白い息が出ていた。冷蔵庫の中の佐和は、夫のほうを見なかった。彼女は男の手を取っていた。その手が、肘まで透明になっていた。指の骨のようなものが、薄い氷の中に浮いていた。それでも笑っていた。

佐和はコップを流しへ置いた。
「帰ってください」
男は立った。今度は素直だった。鞄を持ち、玄関へ向かった。夫が先に出て、ドアを開けた。男は敷居を越える前に、佐和を振り返った。
「まだ、話の途中でした」
「そうですね」
佐和は答えた。

「でも、今日は帰ってください」
男は少し寂しそうにした。その顔を見て、佐和は呼び止めそうになった。夫が佐和の手を握った。強くではなかった。ただ、温かい手だった。男は外へ出た。

ドアが閉まった後も、冷蔵庫の中には男がいた。向こうの佐和は、いつまでも喋っていた。白花豆の皿は空になり、男が新しい皿を出していた。夫は冷蔵庫の電源を抜いた。明かりが消えたのは、中の棚だけだった。扉の表面の居間は、明るいままだった。

佐和は椅子を引き、そこへ座った。夫も隣へ座った。二人で、向こうの二人を見た。夜中の二時を過ぎても変わらなかった。冷蔵庫の表面を布で覆うと、佐和の手足が急に冷たくなった。布を取ると少し戻った。夫は、壊そうか、と言った。

佐和は首を振った。
「私、あっちにいる」
言葉にすると、そのことがいっそうはっきりした。どちらかが偽物なのだとは思えなかった。あそこで楽しそうに喋る自分にも、今ここで震えている自分にも、同じように覚えがあった。夫は膝へ手を置いた。

「お母さんの話、してくれ」
佐和は笑ってしまった。こんな時に、都合がいい。そう思いながら、白花豆の煮方を話した。前の晩から豆を水へ浸ける。母は煮崩れた豆を自分の小鉢へ寄せ、綺麗なものを来客に出した。佐和は崩れたほうが好きだった。

夫は黙って聞いた。向こうの佐和が、話すのをやめた。男が何かを尋ねた。佐和は答えなかった。こちらの佐和は、母が料理を失敗した日の話を続けた。夫の知らない話だった。葬儀の席で言えなかった、どうでもいい、小さな失敗だった。

冷蔵庫の表面が、少しずつ白くなった。向こうの居間が遠ざかるのではなかった。こちらの佐和の顔が、ぼんやり映り始めた。夜明け頃、男は向こうの卓から立ち上がった。皿を一枚ずつ重ね、鞄へ入れた。向こうの佐和も立った。男が扉のない場所へ手を伸ばした。

佐和は夫の手を握った。冷蔵庫が、大きく鳴った。白い扉には、もう何も映っていなかった。二人はしばらく動けなかった。夫が電源を戻すと、機械は普通に動いた。中の食べ物は全て捨てた。麦茶のコップも処分した。

冷蔵庫は、今も使っている。買い替えようとすると、佐和の指先が冷たくなる。手放す先に誰が住んでいるか分からない。そのことを考えると、業者へ連絡できなくなった。夫は以前より話を聞くようになった。何もかも上手くいくわけではない。同じことで喧嘩をするし、夫が疲れて返事をしない夜もある。

そんな夜、佐和は台所へ行く。

白い扉に掌を当てると、向こうから、誰かが同じ高さへ手を当てる。

佐和はそれを、夫にはまだ話していない。

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