美和に会ったら最初に断ろうと、電車の中で決めていた。お茶を飲んで、近況を話して、それからでは言いにくくなる。改札を出たところで、私はもう鞄の紐を握り直していた。
美和は駅前の植え込みに腰を掛けていた。去年会った時より髪が短かった。私を見ると手を上げ、買っておいたという缶のお茶を一本くれた。冷えた缶を受け取ったせいで、先にお礼を言うことになった。
「今年は、私やらないからね」
歩き出してすぐ言った。美和は私の顔を見て、うん、と答えた。もう少し困るかと思っていたので、用意した理由が余った。
高校の同窓会のことだった。最初に店へ電話をしたというだけで、幹事はずっと私になっていた。人数を変える人も、代金を忘れる人も、先生に花を渡そうと言い出す人も、みんな私へ連絡してきた。美和は毎回手伝ってくれたが、今年も二人でやればいいとは思えなかった。
「やめるって、この前も言ったよ」
「うん、聞いた」
「だから、今日はその相談だったら」
「違うって」
美和は少し笑った。私は言い過ぎたと思い、缶を額へ当てた。九月の終わりだったが、まだ昼間の熱が残っていた。
駅の裏に大きな公園があった。美和が子供の頃によく来た場所で、その日は売店が閉まっていた。どこかの店に入ろうと言うと、お茶もう買っちゃったし、と彼女は缶を見せた。私たちは舗装された入口を抜け、芝生を囲む砂利道へ入った。
美和は白いスニーカーを履いていた。右の紐だけ、結んだ輪がひどく長かった。踏むよと言うと、あとで直す、と言った。去年は子供の運動靴を間違えて履いて来た。私はそれを思い出して笑った。
「また靴で笑ってる」
「違う、去年の」
「あれ、結局もらったんだよ。私のほうが履いてたから」
普通に話せて、少しほっとした。もう幹事をしないからといって、美和まで避ける必要はない。そう思いながらも、次に何を頼まれるのか気にしていた。
前方にベンチが二つ並んでいた。手前は日が当たっていたので、奥まで行くことにした。美和が靴紐を踏んで止まった。だから言ったのに、と私が言うと、ほどけた輪を指で持ち上げた。しゃがむ美和から缶を預かった。
砂利を踏みしめる音が続いていた。
美和はしゃがんだまま、紐の端を揃えていた。歩く時の一歩ぶんの、じゃり、という音の途中が終わらなかった。彼女が結び終えて顔を上げるまで、どこかで石が擦れていた。私は道を振り返った。
入口まで見通せた。低い杭に渡したロープの内側で、男の子がボールを追っていた。父親らしい人は芝生に座っていた。道を歩いている人はいなかった。
「何か引きずってない?」
私は聞いた。
美和は靴底を見せ、何も、と言った。立ち上がって缶を受け取ると、先に歩き出した。擦れた音だけが、彼女のしゃがんでいた場所に残った。落ち葉を掃く人でもいるのかと思ったが、それにしては途切れなかった。
ベンチへ座ると、缶が温まっていた。美和は両足を前へ伸ばした。白いスニーカーの爪先が土で汚れていた。私はお茶を一口飲んでから、今日はどうしたの、と尋ねた。
美和がこちらを向いた。その顔を見ると、私がその言い方をするまで、何か話し出そうとしていたのが分かった。缶を両手で転がして、彼女は言った。
「何かないと会えないの」
私はすぐに否定した。今までだって二人で会っている。そう言いながら、最後にいつ会ったのかを考えた。先生への花を買いに行った時。その前は、会場の下見だった。その前も、何かを決めるために会っていた。
「そのうちって言うと、ずっとそのうちだからさ」
美和は芝生を見た。
「来月、誕生日じゃん。先に会っとこうと思って」
私の誕生日だった。まだ三週間近くあった。美和らしいと思った。思ったのに、胸の中で何かがうまく収まらなかった。
砂利道から足音がした。
今度は短く二歩ぶん鳴り、その次が終わらなかった。一度踏んだ砂利を、いつまでも靴底の下でこすり潰しているようだった。音が大きくなってきた。私は缶を膝へ下ろした。美和もそちらを見た。
誰も歩いていなかった。道の途中で、背の低い自転車止めが白く光っていた。その向こうにも人はいない。音は靴紐を結んだあたりから聞こえた。近づいていると思ったが、次の一歩がいつまでも来なかった。
美和が前へ伸ばしていた足を引いた。
「聞こえる?」
私は頷いた。鳥の声や子供の声が、その間にも聞こえていた。公園全体が急に静かになったわけではない。近づく足音だけを、ほかの音へ紛らせることができなかった。
「何なの、これ」
言い終わらないうちに、ベンチの前で砂利が鳴った。美和が足を引いても、小石は動かなかった。靴の爪先が上がり、彼女の手がベンチの端を掴んだ。私はその手を見ていた。
音が短く切れ、すぐ後ろでまた始まった。
その時、美和が何か言った。声は聞こえた。いつもの、少し喉に引っ掛かる声だった。それなのに、何を言ったのか分からなかった。風で聞こえなかった時のように、もう一度、と頼んだ。
美和は同じことを言ったらしかった。私は彼女の口を見た。唇が動いて、聞き慣れた言葉がいくつか続いた。ひとつずつなら分かるような気がしたが、言い終わると何も残らない。指に汗が出て、缶が滑りそうになった。
「待って。今、頭に入ってこない」
美和が眉を寄せた。私の額へ手を伸ばしかけたので、避けてしまった。彼女は手を膝へ戻した。怒らせたのだと思った。謝ろうとすると、自分が何をしたのか、もう一度その手を見なければ分からなかった。
砂利を踏む音は、私たちの背中側へ回っていた。ベンチの後ろは芝生だった。そこへ道はない。私は振り向けなかった。美和の顔から目を離したら、次に向いた時には知らない人になっていそうだった。
高校へ一緒に通った。彼女の家で試験勉強をした。パン屋であんパンを買い、半分ずつ食べた。どれも覚えていた。けれど、目の前の顔とその記憶の間が、どうしても繋がらなかった。
美和は鞄を開けた。私は、帰るんだ、と思った。すぐに、何か出すだけかもしれない、と思い直した。白いハンカチと、薄い紙袋が見えた。紙袋には赤いシールが貼ってあった。彼女はそれを私の膝へ置こうとした。
受け取りたくなかった。
中身が怖いのではなく、この人から物をもらう理由が分からなかった。私は缶を持ったまま両手を上げた。美和の顔が固まった。袋を戻す手が、さっき靴紐を結んだ時と同じ手だと分かった。そのことだけが確かだった。
「ごめん」
私は言った。
「ちょっと、待って」
自分の声が、思っていたより大きかった。芝生の男の子がこちらを見た。私は男の子の顔なら普通に見ることができた。知らない子供だった。美和を見直すほうが怖かった。
彼女は携帯を取り出した。私の耳に近づけるのかと思ったが、そうではなかった。画面へ何か打ち込み、膝の上でこちらに向けた。
『気分悪い?』
読めた。私は首を振りかけて、頷いた。何が悪いのか説明できなかった。
『救急車よぶ?』
私は、ちょっと待って、ともう一度言った。鞄から自分の携帯を出そうとして、缶を落とした。砂利へ転がり、お茶がこぼれた。缶はベンチの脚で止まった。転がる音は、まだ先まで続いていた。
美和も缶を見ていた。彼女が何か言い、それが分からなかった。なのに、私には腹が立った。分からないと言っているのに、どうして話すのか。そう思って口を開いた時、彼女の肩が小さく上がった。
叱られるのを待つような動きだった。
私は口を閉じた。美和は携帯の画面を消し、また点けた。指を何度も間違えながら打っていた。その間、ベンチの裏で足音が続いた。何十秒も続く一歩の下へ、もう一つ短い足音が入った。それも途中から長く伸びた。芝生の上で、石と石が擦れ続けていた。
美和が画面を見せた。
『私が言ってること、わからない?』
今度は頷けた。彼女は少し考え、私の鞄を指した。帰るということだと、私は思った。けれど、それも違っていた。鞄の脇から出ていた私のハンカチを抜き、こぼれたお茶がかかったスカートへ当ててくれた。
手首の内側に、小さな傷があった。高校の調理実習で、缶詰の蓋に触れた時のものだった。私が先生を呼びに行き、美和は血が服へ落ちないよう手を上げていた。そこまで思い出しても、今その傷のある人へ、親しい顔を向けることができなかった。
彼女が立った。鞄を持ち、ベンチから一歩離れた。その一歩には音がなかった。スニーカーの底が砂利を押し、小石が前へ転がるのが見えた。彼女は足元を見下ろし、私を見た。
ベンチの裏で、長く続いていた音がやんだ。
美和は動かなかった。私は座ったまま、彼女の靴を見ていた。止まっていた音がもう一度始まると、美和が私の腕へ触れた。立たせるための手だと思ったが、私をここに置いておく手かもしれないと思った。
「触らないで」
言ってしまった。美和は離した。
離された途端、もう二度と手を伸ばしてくれない気がした。自分で言ったことを取り消したかった。私は鞄を抱え、立ち上がった。膝が震えて、すぐには前へ出せなかった。
美和が携帯を差し出した。画面には、少し前に打ったらしい文字があった。
『今日は、会いたかっただけ』
私はそこへ指を置いた。読めるのに、この人が私へ言うことだと分からない。画面の上に美和の指があり、下には私の指があった。二人の指の間から、その一行を読んでいた。
後ろで短く、じゃり、と鳴った。
次は、普通に足を下ろす音だった。私は携帯を返し、ベンチの前へしゃがんだ。落とした缶を拾った。自分が次にすることを、ひとつずつ見ていなければいけなかった。
美和は私が立つまで動かなかった。私は拾った缶をベンチへ置き、彼女の携帯をもう一度指した。言葉にする代わりに、画面を借りた。
『ひとりにしないで』
打ち終えるまで、顔を見ることができなかった。美和はそれを読み、紙袋を鞄へ戻した。私には渡さなかった。私は缶を持ち直し、空いたほうの手で鞄の紐を握った。
出口までの道は分かっていた。舗装へ出ると、靴の底が硬いものに当たった。私は美和の横顔を見ながら歩いた。走ろうともしないし、私を引っ張ろうともしなかった。そのために、私のほうが彼女に歩調を合わせなければならなかった。
公園の外で、自転車の男にベルを鳴らされた。端へ寄ってと言われ、意味が分かった。私はよけた。美和も同じ側へ寄った。すぐそばで彼女が短く何か言ったが、それはまだ分からなかった。
駅前まで来ると、私は初めて美和へ笑いかけようとした。うまくいかなかった。彼女はお茶を捨てられる場所を探して、私の手から缶を受け取った。缶を放した自分の指が、どこへ行けばいいか分からずに浮いた。
電車には乗らなかった。美和が駅前の店の椅子を指し、私は頷いた。何か食べたほうがいいのか、誰かへ電話してくれるつもりなのか、聞かなかった。ただ、席を選ぶ時だけは、向かい合わせを避けた。彼女の顔を見続けなくて済むように、隣へ座った。
美和は鞄から紙袋を出した。私へ渡さず、二人の間に置いた。赤いシールの端が折れていた。私がそこへ触れると、彼女は袋を少し寄せてくれた。
私は礼を言わなかった。ありがとうと言って、この人との用事を終わらせてしまうのが怖かった。


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