父が持ってきた靴は、左だけが減っていた。右は踵にも爪先にも、ほとんど傷がなかった。四年は履いている革靴で、甲には細かな皺が入っている。両方とも直すつもりで預かったが、俺は右の靴底を何度もひっくり返した。濡れた布を踏んだような跡が、中央に残っていた。
父は店の椅子へ座り、左足をぶらぶらさせていた。右足は床につけていた。店のサンダルを貸したのに履かず、靴下のまま踵を押していた。
「右、痛いのか」
「こっちは何ともない」
そう答えて、父は左の膝を叩いた。足の癖で減り方が違う客はいる。俺もそれ以上は聞かなかった。
俺の店は、駅前の修理店から独立した小さな靴直しだった。鞄の持ち手も直すし、合鍵も作る。父は知り合いに大きく宣伝していたが、自分の靴を持ってきたのは初めてだ。これぐらい自分で直せると、ずっと接着剤を塗って履いていた。剥がす側の苦労を考えていない。
父は数年前まで、冷凍食品の倉庫で働いていた。夜明け前の荷受けがあるので、休みの日も早く起きる。その革靴は通勤に使っていたものだった。革が柔らかく、履くのが楽なのだという。俺が新しいものへ買い替えろと言うと、買う金はある、と機嫌を悪くした。
右の底に道具を入れると、接着剤とは違う抵抗があった。薄いものが靴底と一緒に伸びてきた。古い中敷きかと思ったが、底の外側に貼りついていた。濡れた紙のようで、剥がすと裂ける。俺は切らずに湿らせ、少しずつ剥がした。青い糸が二本出てきた。
作業場の奥で人が咳をした。店には俺しかいなかった。音がしたのは、長靴を並べた棚の下だった。覗くと、裸の踵が少し見えた。客が落とした靴を探しているのかと思い、危ないですよと声をかけた。返事はない。作業台から出て棚の向こうを見ると、誰もいなかった。
父へ電話して、どこか濡れた場所を歩いたか聞いた。しばらく返事がなかった。
「右のほうか」
そう聞き返された。俺は、そうだ、と答えた。父はすぐ行くと言って切った。部品を外したまま返すわけにもいかず、俺は右を脇へよけて左の踵を直した。棚の下は見ないでいた。
父はいつものスニーカーで来た。入口の段差を上がる前に、右足を高く持ち上げた。店の段差は五センチほどしかない。椅子へ座ると、直さなくていい、と言った。俺が剥がした薄いものを見せると、父は両手を膝へ置いた。手の甲の血管が浮き、口がきつく閉じられた。
「何を踏んだんだ」
「覚えてない」
「青い糸がついてる」
父は、返してくれ、と言った。糸ではなく靴のことだった。俺は片方の底が剥がれたままだと説明した。父はそれでもいいと言った。椅子の前の何もない床へ、右足を押しつけていた。スニーカーの爪先が、床から少し浮いていた。
俺は父の足へ手を伸ばした。父が怒鳴った。こんな声を聞くのは、十数年ぶりだった。俺が高校のとき、夜中にバイクを押して帰ってきたとき以来だ。父自身も驚いたらしく、すぐに悪かったと言った。俺は手を引き、カウンターの裏へ戻った。棚の下で、また咳がした。
父がそちらを見た。初めてだった。俺は何かいるのかと聞いた。父は答えず、右の膝を手で押さえた。棚の下に、肘があった。白い腕が曲がり、指の先だけが床へ出ていた。頭のあるはずの場所は長靴に隠れていた。父の足が少し上がると、その手も同じだけ浮いた。
「踏んどかんと、歩けん」
父はそう言った。俺は聞き返した。父は床を見たまま、右を前へ出すたびそこに寝ている、と続けた。避ければいいと思って大股で越えても、爪先の下に胸が来る。左だけなら普通に地面へ着く。右を出すと、その身体がある。
右足をひねれば、顔を踏む。横へ広く出せば腹を踏む。どこへ置けば痛くないか分からず、父はいつも同じあたりへ足を置いていた。そうすれば一度、息が抜けるだけだという。俺は靴底の青い糸を見た。父の働いていた会社の作業着は紺色だった。肩だけに、明るい青い布が使われていた。
四年前、倉庫で事故があった。俺が知っていたのは、それで父が退職したことと、一人が亡くなったことだった。父は詳しい話をしたがらなかった。俺も労災の書類や通院のことを母から聞く程度で済ませた。あの日、父がいつもより遅く帰ったことだけ覚えていた。
倒れた荷物と扉の間に、二人が挟まれた。父と、長く同じ時間帯で働いていた西山さんだった。足元に凍った水が流れ、姿勢を変えようとすると滑った。助けを呼んでも、荷物が邪魔で扉を大きく開けられない。西山さんが先にしゃがんだ。俺を踏んで上へ出ろ、と言ったのだそうだ。
父が彼の肩へ右足を載せると、その人は前へ倒れた。胸に足が移り、何かが鳴った。父は高い位置の隙間から外へ顔を出し、人を呼ぶことができた。後で西山さんの身体を出したときには、返事がなかった。父の足が原因だったのか、荷物の重さだったのか。父は医師にも聞いたが、答えを受け取った気がしなかったと言った。
「それで、その日からか」
父は首を振った。最初の一年は何もなかった。現場へ花を持っていった帰り、靴が濡れているのに気づいた。それから、右足の下だけ地面が柔らかくなった。父は靴を替えた。底を洗った。歩かずに家で過ごした。だが、一歩出す必要があるときには、必ず同じ場所にいた。
俺は父の足元を見た。誰かの身体を踏んでいるようには見えない。スニーカーが一足、爪先を上げているだけだった。父は靴を持って帰ると言った。俺が直していいことではない気がした。そう思う一方で、底を剥がすまでは、少なくとも自分に咳は聞こえなかった。
俺は剥がした薄いものを、元の底へ戻した。接着剤は使わなかった。手で重ねるだけでも、青い糸の向きがぴたりと合った。棚の下の手が引っ込み、父が大きく息を吐いた。椅子の背へもたれ、膝を撫でた。俺は右の靴をカウンターへ載せた。
「これを返したら、また踏んで帰るんだろ」
父はうなずいた。
「じゃあ、返さない」
父が俺を睨んだ。俺は理屈を説明できなかった。靴を修理すれば、自分もあの身体の上へ足を置く場所を作る。それが嫌だったのか、父が平気な顔をして暮らすことが嫌だったのか、その場ではよく分からなかった。
父は椅子から立った。左足を前へ出し、右を引きずった。棚の下で、何かが擦れる音がした。父のスニーカーの先に、唇の端が見えた。父が足を置く場所に、人の頬があった。鼻と目はカウンターの陰へ隠れていた。父はぎりぎりで足を止め、壁へ手をついた。
俺は店のシャッターを下ろした。父が、客が来る、と言った。
「今日は終わり」
俺はしゃがみ、父へ背中を向けた。家まで背負っていくつもりはなかった。裏の駐車場まで運び、タクシーを呼べばいい。父は嫌がった。俺は振り返らずに待った。やがて、肩に父の手が載った。
父は軽くなっていた。昔、酔って歩けなくなった父を母と二人で玄関へ入れたことがあったが、そのときとは違った。両脚を抱え、ゆっくり立った。父の右足が俺の脇へ当たった。その途端、背中と父の腹の間で、別の息が抜けた。父は俺の首を強くつかんだ。
振り向くと、何もない。棚の下にも手足は見えなかった。俺は父を下ろさず、裏口へ向かった。右足を出すときだけ、父の身体が後ろへ引かれた。俺の足ではない。背負っている父の靴が、まだどこかを踏んでいた。父は右足を膝から曲げ、俺の身体へ寄せた。
「俺が止まればいいと思うたんだが」
父が耳元で言った。
俺は、しゃべらないで、と答えた。責めたつもりはなかった。後ろから聞こえる声が二つになっていたからだ。父が口を開くと、その下で誰かが同じ言葉を、息だけでなぞった。二人分の歯が俺の首に近かった。
駐車場のベンチまで運び、父を下ろした。両足を地面から離して座ってもらった。電話でタクシーを頼むあいだ、父は自分の右の靴紐をほどいた。俺が止める前に靴を脱ぎ、靴下も取った。足の裏は白くふやけていた。中央に、青い糸が二本埋まっていた。
父は糸を引こうとした。指先でつまむと、ベンチの下から咳がした。俺は手を止めさせた。ベンチの端に膝が見えた。下へ人が寝そべっているにしては、膝が高すぎた。父が足を上げると、その膝もベンチの木を通って上がった。父は顔を覆った。俺は電話をかけ直して車を断った。
通りの向こうでは、子供たちがボールを追っていた。俺はその声を聞きながら、父の靴下を裏返した。青い糸はついていなかった。スニーカーにも見当たらない。革靴を返さなければ止まるというのは、俺が勝手に考えたことだった。父の足を見て、ようやくそれを認めた。
店へ戻ろうと父に言った。彼は頷いた。今度は嫌がらずに俺の背中へ乗った。足を置くなと言って、両方とも俺の腰へ巻いてもらった。父の踵が腹に触れた。柔らかかった。俺は立ち上がり、ゆっくり歩いた。どこへ出しても、自分の靴には固いアスファルトが当たった。
店の裏口で、父が俺の耳を指で叩いた。
「まだ、いるか」
俺は答えなかった。入口のガラスの下に、裸の肩が見えた。こちらへ顔を向けているらしいが、ガラスに貼った営業時間の紙が、その上を隠していた。俺が父を抱え直すと、肩も同じ高さへ持ち上がった。
父を作業場の椅子へ座らせ、足置きを出した。右足の下へ、さっき直した左の革靴を横に置いてみた。父は足を載せず、首を振った。そんなことをするな、と小さく言った。俺は靴を戻した。作業台にある右の靴底は、指で押すとまだ湿っていた。
その夜は母に来てもらった。何から話すか父と決めようとしたが、父は、俺が言う、とだけ答えた。母が椅子の前へしゃがむと、父は少し膝を上げた。母はそれを気遣いだと思い、笑った。棚の下に見えた裸の足が、母のほうへずれた。俺は母を立たせ、別の椅子に座ってもらった。
父の右の革靴は、まだ店にある。底を貼り直してはいない。父を車へ乗せるときは、今も俺が背負う。どうしているのかと客に聞かれたら、膝が悪くて、と答えることにしている。父もそれには口を挟まない。ただ、俺の背中で右足を下ろしそうになると、自分で抱えて持ち上げる。そのたび、俺の耳の後ろで、誰かが痛みをこらえて息を吸う。


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