返品された鉢を、三村は信岡の机に六個ずつ並べた。
「またですって。熱いものを入れたら、底から漏れたって」
飲食店へ食器を卸す会社だった。信岡がここで荷を見始めてから二十三年になる。白い鉢は先月まとめて入れた安い品で、今朝の返品で三軒目だった。店主に電話で謝ったのは三村だが、仕入れを決めた社長は出張中で、検品をした信岡に話が回ってくる。
「出す時には、なかったんだよ」
「私、誰のせいとも言ってませんよ」
三村は鉢を持ってきた箱を潰した。厚い紙が折れる音まで怒って聞こえ、信岡はそれ以上言わなかった。彼女が入社したのは春だった。客に合わせて笑うことは上手なのに、信岡には、思ったことをそのまま口にする。自分だけが雑に扱われているような気がしていた。
窓から入る光へ鉢を透かした。底に細いひびがあった。釉薬の表面だけに入った筋とは違う。縁を指先で支え、爪で外側を弾くと、乾いた、短い音がした。同じ箱の傷のないものは、もう少し長く鳴る。
信岡は二つを続けて鳴らしてみせた。
「分かるだろ」
「並べたら分かります。でも、一つだけで持ってこられたら無理です」
無理で済ませるから覚えないのだ、と思った。口に出す前に、三村が一つを耳へ近づけた。彼女は聞こえなかったふりをしたいのではなかった。眉を寄せて、さっき鳴らしたほうの縁を覚えようとしていた。
信岡は新しい箱を開けた。午後の配達までに、同じ品を全部見直すことにした。三村も隣へ椅子を持ってきた。
倉庫の裏には、割れ物を置く小さな土間があった。以前は修理の出来ない棚や台車も置いていたが、今は皿の破片ばかりだった。蓋のない青い容器へ捨てておくと、隔週の木曜に男が来て持っていく。信岡はその男の名を知らなかった。伝票は事務所で済ませているものだと思っていた。
「今日、取る人来ますよね。四時までに終わりますか」
三村は腕時計を見た。五時に子供を学童へ迎えに行くので、四時半にはここを出る。残業を断る時、そのことを毎回言うのが、信岡にはくどく感じられた。ただ、今日は自分のほうで、四時には終わるよ、と答えた。
土間から、かた、と音がした。
まだ誰も来ていないはずだった。三村が顔を上げたが、信岡は鉢を取り替えながら、あそこは鳴るんだよ、と言った。
夏でも冬でも、時折ああいう音がする。たくさん重ねた皿が落ち着くのだろうと、入社した時に聞かされていた。二十三年の間、そこを通るたびに音の理由を考えたことなどなかった。
「もう割れてるのに?」
三村はそう言ってから、ひびの入った鉢を別にした。信岡が今度こそ教えようとしたのは音のことだったが、彼女の指はもう間違った品へ伸びていなかった。
三時を過ぎて、裏の戸が開いた。
引き取りの男は、薄い茶色のジャンパーを着ていた。八十に近いのか、まだ六十代なのか、会うたびに分からなくなる顔だった。ほとんど皺のない頬の下で、顎の肉だけが二重に垂れている。
今日はほかに二人いた。白い上着の女が台車の横に立ち、紺色のシャツの太った男が外の車に片手を掛けていた。女は信岡と同じくらいの年に見えた。太った男はずっと若かった。
「あと少しだけ待ってもらえますか。返品が出ちゃって」
三村が言うと、ジャンパーの男は、いいよ、と頷いた。女は返事をせず、天井の蛍光灯を見ていた。昼の光が入るので半分消してある。太った男は戸の外に立ったまま、三村の手元へ目を落としていた。
信岡は最後の一箱を開けた。女が近づいてきて、音を聞かせてほしいと言った。
「これは悪いほうです。もう、こんな音しか出ない」
ひびの入った鉢を鳴らした。女は口を少し開けた。茶色のジャンパーの男が、喉の奥で笑った。外の太った男は下を向いている。
信岡は傷のない鉢も鳴らした。女の頬に、歯を噛みしめた時のような窪みが出来た。音が消えるまで、それが戻らなかった。
「なるほどね」
言ったのは土間の男だった。女はまだ口を開けていた。信岡は彼女へ説明したつもりだったので、少し間を置いてから頷いた。
三村が、今日はどうしたんですか、いつもお一人なのに、と訊いた。
男は青い容器の縁を撫でていた。
「ちょっと、離れちゃって」
仕事を分けているという意味だろうか。三村は、そうですか、と答え、信岡の横へ戻った。鉢の底に剥がれた伝票が貼りついていて、それを爪で起こしていた。信岡も、それ以上訊くことを思いつかなかった。
女の前で、細長い破片が動いた。
青い容器の上に出ていた大皿の縁だった。女の袖が触れたのだろうと思った時、反対側の破片も起きた。白いもの、茶色いもの、絵柄のあるものが、ほぼ一緒に薄い側を上へ向けた。隙間へ落ち込む時とは逆だった。
乾いた音が続いた。上の破片がいくつか揺れ、それきり静かになった。
三村が信岡を見た。信岡は女の手を見ていた。両手とも腹の前にあり、容器には触れていない。ジャンパーの男の手も、今は縁から離れていた。
「今日は多いね」
男が言った。三村が振り返って机を見たので、信岡もつられて鉢の数を確かめた。駄目なものは七つだった。最初に戻った十八個を入れても、容器はいっぱいにならない。
「待ってる間に、これも見てもらおうか」
男はジャンパーの袖をまくった。手首から肘まで、色の薄い、毛のほとんどない腕だった。傷は見えない。腕時計の跡もなかった。
「ここね。どうも変な感じがするんだ」
「私は、そういうのは分かりませんよ」
信岡は笑って言った。年配の客から身体の話をされることは珍しくない。立ち仕事は膝にくる、老眼で値札が読めない、という程度の話をしてから帰っていく。相手も診てもらおうとしているわけではない。
だが男は腕を引かなかった。
「さっきのでいいんだよ」
机の鉢へ目を向けた。信岡が持っている傷のないものではなく、脇へ分けた七つを見ていた。
三村が小さく咳をした。朝から空気が乾いていた。信岡も時々、埃で喉が痛くなる。水を飲んでくれば、と言いかけた時、女の頭がすっと下がった。
男が腕を机へ近づけていた。女は膝を伸ばしたままで、頭が自分の肩の高さまで下がっていた。首を縮めたようには見えない。顔の両脇に、白い上着の襟が立っていた。
信岡が椅子から腰を浮かせると、男は腕を少し引いた。女の頭も元の位置へ戻った。
三村は咳を止めていた。信岡が彼女を見ると、彼女もこちらを見た。三村は何も言わず、男の腕へ視線を戻した。
「音だけ聞いてよ」
ジャンパーの男が腕を差し出した。手首が信岡の机の上に載った。布を置くような、ほとんど重さのない載せ方だった。男は笑っている。笑っている口が開いたまま、奥の歯の間に唾の糸が張っていた。
信岡は爪を立てた。客へ失礼にならないよう、ただ一度、軽く触れるつもりだった。三村が何か言ったが、その時にはもう男の腕を弾いていた。
腕からは音がしなかった。
女の口の中で、ちん、と鳴った。
信岡は鉢を置いた。自分が無意識に爪を当てたのかと思ったのだ。音はまだ続いていた。金属の、細い縁を持ったものを叩いた時のように、倉庫の隅へ伸びていった。
外の男が、口を開いた。今度はそこから同じ音がした。女が唇を閉じたあとも、音は切れなかった。
三村が信岡の腕を引いた。
「やめましょう。もう」
彼女は椅子を退けようとしていた。狭い机の間で脚が箱に引っかかり、うまく動かない。信岡が手を貸すと、三村は肩をすくめた。触らないでほしい、と言われたのかと思い、すぐに離した。
ジャンパーの男は腕を眺めていた。指を折るたび、青い容器の中で音がした。細かな破片がいくつも震え、互いに離れず、端から順に持ち上がっていった。
女の膝が曲がった。椅子もないのに座るような姿勢になり、太った男は戸口の上のほうへ手を伸ばした。三人とも、別の動きをしている。女の足が床から浮いた時、外の男の片足が深く沈み、靴底のゴムが横へはみ出した。
信岡は三村を先に通した。机の端に出ている破損品を、いつもの癖で内側へ寄せそうになったが、そのままにした。三村は事務所へ向かっていた。
「お金、そこへ置いといてください」
何のお金か、自分でも分からなかった。引き取り代を払っていたのか、向こうが材料代を置いていたのかも知らなかった。取引先の名さえ分からなかった。先月も男が来て、帰るまで、自分は鉢を鳴らしていた。
ジャンパーの男がこちらを向いた。
「これは、まだ大丈夫かな」
腕を差し出したままだった。信岡は首を振った。分からない、というつもりだったが、男は眉を寄せた。女の口も、同じように端だけが下がった。
「分からないんです。うちは、食器ですから」
三村が事務所の入口で言った。信岡はその声のほうへ歩いた。机の角へ腿をぶつけた。普段なら悪態の一つもつくところだった。痛みを確かめるように、同じ場所を二度、手で押した。
事務所へ入ると、三村が戸を閉めた。ガラス越しに倉庫が見える。二人とも床に屈んだ。
「あの人、何なんですか」
「ずっと来てる人だよ」
「それは聞いてます」
責める調子ではなかった。三村は声を出すたび、音が倉庫へ漏れないか確かめていた。
信岡は、社長に電話をかけた。留守番電話へ切り替わるまで待てず、途中で切った。三村は自分の携帯を握っていた。画面には学童の番号が出ていた。
「行っていいよ。表から」
「信岡さんは」
「一緒に出る」
それで三村は立った。子供のところへ遅れると電話しながら、鞄を肩に掛けた。信岡は机の引き出しから鍵を取った。表の戸を開ける前に振り向くと、倉庫の奥で、女の頭が見えた。棚の上に置いた大皿と同じ高さにあった。横の棚を挟んで、ジャンパーの男の靴がゆっくり動いていた。
二人は向かいの薬局まで歩いた。店先のベンチに座ると、三村は何度か咳き込んだ。信岡は手を伸ばしたが、背中には触れなかった。三村はその手を見て、自分の鞄から水筒を出した。
裏から車が出てきた。運転席には誰もいなかった。見えないのだと思い直しても、窓の向こうの助手席と、その奥にある塀まで、遮るものはなかった。
荷台の横には三人がいた。車の歩みに合わせて、ジャンパーの男と女と太った男が、少しずつ位置を替えていた。タイヤは回っている。誰かが車を押しているようには見えない。三人の足は一度に地面へ着かず、着くたびに、荷台がわずかに傾いた。
信岡は目を伏せた。爪の先に、男の皮膚を弾いた感触が残っていた。硬くも柔らかくもなく、指を下ろした場所が、そのまま少し下がっただけだった。
「あれ、割れてたんですか」
三村に訊かれ、信岡は顔を上げた。車は角を曲がりかけていた。女の片足が、後ろのタイヤよりずっと離れたところに着いた。太った男の頬が地面すれすれまで下がったが、顔は前を向いたままだった。
信岡は耳の奥に残った音を思い返した。傷のない器の音なら、聞き慣れている。ひびのあるものの音も、分かる。さっき女の口から出た音は、よく通る、長い音だった。
三村は信岡の顔を見ていたが、やがて目を落とし、水筒の蓋をゆっくり閉めた。
三村が立ち上がりかけて、また咳をした。水を飲む時に、変なところへ入ったらしい。信岡は背をさすろうとした。彼女はその手を避けず、少しこちらへ身体を寄せた。
三村の肩甲骨が、薄いブラウスを押し上げていた。まだ何も聞いていないのに、信岡は人さし指を曲げていた。鉢の縁を弾く時と同じ形だった。
「もう平気です」
三村が顔を上げた。信岡はまだ、手を下ろせなかった。


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