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まだ手を合わせていない

亮介が花の包みをほどこうとすると、祖父が横から手を出した。
「それは、もう片づけた」
「まだだよ。今、持ってきたんだから」
祖父は何も言わず、亮介の足元を指した。持参したごみ袋の底に、花屋の緑色の紙が丸めてあった。

同じ店で買った人がいたのだろうと思った。駐車場から上がる途中、ごみ袋を祖父に預けている。その間に、墓の脇にでも落ちていた紙を拾ったのかもしれない。
亮介は膝で包みを押さえ、ほどけない輪ゴムを指に掛けた。菊の茎を折らないように外すのは、案外面倒だった。祖父の昌二は、それを立ったまま見ていた。

墓参りに付き合ったのは、二年ぶりだった。最近、昌二が一人で墓まで歩くのを父が心配していた。車で連れていけば、それほどの用事でもない。亮介はそう言って引き受けたが、日曜日を丸々空けたわけではなかった。
午後には人と会う。墓には三十分もいれば十分だろうと、車を出す前から決めていた。

昌二のほうは、久しぶりに孫と出掛けるので朝から着替えて待っていたらしい。玄関の上がり口に腰を下ろし、靴を履いたままテレビを見ていた。亮介が着いたとき、父はそれを笑った。
「昨日から、何を食わせようかって考えてたぞ」
昌二は照れたように手を振った。亮介は昼は一緒に食べられないと伝え損ね、墓への道でようやく話した。

「ああ、そうか。じゃあ、先に言っとけばよかったな」
何を、と亮介が聞いても、昌二は、いや、と言うだけだった。助手席の足元に、小さな保冷袋が置いてあった。酒を飲めなくなってから、祖父は人に何かを食べさせるのが好きになった。
亮介は帰りに何か買おうと思い、その袋のことは聞かなかった。

山の裾の古い墓地で、車を置く場所から五十段ほど石段を上がる。祖母の墓は上がってすぐだった。周りの木は低く刈られ、町の屋根が見下ろせた。人影はまばらで、少し離れた区画で女の人がしゃがんでいた。
昌二は上り切ると腰に手を当てた。亮介が石の囲いに座るよう勧めても、今日はいい、と断った。

上ってくる途中、亮介は祖父の腕を引いた。支えるつもりだったが、昌二は二段ほど上がったところでその手を外した。
「引かれると、足が出ないんだ」
それで亮介は先に立ち、一段ごとに振り向いた。早くしろとは言わなかった。けれど祖父が顔を上げるたび、自分は次の段で待っていた。

石段の下で、昌二は保冷袋を車へ置いておくか迷っていた。
「卵のやつ、作ってきたんだ。お前、辛子は駄目だったな」
「今は食べられるよ」
「入れてないんだよ」
祖父は少し困った顔をした。亮介は、どっちでも食べる、と答えた。弁当の包みらしい白い布が、袋の口からのぞいていた。昔は外へ出掛けると、昌二が作った、耳のついた卵サンドを車の中で食べた。祖父はそれを持って上がるつもりだったらしい。亮介が車に戻って食べようと言うと、黙って足元へ置き直した。

輪ゴムを外した亮介は、左右の花立てに菊を分けた。入っていた古い花は、先に昌二が抜いていた。枯れた茎を袋へ押し込み、手についた茶色い花粉を払う。
「水、替えてくる」
「ありがとうな」
昌二の返事は、亮介が立ち上がるより少し早かった。普段から、声を最後まで聞かずに返事をする人だった。

水場は石段の横にあった。亮介は空のバケツを持っていき、蛇口をひねった。水が底を叩いたとたん、内側を灰色のものが流れ落ちた。
線香の灰だった。
バケツの縁に、濡れた指で拭ったような筋がある。出掛ける前、物置から出して自分で洗った。灰を捨てるための物ではない。それでも、去年の汚れを落とし損ねたのかもしれなかった。

墓へ戻ると、新しい菊が二束とも、墓の前の敷石に寝かされていた。昌二は花立てに手を添えている。
「入らなかった?」
「よくもったなあ」
祖父は花を見ずに言った。
亮介はしゃがんだ。白い菊の花びらの先が、一斉に茶色くなっている。開いたところの少ない花を、店で選んでもらったはずだった。茎に触れると、冷たいぬめりが指へついた。

「じいちゃん、この花」
「捨ててくれたろう」
「捨てたのは前の花だよ」
昌二の前には、空の花立てが二つあった。亮介は持ってきた水の重さを右手に感じながら、枯れた二束を見た。花屋の紙は今、確かに自分の膝の下にある。その角にも、さっきはなかった茶色い汁がしみていた。

昌二が亮介の肩を軽く叩いた。
「悪かったな、長くなって」
「まだ何もしてないって」
言い方が強くなった。祖父は叩いた手を引き、墓へ向き直った。亮介には、怒らせたというより、すでに済んだ話をまた持ち出してしまったように感じられた。

持ってきた線香は、昌二の上着のポケットにあった。亮介が手を伸ばすと、祖父は箱を出し、口を開けて渡してくれた。中には折れていない線香が残っていた。
亮介は一本だけ取り出した。試そうとしたわけではない。花のことを言い合うより、順に済ませたかった。
ライターの金具を回す。その前から、人差し指の先が熱かった。

反射的に指を離し、線香を落とした。敷石の上で長い灰が折れた。緑色だったはずの一本は、全部が白くなっていた。まだ火はついていない。右手のライターにも、炎は出ていなかった。
亮介は石から手を引いた。爪の脇に、丸く赤いところができていた。
「水、使いなさい」
昌二がバケツを近づけた。亮介は指を浸した。ひりひりした痛みが冷たさに変わっても、祖父がこちらへ差し出した腕を見ていた。

「あれ、見たよね」
「見てたよ」
「火、つけてないよね」
昌二は答えず、濡らしたハンカチをよこした。亮介が使って返そうとしても受け取らなかった。祖父は墓石の前へ屈み、線香立てにたまった灰を指でならした。まだ一本も供えていないのに、灰は縁の近くまで盛り上がっていた。

亮介は顔を上げ、隣の区画の女の人を探した。白い帽子を脇へ置き、花立てを洗っている。あの人なら、今持ってきたばかりの花を見ていたかもしれない。
昌二へ断り、通路を二つ隔てた墓まで歩いた。
「すみません。うちの祖父が、花を替えてるところを」
女の人は顔を上げた。
「ちょっと、それ、押さえていただけますか」

石の縁に置いたバケツが傾きかけていた。亮介が持ち手をつかむと、水が縁まで上がった。女の人は花立てを片手にまとめ、バケツの下から雑巾を抜いた。
「ここにあけてしまっていいので」
彼女は玉砂利の間を指した。そこだけが黒く濡れ、こぼれた水が通路にまで出ていた。細い葉が二枚、水に押された形で石の端に張りついている。

亮介は両手でバケツを傾けた。底に見えていた二枚の葉が、縁のほうへ滑った。
水は出なかった。
手にはまだ重さがあった。冷たい水が自分の指まで来ているのに、玉砂利にも靴にも、一滴も落ちなかった。葉だけが、流れの中で裏返った。地面に張りついた葉の一枚も、同じように裏返った。

亮介は慌ててバケツを起こした。中は空だった。持ち手を握り直した拍子に膝へぶつけると、軽く跳ねた。
女の人は、亮介の足元へ手を伸ばして二枚の葉を拾った。
「花の葉っぱは、流さないようにしてるんですけどね」
ごみ袋へ入れ、手を払う。亮介はバケツを置いた。尋ねかけたことを聞き直されるのが嫌で、頭を下げて戻った。女の人はその間も、花立てを布で拭いていた。

昌二は手を合わせていた。
その横に、亮介の上着がきちんと畳んで置いてあった。

上着は、亮介が着ていた。
胸のところを掴むと、ちゃんと布があった。脱いでいない。畳まれたほうも、袖口のボタンが一つ欠けていた。先月、満員電車でなくした場所と同じだった。
亮介は自分の胸から手を離せなかった。昌二の唇がゆっくり動いた。すぐ隣にいるのに、何を言っているのか分からなかった。

「じいちゃん。もう帰ろう」
昌二は目を開けた。
「まだ、手を合わせてないじゃないか」
初めて、今の亮介に合う返事が来た。
亮介はうなずいた。上着のことも、花のことも、ひとまず口にしなかった。祖父の隣へ膝をつき、手を合わせようとした。

両手を胸の前へ持っていくと、指の間に土があった。触れていないはずの指の腹が汚れていた。黒い粒が、爪の内側まで詰まっている。
亮介は手を開いた。掌の真ん中に、硬いものを掴み続けた赤い筋があった。左右に一本ずつ。そこだけがひどく痛み、指を曲げると、何かをまだ離していないような力が残った。
敷石には、ごみ袋がない。花立てにも水がない。畳んだ上着だけが、祖父の膝のすぐ横にあった。

昌二が、その上着を両手で持ち上げた。
「これ、着せてくれ」
祖父は自分の上着を着ていた。亮介は首を振りかけた。昌二は畳まれた袖を片手で探り、指を差し入れていた。片方の袖を開けても、反対側が閉じてしまう。亮介が子供のころにしていたような持ち方だった。

「寒いんだ」
声は小さかった。
亮介は差し出された上着を受け取らなかった。自分の着ているほうを脱いだ。袖口の、ボタンが取れたところを指で探し、祖父の背中へ掛けた。肩に手を置くと、昌二は少し息を吐いた。
畳まれていたほうの上着は、もうなかった。だからといって、何かが済んだ気はしなかった。

亮介は祖父の前へ回り、両方の手を取った。
「帰るよ。俺と一緒に」
昌二はうなずいたが、立とうとしなかった。亮介の手を握り返す指は温かかった。爪も、関節も、よく知っている祖父の手だった。
亮介が引くと、昌二は少しだけ顔をしかめた。
「それ、さっきもやった」

祖父の手首に、指の形で赤い筋がついていた。
右にも左にもあった。亮介はまだ強く引いていない。自分の掌にも同じような痛みがある。あの汚れた手で何を握ったのか、考えまいとしていたことを、もう考えずにはいられなかった。
昌二は亮介の手を外さず、町のほうを見た。
「お前、車で待ってただろう」
亮介は首を振った。
「ここにいる。ずっといるよ」

携帯がポケットで震えた。午後に会う相手からだった。亮介は昌二に見えるよう、取っていた両手を離した。
「電話するから。ここで」
通話に出て、遅れる、と言った。まだ墓を出ていないので、何時になるかは分からない。相手は困った声を出したが、場所を変えて待つと言ってくれた。亮介は礼を言い、電話を切った。昌二は石の縁へ掌をついていた。

「肘、貸してくれ」
亮介は腕を横に出した。昌二が上からつかみ、身体を寄せて立ち上がった。亮介は足を動かさずに待った。祖父が握り直してから、一緒に通路へ出た。
階段では横に並べなかった。亮介は一段下に立ち、顔を前へ向けたまま肘を後ろへ出した。引き下ろさないよう、祖父の靴が段に着くのを待って降りた。握られている肘のあたりだけ、汗が乾かなかった。

車へ着くと、昌二は助手席に座り、保冷袋を膝へ上げた。
「ああ、つぶれてないな」
白い布をほどき、弁当箱の蓋を取った。パンの耳が大きくはみ出していた。昌二は下へ敷いてあった紙を一枚ずつ剥がし、卵のこぼれたほうを自分へ寄せた。
亮介は開いたドアの脇に立って、一つ受け取った。辛子は入っていなかった。

昌二の手首には、まだ深く指の形がついていた。紙に包んだサンドイッチを持つと、その跡のところで皮膚が折れた。亮介の掌にも同じ痛みが残っている。墓から下ろしてきた祖父の肘とは、違う細さだった。
「ベルト、引っ張ってくれ。挟まった」
昌二が身体を前に倒した。亮介は食べかけを車の屋根へ置き、手を伸ばした。祖父の背中の向こうで、金具がひっかかっていた。
指の間の黒い土を見て、亮介は手を止めた。窓のところまで出ている昌二の手首と、自分の掌の溝を、触れなくても重ねることができた。

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