最後の客が髪を洗ってほしいと言ったので、千種は畳みかけていたタオルを一枚戻した。もう一人の美容師、桐野は入口の外を掃いていた。ガラス越しに手を振り、まだ閉めないで、と口を動かした。
客は初めて来た女性で、髪を切るつもりはなかった。近くのホテルに泊まっていて、部屋の風呂では髪を洗いづらいのだという。千種は料金を伝え、洗髪台へ案内した。女性は持っていた上着を丁寧に畳み、座る前に、これをどこへ置けばいいですか、と訊いた。
千種が上着を預かると、女性は頭から橙色の留め具を外した。髪は肩につくほどだった。椅子を倒すあいだ、両手で肘掛けをつかんでいたが、首が台の縁へ収まると、長く息を吐いた。
「ああ、楽」
千種は首の下のタオルを直した。客のこういう一言が好きだった。
顔に薄い白布を掛け、お湯を出した。熱さを確かめてもらい、耳に入らないよう、片手を添えて髪を濡らした。女性の指が肘掛けから離れた。靴の先も外を向いた。千種は、その晩まだ食事をしていないことを思い出した。帰りに何か買わないと、冷蔵庫には卵しかなかった。
髪を泡立てていると、自分の顎が見えた。
下から仰いだ顔だった。鼻の穴が見え、口が少し開いていた。千種は仕事中に口を開ける癖を桐野に笑われたことがあった。閉じようとしたところで、普段の眺めへ戻った。白布を掛けた客と、その髪に差し入れた自分の指があった。
足を踏み外しかけたように、膝が折れた。台の縁へ腹を当てて持ち直すと、客が、首、大丈夫です、と言った。千種は、失礼しました、と答えた。指を止めていたので、力が強すぎたと受け取ったのかもしれなかった。
店の明かりはついていた。桐野が戻ってきて、入口のマットを置き直していた。千種はそちらを見たまま、少しだけ深く息を吸った。空腹のせいだろうか。吐き気はなかった。足にも普通に体重が掛かっていた。
「お疲れですか」
声を掛けられた。白布の下の口が動いていた。
「いえ。すみません、手を止めてしまって」
「私、よく眠ってると思われるんですけど、起きてますから」
女性はそう言い、膝の上で橙色の留め具を握り直した。千種は、はい、と答えて指を動かした。
もう一度、顔が見えた。今度は顎だけでなく、胸まで入っていた。黒い襟に白い糸くずがついている。額の生え際が汗で湿り、片側だけ髪が浮いていた。千種はその髪を朝、うまく押さえられず、途中で諦めた。
白っぽいものが下から上がり、自分の顔を隠した。次に見えたのは客の額だった。千種の右手が、顔の布を半分めくっていた。
「どうかしました?」
女性は両目を開けていた。千種はその目を覗き込み、何を訊こうとしたのか分からなくなった。
客のいるところから自分を見ていた。そう考えれば、あの角度は合っていた。だが布は掛かっていた。自分でめくるまで、女性の目は覆われていたはずだった。
「お顔に、水が掛かっていないかと思って」
「平気ですよ」
千種は新しい布に替えた。外したものには、顔へ落ちたような水の跡はなかった。
すすぎを始める前に、少し横を向いてもらった。女性は言われたとおりに動いた。千種は首を支え、耳の後ろに残った泡を見た。白い泡はゆっくりしぼんでいた。見えているものは変わらなかった。反対側へ向いてもらっても、何も起きなかった。
千種はお湯を止め、シャワーを台の脇へ置いた。手を拭き、桐野に代わってもらうつもりで呼び掛けると、女性が小さく首をずらした。
「ここ、ちょっとだけ」
タオルの端が耳に触れていたらしい。女性の指が布の下へ入った。
白布が、目のすぐ前を擦った。
千種は目を閉じた。暗くならなかった。織り目が大きく見え、向こうの明かりが四角い穴から透けていた。さっき自分が客へ掛けた布だった。閉じたまぶたに力を入れたが、布の端がわずかに揺れるのを、まだ見ていた。
「千種さん」
桐野が腕に触れた。千種はその手をつかんだ。自分の指の中には腕があるのに、目の前には布しかなかった。
「お湯、止めました。ちょっと代わって」
声は普通に出た。桐野はすぐ隣へ入り、台の脇からシャワーを取った。
客が起きようとしている気配がした。布が動き、天井の照明と、桐野の顔が現れた。千種の顔も、端に見えた。千種はそこで初めて、本当に目を開けた。自分がまぶたを上げる感触はあった。けれど、桐野を仰ぐ眺めは変わらなかった。
「そのままで。泡、流してから起こしますね」
桐野が客へ言った。千種はつかんでいた腕を離し、棚まで後ずさった。腰が角へ当たった。台の正面から三歩は離れたはずなのに、桐野の胸元がすぐ上にあった。
お湯が横から走った。顔へ掛かると思い、千種は口をつぐんだ。水は視界の上を薄く広がった。桐野の輪郭が揺れた。千種の頬も服も、濡れなかった。
棚の上の鏡に手が触れた。客へ仕上がりを見せる、柄のある鏡だった。千種はそれを伏せ、両手で棚の縁を握った。何かを落としたら足を切る。足元の見えないまま立っていることが、急に怖くなった。
やがて水が止まり、桐野が大きなタオルを広げた。耳のまわりを拭くのが見えた。客の髪が、目の前から上がっていった。
濡れた後頭部があった。耳があり、その下に首が続いていた。桐野に支えられて、女性の頭が台から離れた。千種はそれを、洗髪台の底から見上げていた。
椅子が起こされた。女性の横顔が縁の向こうに見えた。まだそこに目がついていた。目を伏せて留め具をポケットへ入れ、それから千種のいる方を向いた。
「私、起きても大丈夫ですか」
千種には、自分へ向けられた顔の下半分しか見えなかった。
「大丈夫です。すみません」
千種は答えた。客の目で見ているのなら、その客が目の前にいるはずはなかった。女性が立ち、桐野に促されて鏡の前へ歩いていったあとも、千種は天井を仰いでいた。台の白い縁が、額のすぐ上にあるように見えた。
千種は棚づたいに動いた。自分がどちらを向いているか、触らなければ分からなかった。腰に棚の角が当たり、次に腕へ柔らかいカーテンが触れた。洗髪台の横だった。桐野に名前を呼ばれ、ここにいる、と返事をした。
「座っててください。今、お水を」
「ここから、そっちが見えるの」
千種は言った。桐野が足を止めた。
「台の底。さっきまで、お客さんだと思ってた」
口にすると一層ひどい話だった。桐野の顔が上から近づいてきた。覗き込んでいる。千種は、髪、入っちゃうよ、と言った。桐野が慌てて耳の脇を押さえた。
桐野が客の方を向いた。
「申し訳ありません。少しだけお待ちいただけますか」
客は何か答えたが、千種には聞き取れなかった。桐野が腰へ手を添え、丸椅子を寄せてくれた。千種は縁を探って座った。裸足の裏のように、手のひらが床の汚れを拾っている気がした。立っている間にあちこちをつかんでいた。
「私の目、開いてる?」
「開いてます」
「どこ見てる?」
桐野は答えるまでに間を置いた。
「私の方です」
千種は膝に手を置いた。いま見えている桐野は、横を向いていた。自分の身体が座っている方を見ているらしかった。
桐野が濡れた布を台から拾い、もう一度中を覗いた。そこで動きを止めた。
「これ、何」
千種には桐野の顔しか見えなかった。眉が寄り、口元へ手が上がった。
「水が残ってるんですけど」
桐野は言葉を切った。人差し指だけを伸ばし、途中で引っ込めた。
「流れてない?」
「浮いてる。髪が、浮いてるんです」
水はさっき止まっていた。桐野の顔を揺らしていた薄い膜はなくなっていたが、目の端に黒い線が一本残っていた。千種はそれを、自分のまつげだと思っていた。
桐野が乾いたタオルを持って戻った。台の方で何かが当たり、桐野が痛そうに息を吸った。いつもなら手の届くところを、腕をいっぱいに伸ばしていた。タオルが上から降りてきた。
千種は顔を背けた。けれど白い布が眺めを塞いだ。布の二か所が窪み、指先の形に押された。千種は両手で自分の目を覆った。指はまぶたへ触れていた。それでも、布に押しつけられた別の指の形が、こちらへせり出してきた。
「触らないで」
千種が言うと、指が止まった。
桐野は手を離したようだった。布の端から明かりが差し込んだ。
「下まで、落ちないんです」
声が震えていた。
「真ん中が、顔に掛けた時みたいに」
千種は手を膝へ戻した。桐野が見ているものを、こちらから確かめる方法はなかった。タオルは鼻の前にあるように膨らみ、その下に、暗い隙間が続いていた。
「そのままにして」
千種は頼んだ。触れば何が起きるか知っているわけではなかった。布を外されたら、また桐野の顔がすぐ上に来る。そのまま覗かせておきたくなかった。
客の声が、近くで聞こえた。
「上着、取りました。お店、出た方がいい?」
千種は頷こうとして、言葉で、出ましょう、と答え直した。桐野は、申し訳ありません、と言ってから、千種の手を取った。指の関節が硬く当たった。千種より強く握っていた。
桐野に連れられて歩いた。タオルはまだ目の前にあった。靴底で床を確かめながら、小さく足を出した。桐野が、鏡の前です、少し狭いので、と言った。千種は返事をし、明日の予約をどうするか考えかけた。考えている間も、白い布しか見えなかった。
入口のマットを踏んだ。外の空気が首元へ入り、車の通る気配がした。千種は戸の枠をつかんだ。桐野が鞄と携帯を渡してくれた。客は隣にいて、腕が時々触れた。遠くへ行ってしまわないでほしいと言いかけると、女性の方から、ここにいますから、と言った。
布がずれた。
洗髪台の縁が見え、その向こうへ店の床が広がった。千種は戸の枠を握り直した。高さが違った。さっきまで見上げていた桐野の丸椅子が、下にあった。白いタオルが縁から滑り、床へ落ちた。
「桐野さん、そこ、出て」
千種は言った。入口に立つ桐野が見えていた。桐野は千種の顔を見て、すぐ外へ出た。千種の腕に肩がぶつかった。ガラス戸が閉じた。
店の中を進んでいた。歩く揺れはなかった。切った髪を掃き残した床が過ぎ、二脚の椅子の間を通った。千種は自分の足を動かしていなかった。枠に掛けた指が痛み、肘のすぐ横で桐野が電話をしていた。
桐野に鍵を握らせてもらい、千種は鍵穴を探した。金属の縁へ指が当たった。その指が、向こうから近づいてきた。
ガラスのすぐ内側まで来ていた。店の外に、顔を伏せた千種が立っていた。襟に白い糸くずがついている。抜いた鍵を取り落とさないよう、千種は拳を握った。自分のその手を、店の中から見ていた。


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