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床屋の四番椅子

四番の椅子は、叔父しか使わせてもらえなかった。
客が多い土曜日でも、そこだけ空いていた。古くて背もたれがきしむからだと聞いていたが、私の使う二番のほうが、よほど具合は悪かった。足踏みの台を何度押しても上がらず、途中で急に跳ねる。客には私が下手なのだと思われた。

理容師になって三年目、勤め先が閉まり、次が決まるまでのつもりで叔父の店を手伝った。父の兄だった。昔は腕がよかった人で、今でも、あそこへ行くと十年若くなる、と年配の客が言った。髪が残っている人の言い草だ。若い私は、そんなふうに聞いていた。

四番を使う客は、いつも月曜の昼に来た。月曜は休みだが、叔父はその人だけ入れた。私は隣の建物の二階を借りていたから、店が開いていれば分かった。カーテンを引いたガラス戸の内側に、長い革靴が揃えてあった。ほかの客には脱がせない靴だった。

ある月曜、叔父が病院の検査から戻れなくなった。大事な検査だと前から言っていたのに、予約を変える電話はしなかったらしい。昼過ぎに連絡が来て、客が来たら待っていてもらえ、と頼まれた。顔を剃るなよ、と二度言われた。
私は、髪だけなら、と返した。
叔父は黙り、それから、鋏も持つな、と言った。

客はもう来ていた。戸の前で傘を畳んでいた。七十くらいの男で、頬が丸く、鼻の下だけ少し青かった。私を見ると、先生は、と聞いた。店で叔父を先生と呼ぶ人を初めて見た。
遅れますと伝えると、いいですよ、と笑った。怒らなかったので、私は少しほっとした。

男は靴を脱ぎ、四番の椅子へ座った。私が待合の椅子を勧めると、こちらが落ち着くので、と言った。古い椅子の肘掛けを撫で、店の中を見回した。壁に貼った定休日の紙のところで、目を止めた。
「字が変わったね」
私が書き直した紙だった。若い人がいると違うねえ、と続けた。

お茶を出すため奥へ行くと、タオル棚の端に、見慣れない箱があった。叔父の道具箱だった。いつもは鍵を掛けてある。今日は蓋が少し開いていて、中に古い髭剃りの刃と、小さな手鏡が見えた。手鏡の縁が、肌へ直接当て続けたように黒くなっていた。

男はお茶を飲まなかった。椅子を倒さず、鏡へ向けて顎を上げた。首の皮膚が張り、耳の下に小さな傷が見えた。
「ここだけ、残しちゃったんだよ」
家で剃ったのだという。指で示したところに、白い髭が数本あった。私は、叔父が戻ってから、と言った。
男はすぐに頷いた。急かすようなことは何も言わなかった。

それが、かえって気になった。
叔父が病院へ行ったというのに、休みの店に来て一時間も座っている。顔を剃るだけなら、私にもできる。叔父が何を心配しているのか分からなかった。客を任せられないと思われていることが、悔しかった。

私は男の首へタオルを巻いた。髪を濡らしたりはしない。耳の下を少し整えるだけ。男は何も言わずに目を閉じた。
鏡の中では、開けていた。

そのときは見間違いだと思った。客は目を閉じたり開けたりする。自分の顔を確かめたい人もいれば、眠りたい人もいる。私は鏡を見ず、手元の白い髭だけを見た。刃を当てる前に、男が小さく笑った。
鼻から息が漏れただけのような笑いだった。

一番の椅子がきしんだ。
誰も座っていない椅子だった。背もたれに掛けていた白い布が、肩の形に膨らんだ。私は刃を離した。男は、どうしたの、と目を閉じたまま聞いた。
そのすぐ隣の鏡で、若い女がこちらを見ていた。

女は一番の椅子に座っていた。髪を短く刈り、白い布を首へ巻かれていた。頬に細い傷があり、そこから血が下りていた。私は鏡から目を離し、実際の椅子を見た。布は膨らんでいたが、人はいなかった。

持っていた刃に、赤い筋がついていた。
男の顔には傷がなかった。私の手にも、血は出ていなかった。私は道具を盆へ置き、男の首からタオルを外そうとした。男が私の手首へ手を重ねた。
「途中でやめると、痒くなるんだ」

力は強くなかった。けれど、老人の手を振り払うには、思っていたより決心が必要だった。私は手を引いた。男はすぐ離した。その間、鏡の中の女は、私と同じ場所に手首を押さえていた。

叔父へ電話した。何をしたか言う前に、剃ったのか、と聞かれた。私は、まだほとんど、と答えた。叔父は罵らなかった。今から帰る、それまで鏡へ布を掛けろと言った。電話の向こうで看護師らしい人が何かを言っていた。叔父は、すみません、を繰り返し、通話を切った。

私は一番の鏡へタオルを掛けた。
女が布の下へ手を差し入れたように見えた。見えなくなった瞬間、二番の椅子が動いた。いつも上がらない椅子が、誰も足元を踏んでいないのに、高くなった。鏡の中では、さっきの女がそこへ移っていた。

今度は私の顔をしていた。

四番の男は、目を閉じて座っていた。頬の丸さが減っていた。最初に見たときより顎が細く、耳の下の皮膚が張っていた。髭を数本剃るだけで変わるはずがなかった。鏡の中の私の頬には、男のような丸い膨らみがついていた。

私は店の外へ出た。裸足の男を店へ残して逃げたのだ。戸を閉め、歩道へ出ると、自分の頬を触った。いつもの顔だった。触れるかぎりは。携帯の画面を鏡に使おうとしたが、黒い画面を見るのが怖くなり、鞄へ戻した。

中から客が私を呼んだ。
私は返事をしなかった。呼ばれたのは私の名前ではなかった。叔父の名前だった。四番の椅子の鏡には、いつのまにか、若いころの叔父が立っていた。写真で見たことがある。髪を後ろへ撫でつけ、客の顔を剃っている顔だった。

叔父はタクシーで帰ってきた。片腕に止血の絆創膏が貼られていた。私を見ると、家へ上がれと言った。私は首を振った。自分が何をしたか、見ないで済ませたくなかった。そういう立派な気持ちばかりでもない。店を出ても、頬の皮膚が少しずつ重くなっていた。

叔父は男に、遅くなりました、と頭を下げた。男は、いいよ、と答えた。
「若い人に、少しやってもらった」
叔父は私を見ず、分かっていますと言った。道具箱から、あの古い手鏡を出した。鏡面を客へ向けず、自分の顔へ当てた。叔父の喉が動いた。

私には見せようとしなかったが、端から、老人の顔が見えた。叔父よりずっと年を取っていた。目の周りが深く落ち、唇をなくした口が、何かを噛み続けていた。叔父は手鏡を伏せ、使い終えた刃を一本選んだ。

「それで剃るの」
私が聞くと、叔父は、剃らない、と答えた。

男の首のタオルを外し、椅子を起こした。今日は場所を替えましょうと言った。男は初めて嫌な顔をした。靴下を履いた足を、椅子の足台へ引き寄せた。叔父が手を差し出しても、肘掛けから離れなかった。
一番と二番と三番の椅子が、同時にきしんだ。

叔父はその音を聞き、深く息を吐いた。
「私が座ります」

男が叔父を見た。鏡の中では、まだ若い叔父が、男の頬へ刃を当てていた。実際の叔父は両手を見せ、四番の足元へ立った。
「もう、ほかの人のを使わない」
男は少し考え、それから、椅子を降りた。

叔父が座ると、白いタオルの形が肩へ馴染んだ。何十年もその場所で他人にしてきた姿勢を、自分で取った。男は叔父の顎を指で上げた。手鏡を開き、叔父の膝へ載せた。叔父は鏡を見なかった。
私は男の腕をつかもうとした。叔父が首を振った。

「お前のは、まだ浅い」

一番の鏡に、最初の女が戻っていた。頬の傷は塞がり、口元へ手を当てていた。二番には私がいた。三番には、私の知らない若い男が座っていた。三人とも、白い布を首へ巻かれていた。男が叔父の頬へ指を滑らせると、その三人の顔から、少しずつ余分なものが剥がれた。

刃は使っていなかった。
男は親指の腹で、叔父の顔を撫でていた。皮膚の表面を擦るたび、爪の際へ白いものが溜まった。髭に見えたが、叔父の頬には髭がなかった。目尻が下がり、頬の肉が落ち、首の筋が強く浮いてきた。

私は蒸しタオルを作った。何かしなければと思った。叔父の店で教わったとおりのことしかできなかった。男の手の下へ差し出すと、男は受け取り、顔を拭いた。拭いたのは自分の顔だった。
タオルの中で、誰かが咳をした。

男が帰るころには、三つの鏡には空の椅子だけが映っていた。叔父は四番に座ったまま、両手を膝へ置いていた。客は料金を払おうとした。叔父が要りませんと言うと、男は気まずそうに笑った。長い靴を履き、傘を取った。
帰るとき、少し足を引きずっていた。

戸を閉めてから、私は叔父の顔を拭いた。叔父は何度も、もういい、と言った。それでも、耳の下に残る白いものを取らずにはいられなかった。白髪だった。さっきまで黒かったところから、抜いても抜いても、白い毛が指へついた。

病院にはその日のうちに戻った。検査の途中で出てきたことを叱られ、叔父は何も言い返さなかった。私が受付で書類を書いているあいだ、叔父は椅子へ座り、壁を見ていた。待合のガラスに顔が映らない位置を選んでいた。

店へ戻ったのは一週間後だった。
叔父は四番の前の鏡を外した。私が手伝おうとすると、重くないから、と断った。裏返された鏡の銀色の面に、細い爪の傷がいくつもついていた。表からは見えない傷だった。人の顔の輪郭が、少なくとも十人分は重なっていた。

叔父は昔から、顔剃りがうまいと言われてきた。客が十年若くなると褒めるたび、嬉しかったのだと思う。そのために何をしていたのか、私は詳しくは聞かなかった。聞かなくても、あの三つの椅子のことは分かる気がした。
叔父も、腕の話をしなくなった。

今、店の椅子は三つある。
四番は背もたれを外し、奥の物置へ入れた。叔父は店へ出ると、まずそこに腰を掛ける。顔剃りの刃は持たない。私が客の髭を剃り始めると、奥で一度だけ椅子が鳴ることがある。

その音がしたら、私は手を止める。
客には、タオルを替えますねと言う。新しいタオルを取りに行くと、叔父が耳の下を押さえている。指の隙間から細い血が流れていても、何も言わない。私は濡らしたガーゼを渡し、止まるのを待つ。

叔父の顔に傷をつけず、客の顔を剃り終えられる日もある。
そういう日だけ、帰り際に、上手になったな、と叔父が言う。私は、まだだよ、と答える。

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