高井さんが消しゴムをかけると、椅子の後ろで靴が擦れた。
モデルの志津さんは、座ったままだった。茶色い短靴を床へつけ、膝の上に両手を重ねている。私は自分の絵から顔を上げたが、何も言わなかった。
「もう少し、壁から離れてもらえますか」
高井さんが頼んだ。
志津さんは腰を浮かせ、椅子を前へ引いた。私のいる場所からは、椅子と壁のあいだに、雑巾なら通せるくらいの隙間が見えた。休憩が始まる前には、人が一人、後ろを歩けていた。
画材店の二階で、月に二度、人物を描く会があった。先生はいなかった。集まった人がモデル代を出し合い、店に場所を借りていた。私は事務の仕事をしながら通っていた。絵は好きだったが、人に見せられるものが描けたことは、ほとんどなかった。
その日は欠席が多く、描くのは私と高井さんだけだった。普段は六人で割る謝礼を、二人で負担することになる。中止にしてはどうかと連絡したのだが、高井さんが差額を出してくれた。
「せっかく来てもらうんだから」
そんなふうに言われると、私も休めなくなった。
志津さんは、毎回来てくれる人ではなかった。店に飾ってあった人物画を見て、描かれる仕事もするのだと知った。四十歳くらいで、会場に入ると自分で椅子を選び、窓からの光を確かめた。高井さんの細かい注文にも、できることと難しいことを、その都度はっきり答えた。
始める前、高井さんが次の日曜の話をした。自分の家でも描かせてほしい、と頼んでいるらしかった。
「ほかの予定が入ってますので」
志津さんは言った。高井さんは、翌週なら、と手帳を出した。私は画板へ紙を留めながら、聞こえないふりをした。
部屋は細長く、入口が短い辺の片隅にあった。志津さんは反対の端で、白い壁を背に座った。窓は彼女の右側。私と高井さんは、入口に近い側から斜めに描いていた。中央には何も置いていない。椅子を引けば、どの方向へも立てるはずだった。
二度目の休憩の終わりに、高井さんの絵を見せてもらった。
私よりずっと細かく描いていた。髪の一本や、靴の紐の結び目まであった。それなのに、どこか窮屈だった。椅子の背と壁の境が同じ線で、志津さんの肩が壁へ埋まっているように見えた。
「ここの奥、もう少し空いてますよね」
私が言うと、高井さんは紙から目を離さず、そうなんです、と頷いた。
「さっきまではね」
消しゴムを握り直した。白くしたところへ鉛筆で線を引き、また消した。紙の表面が毛羽立っていた。直しているのか、同じところを確かめているのか、見ていても分からなかった。
志津さんが椅子を引いたのは、その直後だった。
三度目を始めてからも、私は彼女の背中ばかり見た。カーディガンの肩が白い壁へ触れていた。椅子はさっき前へ出した。私は右の窓を見た。窓の下にあるコンセントは動いていなかった。壁が来たのか、椅子が戻ったのか、どちらにも見えなかった。
「暑くないですか」
高井さんが聞いた。
志津さんは、平気です、と答えた。それから少し肩をすぼめた。壁から離そうとしたのだと思う。けれど背中の布は、立ち上がった襟まで平らに押されていた。
私は鉛筆を置いた。
「そこ、狭くなってません?」
志津さんの目が私へ向いた。初めて、彼女も同じことを感じているのだと思った。
「さっきから、椅子が引けなくて」
両手を膝から下ろし、座面をつかんだ。足で床を押すと、椅子は少し鳴った。彼女の膝は、私たちのほうへ来なかった。
高井さんが立って、横から椅子を見た。
「後ろの脚が、引っかかってるのかな」
私も近づいた。壁際の床は掃除してあり、段差はなかった。椅子の脚は四本とも見えていた。後ろの二本の向こうに、床がない。壁と床の境目が、椅子の脚の内側へ入っていた。
志津さんは前へ身を倒し、膝に手をついた。立とうとしたのだろう。私が腕を貸すと、彼女は首を振った。
「触らないで。ちょっと待って」
痛めたのかと思って手を引いた。彼女は足の裏を浮かせ、床へ置き直した。靴底はすぐついたのに、かかとのほうだけが沈むように低くなった。靴も床も、形は変わらなかった。
高井さんが椅子の背を引こうとした。
志津さんは、やめて、と今度は強く言った。背と壁との間へ入れた彼の指が、胸の前から見えた。
服を突き抜けたのではない。横から伸ばした彼の手の甲が、志津さんのカーディガンの手前にあった。肘は椅子の横にある。手首の途中を目で追うと、どちらが前か分からなくなった。
高井さんも自分の手を見た。すぐ抜いた。
志津さんは胸元を押さえず、私を見ていた。立たせようとして肩へ触っていたらどうなったのか、考えたくなかった。
「ちょっと、どいてください」
私は高井さんへ言い、志津さんの右側へ回った。
窓の下には、まだ床があった。四角い板目の節を見つけ、私はそこへ片足を置いた。志津さんにも同じところを示した。彼女は椅子の上で体をひねろうとしたが、肩が途中で止まった。背中へ壁が食い込んでいるように見えて、私は一度目をそらした。
「右に、足だけ出せますか」
志津さんは私の指しているところへ靴を伸ばした。
靴は、椅子の後ろへ出た。私からは、白い壁の上に足先が横向きにあるように見えた。彼女が膝を戻すと、靴も元の場所へ戻った。
「そっちじゃないんですか」
言われて、私は指を下ろした。自分の足は、普通に床に載っていた。
高井さんが画板のところへ戻った。私は何をするのか見ていた。
彼は絵の下のほうを消していた。さっき私が奥を空けるように言ったあたりだった。消し屑が膝へ落ちた。壁は動かなかった。志津さんも椅子から離れなかった。
「いま、描くのやめませんか」
私が言うと、高井さんは消しゴムを置いた。
彼の紙には、椅子の背だけが残っていた。座面を消した跡は白く、そこへ鉛筆の線が何本も重なっていた。どれも途中までで、どこに続くのか定まっていなかった。
「何度やっても、ここがおかしくなる」
高井さんが言った。
「見た通りにしてるんですけど」
彼は志津さんを見た。絵を直すために、もう一度座り方を頼みそうな顔だった。
私は入口へ行き、一階にいる店の人を呼んだ。若い店員が階段を上がってきた。椅子の横で困っている志津さんを見ると、足をくじいたのかと聞いた。
「そうじゃなくて、立てないんです」
私が言った。店員は近づきかけ、途中で止まった。志津さんの膝と壁を、交互に見ていた。
彼は階段の手すりを握ったまま、ここまで来られますか、と言った。手すりは入口のすぐ外だった。志津さんは、行きたいです、と答えた。
それで、店員の顔つきが変わった。私はようやく、彼女が最初からずっと、こちらへ来ようとしていたのだと気づいた。椅子を直してほしいとも、絵を直してほしいとも頼んでいなかった。
店員は部屋へ入らず、手すりから片手を離した。電話をするつもりで、エプロンのポケットを探った。
志津さんが、あ、と小さく声を出した。
膝に置いてあった指が、彼のエプロンへ掛かっていた。
三メートルほどは離れていたはずだった。彼女の腕は伸びていない。店員も入口から動いていない。紺の布の端だけが、志津さんの握った形に引かれた。
「動かないでください」
私は誰へ言ったのか分からなかった。二人とも止まった。
志津さんは指を開いた。布が戻った。もう一度手を出すと、同じ場所へ届いた。私は間に立たず、壁沿いに入口へ寄った。そこから見ても、彼女は部屋の奥にいた。なのに店員の脇へ、白い指先が出ていた。
電話を持った店員が私を見た。私は頷くこともできなかった。
高井さんが椅子から立った。
「そのまま、こっちへ」
手を伸ばした彼へ、志津さんは顔を向けなかった。店員のエプロンを握ったまま、片方の靴を上げた。入口の敷居に靴底がついた。壁際には、まだ彼女の足が見えていた。重なった二つの場所を見ていたら、気持ちが悪くなった。
私は店員へ下がるように言わなかった。引っ張ればよいとも思えなかった。代わりに、自分の画板を入口から退けた。そこに置いたのは私だった。人が通るには邪魔になる。画板を壁に立て、その脇へ鉛筆のケースも寄せた。
志津さんは店員の腰の横へ膝を出した。次に肩が来た。どこを通っているのか、最後まで見分けられなかった。
彼女が敷居へ両足を置いたとき、私たちは初めて場所を譲った。
志津さんは手すりをつかみ、自分で階段を三段下りた。途中で振り返り、椅子を見た。空だった。壁際に寄りすぎていたが、背にも座面にも白い壁は重なっていなかった。
「もう、今日は終わりに」
私が言いかけると、志津さんは頷いた。
高井さんが封筒を出した。謝礼を先に渡していなかったのを、私は思い出した。志津さんは階段から腕を伸ばさず、彼が入口まで持ってくるのを待った。
今度は、封筒を渡すのに、二人が近づかなければならなかった。
高井さんは、次なら人数も揃うから、と言った。
私は腹が立った。人数の話ではないだろう。けれど彼も、言い終わらないうちに口を閉じた。自分の絵を見せるつもりだったらしく、もう一方の手には画板を持っていた。
志津さんは封筒を鞄へ入れた。
「こちらには、もう来ません」
声は小さかった。高井さんは、何がいけなかったかと聞いた。
志津さんはすぐには答えなかった。右手で、左の袖口を直していた。壁へ押されたところに皺ができていた。
「帰りたかったんです、私」
そう言って階段を下りた。
私は彼女について一階へ行った。店員が椅子を勧めたが、志津さんは立ったまま靴のかかとを押し直した。足の形を確かめるように、つま先を床へ何度かつけた。
私も描くのをやめればよかった、と言った。彼女は私を責めず、二階のほうを見た。高井さんはまだ下りてこなかった。
道具を取りに戻ると、高井さんは私の座っていた場所から絵を見ていた。
「あなたから、どう見えてましたか」
彼は私に紙を向けた。志津さんの顔はよく描けていた。髪も、服も、靴もあった。後ろの壁だけが、肩と膝と座面のあいだを、順序なく通っていた。見続けると、どこへ指を置いていいのか分からなくなる絵だった。
私は答えず、自分の鉛筆をケースへ戻した。
高井さんは、下手だから嫌だったのかな、と言った。私へ同意を求めたのだと思う。彼の描いた顔には、笑みがあった。志津さんが一度でもあんなふうに笑ったか、思い出せなかった。
「絵の出来の話は、してなかったです」
私はそれだけ言った。
自分の紙を画板から外し、丸めて鞄へ入れた。高井さんの絵より、ずっと白いところが多かった。
「一度、ちゃんと見てもらえませんか」
彼は私へ画板を向け直した。
「どこを直せばいいか、言ってくれれば」
私は入口へ持っていくつもりだった鞄を、足元へ置いた。紙の中では、志津さんの膝の下から壁が立ち上がっていた。その前を、椅子の背が横切っている。見れば見るほど、どのあいだを通れば入口へ行けるのか、自分のいる部屋まで分からなくなった。
「そこからじゃ、見にくいでしょう」
高井さんは画板を少し下げた。近づけば分かる、というふうに。
私は右足を動かしかけ、同じ板目へ戻した。入口の手すりを見た。それから、鞄の持ち手を握り直した。
高井さんは画板を下げたまま待っていた。志津さんに頼んでいたときと同じ顔で、私の足元を見ていた。


コメント