佐伯さんが煙草を吸ったとき、私の口から煙が出た。
それまで私たちは、灰皿を挟んで立っていた。佐伯さんは隣の会社の人で、名刺を交換したことはない。喫煙所に来る時間が近く、先週は降り出した雨の話をした。名字は、彼を迎えに来た人が呼んだので覚えていた。私の名字を向こうが知っていたかは分からない。
ビルの裏庭に、硝子で囲った喫煙所があった。四人入れば狭い。天井の換気扇はうるさく、扉を開けていると警備の人に閉めるよう注意された。昼休みには待つ人がいたが、五時を過ぎると空いていた。
その日も私は仕事を少し残し、一本だけ吸うつもりで降りた。翌週の健康診断が近かった。何週間か前から量を減らしていたが、一本を断つより、一本のために席を立てなくなることが嫌だった。
佐伯さんが先にいて、もう一人、黒いベストの女の人が壁際にいた。飲食店の従業員らしかった。女の人は両手で紙コップを持ち、煙草を吸ってはいなかった。
「どうぞ」
佐伯さんが灰皿の前を空けた。私は火をつけた。何も変わったことはなかった。安いライターの車輪に爪が滑り、二回やり直したくらいだった。
二口目を吸おうとしたとき、佐伯さんが長く息を吐いた。
煙は出なかった。
代わりに、私の舌の奥が苦くなった。唇を開くと、白い煙が一筋出た。自分の煙草から出たものだと思った。持つ手を下げ、もう一度息を吐いた。煙は止まらなかった。
「そっち、強いの吸ってますね」
佐伯さんは笑った。私は口を押さえた。
「今、吸ってないんですけど」
「そうですか」
彼はあまり聞いていなかった。携帯の画面を見て、眉を寄せていた。仕事の連絡でも来ていたのだろう。煙草を灰皿の縁へ載せたが、吸殻を落とす穴へは入れず、火のついた先を外へ向けた。
私は自分の一本を消した。
女の人がコップを潰すように握った。薄茶色の飲み物が蓋の隙間から出て、ベストへ垂れた。
「あの」
声を掛けると、彼女は顔を伏せたまま、少し待ってください、と言った。接客するときの声だった。私も癖で待った。具合の悪い人に何を待たされるのか、考えもしなかった。
喫煙所には背もたれのない椅子が二つあった。私は一つを彼女のほうへ寄せた。座ってもらおうとしただけだった。椅子の脚が靴に触れると、彼女の背中が大きく膨らんだ。
風が入ったように、ベストの裾が持ち上がった。
私は背中に何か挟まっているのかと思った。見れば分かるくらいの厚みだった。女の人の身体が前へ押され、コップの縁が硝子へ当たった。
佐伯さんは携帯を仕舞った。
「大丈夫ですか」
いつもの軽い声ではなかった。彼が女の人へ近づいたとき、私の胸が勝手に広がった。肋骨の下を両側から持ち上げられたようだった。息を吸っていないのに、腹へ空気が入ってきた。喉を閉じようとすると耳が詰まり、目の縁が痛くなった。
女の人の背中が、ゆっくり凹んだ。
私もようやく息を吐けた。
換気扇は回っていた。高い唸りが硝子を震わせていた。佐伯さんは扉を開け、外へ出ましょう、と言った。女の人は動かなかった。
「店が」
「お店の人、呼びますから」
「もう、戻ってます」
そこで彼女は顔を上げた。
目が合わなかった。片目は私を見て、片目は扉の外を見ていた。どちらの瞳も、困ったように揺れていた。唇の間から、短い息が一つ出た。それで肩が下がったかと思うと、また別の息が出た。肩はもう動いていなかった。胸も動かず、口だけで吐いていた。
私の左の肩甲骨が、上着の内側から押された。
佐伯さんが女の人の腕を支えた。
私にも手を出すよう目で頼んだ。私は動けなかった。背中の内側を、親指の腹のようなものが滑った。肩の骨を確かめ、脇へ曲がり、私の腕に沿って下りてきた。
上着の袖が肘で突っ張った。
袖の中に私の腕がもう一本あるようだった。
佐伯さんが突然、膝をついた。支えられていた女の人は倒れず、少し背を反らした。彼女の背中から、佐伯さんの頬が出ていた。
顔の形に服が膨らんでいるのではなかった。黒いベストの脇の縫い目に、人の頬が挟まっていた。髭を剃ったあとの青い皮膚が見えた。佐伯さん自身は床にいて、歯を食いしばっていた。
上の頬も、同じように食いしばった。
私は扉の縁を握った。半分だけ外へ出た。
助けてくださいと叫んだつもりだったが、息だけが出た。女の人の口から、私の声がした。
「あ、あの」
彼女はそれを嫌がり、両手で口を塞いだ。紙コップが落ちた。足元へ広がった珈琲の表面が、何度も盛り上がった。泡ではなかった。下から鼻がついたように、二つの小さな穴が開いた。
庭の向こうを警備員が歩いていた。私は腕を振った。
こちらに気づいて、足を速めた。私はもう一度声を出した。今度はちゃんと自分の口から出た。
「救急車を。二人、倒れそうです」
二人なのか分からなかった。中には二人いた。だが佐伯さんのシャツの腹にも、女の人のベストの肩にも、顔があった。額の出方も、鼻の高さも違っていた。
警備員が入口へ来た。濡れた床を見て、女の人へ手を伸ばした。
私はその腕をつかんでしまった。
「待って」
警備員は私を見た。その向こうで佐伯さんが助けを求めていた。私が止めれば、誰が彼を起こすのか。
私は腕を離した。何を見たか説明しようとした。頬が、と言ったところで、自分でも分からなくなった。
「背中に、誰かいます」
警備員は中を見た。短く息を吸った。無線機を口へ当て、救急要請を頼んだ。
女の人が扉を向いた。腕が動かないらしく、肩から歩こうとした。佐伯さんはその足元に座り込んでいた。彼女を通すため、膝を抱えた。そういう、いつもの喫煙所でするような遠慮が、ひどく長くかかった。
私は戸を押さえた。
女の人は自分で一歩出た。背中に人の形をいくつも載せていた。みんな彼女の首へ顔を寄せ、口を開けていた。硝子の角に肩が擦れると、低い声で一斉に謝った。
外へ出たとたん、女の人は膝を折った。警備員が受け止めた。私も屈んだが、触れる場所がなかった。
背中の顔は見えなくなっていた。ベストは珈琲で濡れ、普通の服に戻っていた。けれど彼女の息は止まらなかった。一度吸うと、五回も六回も吐いた。そのあいだ口を閉じられず、唾液を飲めずにいた。
私は鞄からタオルを出し、顎の下へ当てた。彼女は目だけで礼を言った。
佐伯さんは四つ這いで入口へ来た。私が手を差し出すと、彼は自分の手を見て、首を振った。
「持ってるから」
何も持っていなかった。両方とも開いた手だった。
「離せない」
彼はそう言い直した。掌の中央に、指の跡が五つずつあった。爪の跡ではなく、内側から押している指の丸みだった。
救急車が来るまで、私は彼の横へ座っていた。自分の息を数えようとしたが、途中で分からなくなった。佐伯さんも何かを数えていた。互いに数字を尋ねなかった。
女の人の店から責任者が来た。今日は休みのはずだと言っていた。電話すると本人が出たという。その責任者を、女の人は知らない人を見る目で見た。
担架は二台来た。
佐伯さんは乗る直前、灰皿の縁を指した。火を消していなかったのを思い出したのだろう。警備員が中へ入り、水を掛けた。
私は声を掛けなかった。煙草の先が赤く光っていた。あれだけ時間が経ったのに、佐伯さんが置いたときとほとんど同じ長さだった。水が触れると、誰かが長く鼻を鳴らした。
喫煙所はそのまま使用禁止になった。床に珈琲が広がっているので清掃も頼むと、警備員が電話で話していた。
私は名前と電話番号を伝えた。会社へ戻ると、残っていた仕事は別の人が片づけてくれていた。何があったか聞かれ、具合の悪い人がいた、と答えた。自分の上着の肘が伸びていたので、袖を捲ったまま帰った。
翌朝、佐伯さんから電話が来た。警備会社に私の連絡先を教えてもらったそうだった。検査では分からず、一晩様子を見て帰されたと言った。
「昨日、僕は何本吸いましたっけ」
私は一本だと答えた。
「ですよね」
それきり黙った。私も何を聞けばいいか分からなかった。礼を言い合って電話を切った。女の人のことは、二人とも尋ねなかった。
昼休みに裏庭へ出た。喫煙所の硝子には紙が貼られ、換気扇も止まっていた。中はきれいになっていた。椅子が二つ並び、灰皿の縁も乾いていた。
私は入口まで行かなかった。
硝子が一度、内側へ撓んだ。
四枚の壁が同時に細くなり、それからゆっくり膨らんだ。大きな胸が、ようやく一本吸い終わったあとの息を吐いていた。


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