下宿の流しに、茶色いものが置いてあった。
床を拭くための毛布だと思った。古い毛足が水を吸って寝ており、洗面台と壁の間へ無造作に詰めてある。蛇口は二つあるのに、右の半分がそれで塞がっていた。入居の日に部屋を案内してくれた大家さんは、私がそちらを見ると、左はお湯が出るから、とだけ言った。
病院の給食を作る仕事に就いて、まだ一週間だった。朝四時半に自転車で出られる所を探すと、私の払える家賃ではそこしか残らなかった。四十五になって、下着を洗うたびに部屋から洗剤を持って出る暮らしをするとは思わなかったが、畳は張り替えてあった。敷金も一か月でいい。大家さんは保証人の欄についても急かさなかった。
下宿の借り手は私と、奥の部屋の久保さんだけだった。ほかの二部屋は空いていた。大家さんは廊下でつながった母屋にいて、御飯は各自で、洗面所と風呂だけ一緒に使う。元は大学の下宿が何軒もあった通りだそうで、玄関には裏返した木の看板が残っていた。
久保さんは市場に勤めていて、私より先に出る。顔を合わせるのは夕方だった。三度目に会ったとき、共用の洗面台へ歯ブラシを置いていいか訊くと、棚は空いているでしょう、と返された。
「ここの決まり、分からなくて」
「物が増えるほど人がいないよ」
少し笑ってくれた。その場でコップを持ってきて、棚の端へ置いた。洗面台から湿った獣のような匂いがしたので、私は蛇口を勢いよく開けた。久保さんはその音を聞いてから、右側を見た。
「そっちは使わないの」
「大家さんにも言われました」
「じゃあいいけど」
使わない理由までは聞かなかった。水道屋を呼ぶ余裕のない家なのだと思うと、二人しかいないのに修理を頼むのも申し訳なかった。
仕事に慣れるより先に、早起きには慣れた。起きてしまえば腹も減り、暗い部屋でパンを食べるのが苦ではなくなった。母には、もう落ち着いた、と電話で言った。母は部屋に写真を飾る場所があるかと訊いた。離婚したときに元の妻の所へ置いてきた息子の写真を、母が一枚だけ持っている。送るのはまだいいと答えた。私の所へ本人が来ることになってから頼もうと思っていた。
入居から十日目、大家さんが白内障の手術で家を空けることになった。退院したら娘さんが泊まりに来るものと思っていたが、大家さんの方が、しばらく娘さんの家へ移るという。
鍵の置き場所などを教わったついでに、私は洗面台の毛布を指した。
「あれ、洗っときましょうか」
大家さんは荷物の入った手提げを椅子へ戻した。
「どれ」
「右の。干せる日もあるので」
「ああ、あそこは水をやっておいて。朝でも晩でも、気がついたときに」
花の話のように聞こえた。毛布の下へ植木鉢でも入れてあるのかと見直したが、分からない。大家さんは右の蛇口を開けた。水はきれいに出た。
茶色い毛の間に落ちて、下へ抜けていく。水が流れるにつれ、塊の真ん中がゆっくりへこんだ。大家さんは私のコップを少し左へ寄せ、もうこれくらいでいい、と蛇口を閉めた。
「久保さんに頼んでるんだけど、あの人も朝は忙しいからね。できる人で」
私はうなずいた。水を出すくらいなら面倒ではなかったし、留守中に台所や風呂を好きに使わせてもらうのがありがたかった。
翌朝は忘れた。仕事で煮物の鍋を洗っている最中に思い出し、夕方帰ってから右の蛇口を開けた。茶色い塊は思ったより大きかった。底だけでなく、洗面台の縁を越えて壁の方へ盛り上がっている。細い流れを当てると、毛が左右へ分かれた。
そこで鼻の穴を見つけた。
初めは穴のあいたゴムだと思った。丸くはなく、縦に長い。縁に短い毛が生えていて、水が触れると縮んだ。二つあった。私は蛇口から手を離して一歩下がった。
馬の鼻だった。
競馬場へ行ったことはない。それでも馬だと思った。上唇が厚く垂れ、その先だけに黒い毛がまばらに生えている。流しの上で鼻を横に向け、口を水の下へ寄せていた。水が白い歯の間を通るところも見えた。毛布だと思っていたもののうち、どこまでが鼻で、どこからが顔なのかは、照明の下でもはっきりしなかった。
何より、頭の続きが見つからなかった。洗面台の縁から右へ三十センチも行けば壁だった。馬の目があるはずの所も、首も、白いタイルで塞がっていた。タイルには何もぶつかっていない。ただ、濡れた毛だけが、その手前へ続いている。
水を飲んでいたものが、鼻を持ち上げた。私は廊下へ出た。自分のコップを取りに戻ることもできず、蛇口を開けたまま久保さんの戸を叩いた。
久保さんは寝ていた。市場から戻ると先に眠る人だと知っていたのに、何度も叩いた。
「馬がいるんです」
そう言った私の顔を見て、久保さんは洗面所へ行った。
彼は入口で立ち止まり、茶色い塊へ目を向けた。驚く様子はなかったが、慣れた手つきで触ったりもしない。左の洗面台へ片手をついて、身体を斜めにし、遠くから右の蛇口だけを閉めた。
「水、ずっと出しておくと大家さんに言われるよ」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
久保さんは自分の部屋へ戻りかけて、足を止めた。
「ここへ来たときから?」
私は訊いた。
「あったよ」
「どこから来るんですか」
「分からない。馬なのかも、俺は分からない」
寝癖のついた後頭部を掻きながら言われると、私が馬だと言い切ったことの方が妙に感じられた。だが、あの鼻以外の呼び方を思いつけなかった。
娘さんの家へ電話をかけた。大家さんは病院にいて、その日は話せなかった。娘さんに馬のことを説明するのはためらわれ、洗面所で何か飼っているのかと聞いた。
「生き物ですか。母はもう、世話はできないと思いますけど」
娘さんは本当に何も知らないようだった。
「何でしたら、使わない方は物置にしているのかもしれません。勝手に片づけて大丈夫ですから」
私は片づけられない物だと言いかけ、黙った。娘さんは、汚かったですか、と気にしていた。まだ住み始めたばかりなので、と答えた自分の声が情けなかった。
その晩は風呂へ行くのをやめた。顔も歯も台所で洗った。右の流しを見なければ済むと思いたかったが、真ん中を通らなければ風呂にも便所にも行けない。洗面所に戸はなく、暖簾を掛けられるような枠もなかった。
夜中、目が覚めたとき、廊下で硬いものを噛む音がしていた。
一定の調子ではない。奥歯で飴を砕いているように二度続いて、そのあとは長く止まる。水を出す音はしなかった。私は布団を廊下と反対側へ寄せた。音の方へ頭を向けないように寝直してから、戸の鍵を掛けたかどうか思い出せなくなった。
確かめに立つと、隙間から光が入っていた。共用の灯りはつけたままにしてある。自分の影が近づいたところで、噛む音がやんだ。
戸のすぐ向こうで、鼻から長い息を出した。
馬がこちらへ来たのだと思った。錠には手をかけず、そのまま退いた。光は遮られていなかった。畳に足を揃え、息をひそめていると、廊下の奥で久保さんが戸を開ける音がした。
「起きてるの」
私に言ったのかと思って、はい、と答えそうになった。久保さんは何も言わず便所へ入った。水を流し、私の戸の前を通って部屋へ戻った。その間、私のすぐ前で鼻息がしていた。久保さんの足音が戸の前を通っても、鼻息は同じ所で続いていた。
翌日、仕事から帰った私は、靴を脱がずに久保さんを呼んだ。
「昨日、廊下で見ましたか」
「何を」
「流しにいるのが、こっちまで来たんです」
「水やった人のとこへ来ることはあるよ」
顔を上げられなかった。私だけ知らずに水を飲ませたのか、と思った。久保さんにも大家さんにも、なぜ先に言ってくれなかったのかと腹が立った。
「俺も水はやってるよ」
その顔を見て久保さんは言った。
「でも、あれを喜んでるとは思わないで」
久保さんは小さな部屋の鍵を掌で鳴らした。私のよりも角が丸く、青い札には番号が読めなかった。
以前は大家さんが毎晩、水を出していたらしい。腰を悪くしてからは、久保さんにも頼むようになった。部屋へ来るのを話したら、お礼に来たんでしょう、と大家さんは言ったという。
「俺には、お礼かどうかは分からないんだよ。あの人は何でも、そう言うけどさ」
それから二日、私は水をやらなかった。久保さんが帰ったあと蛇口の音がし、右の鼻が濡れていた。深夜に戸口で鼻息がしても、私の部屋の鍵は動かなかった。怖くて堪らないのに朝には出勤できた。帰れば弁当を食べて眠れた。洗面台を使わない分だけ、私は台所の流しを毎日磨いた。
大家さんから電話が来たのは、その次の金曜日だった。片目の手術は終わったが、目薬を間違えるから娘が帰してくれない、と笑っていた。
私は水の話をした。馬の頭が見えること、夜には部屋の前まで来ることを、言い損ねないように紙へ書いておいた。
「そう。あなたのところへも行ったの」
大家さんは、そこだけを嬉しそうに言った。
「ちょっと、それは困るんです」
「何もしないわよ。長いこといるけど」
「頭しかないじゃないですか」
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。
「私、頭は見たことないのよ」
大家さんはゆっくり言った。どういう意味か訊くと、洗面所にいるのは尻の方だという。しっぽが濡れるのを嫌がるから、根元を避けて水を掛けるのだ、と。
私は電話を持ったまま廊下へ出た。右の流しの上に、茶色い塊があった。上唇が動き、白い歯が見えた。噛む音は聞こえない。首の続くはずのタイルの目地は、昼の光で一本ずつ数えられた。
「久保さんに、頭はどこって訊いたことがあるの。あの人、見にいってくれなくて」
私は携帯を耳から離した。大家さんの声が細くなって、もしもし、と繰り返した。
電話を切ったあと、久保さんが帰るまで玄関の外にいた。
彼は私を見つけると、買ってきた総菜の袋を隣へ置いた。大家さんに言われたことを話すと、久保さんは膝に両手を置いて聞いた。途中で止めもしなければ、違うとも言わなかった。
「頭、探したんですか」
「探してない」
はっきりした返事だった。
久保さんは総菜の袋を持ち直し、私の靴を見た。部屋へ戻るのかを待っているようだった。私は一緒には入らず、職場の人へ電話をかけた。今晩だけ寝られる所がないかと訊いた。六十を過ぎた同僚は、訳はあとでいいから、おいでと言ってくれた。
着替えを取りに上がった。久保さんは洗面所に立ち、左の蛇口で手を洗っていた。右では、白い歯が水気を含んで光っている。私は部屋の戸を開けた。
畳の上へ鼻の影が落ちていた。
戸口には何もいなかった。自分の影は開いた戸に重なっていた。畳の方の影には、二つの鼻の穴が明るく抜けていた。布団まで続く長い輪郭を目で追うと、枕の手前に、私が昨夜まで頭を置いていた形の窪みがあった。
枕の窪みが、ほんの少し深くなった。鼻から息を抜く音がして、布団の縁に落ちていたティッシュが畳を滑った。戸口の私より、部屋の奥で鳴っていた。
私は仕事鞄だけを取った。久保さんが水を止めて振り向いたので、布団も服も置いていく、と言った。残りの家賃は払います、と続けた。返してもらう話を始めたら、片づけに来る日を約束しなければならなくなる気がした。
久保さんは私の戸を閉めなかった。
玄関で靴を履くと、彼が後ろから、小野さん、と私の名を呼んだ。引き止められると思って立ったまま振り返った。
「部屋を空けたって、俺から言っておこうか」
「まだ、言わないでください」
久保さんはうなずきかけて、私の後ろへ目を向けた。玄関の上がり框で、濡れた口をこすり合わせる音がした。私は鞄の底を抱え、久保さんの返事を待たずに表へ出た。


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