水曜日の夕飯は、二人で食べることにしていた。
守れない週もあったが、決まりがなければ、いつまでも別々に食べてしまう。私が早番の日は夫が遅番で、夫の休みには私が働いていた。結婚して十四年もたつと、それを寂しいと口に出すのも、相手を責めているようで面倒だった。
夫は水曜になると、何か買って帰った。刺身だったり、焼き鳥だったり、私がもう同じものを用意していて、食べ切れなくなることもあった。余ったから翌日に回す、それだけのことなのに、二人でいる日だけ冷蔵庫がいっぱいになるのが嬉しかった。
最初に変だと思ったのは、夫が煮物の匂いを嗅いだ日だった。
私はまだ帰宅したばかりで、台所には朝のコップしかなかった。夫は玄関で靴を脱ぎながら、今日は大根か、と言った。私は作っていないと答えた。換気扇を通って隣の匂いが入ったのだろう。その日は買ってきた餃子を焼いた。
翌週、私は大根を煮た。安かったので一本買い、半分を使った。夫は鍋を覗き、これ、先週のだ、と言った。先週は餃子だったでしょうと返すと、食べたものではなく匂いだという。
そんなの同じような匂いでしょう、と私は笑った。
「同じじゃないんだよ。焦がした葱みたいなのが、最後にくる」
大根を煮る前、私は鍋底に残っていた葱を少し焦がしていた。洗い直そうか迷い、面倒でそのまま肉と大根を入れた。夫には話していなかった。
私は鍋の蓋を閉め、焦げの匂いがするのは今でしょう、と答えた。夫は、そうかもな、と言って、それ以上は続けなかった。
夢の話を聞いたのは、その夕飯のあとだった。
夫はこのごろ、同じ家で食事をする夢を見るという。家の中にはいつも女が一人いて、鍋を洗っている。顔は見えない。夫が席へ座ると、女は背中を向けたまま、今日は水曜日ですから、と言う。
夢の中の夫は、夫ではなかった。
背が低く、手が小さく、箸の持ち方も違う。けれど、それをおかしいと思わずに食べている。起きてから自分の手を見ると、急に太くなった気がして驚くのだという。
私は、子供のころの夢じゃない、と聞いた。夫は首を振った。食卓が低く感じるので、大人だということだけは分かるらしかった。
私も夢を見ていた。
狭い台所に立ち、誰かのために料理をしている。包丁を持つ手には、指輪を抜いた跡があった。私は仕事中に指輪を外すので、夢の中でもそうしているのだと思っていた。けれど夫の話を聞いてから思い返すと、指は私のものより太く、爪の形も四角かった。
二人で同じ台所を見ているのか、少し盛り上がった。薄緑の壁。窓の代わりに、流しの上へ貼られた風景写真。床に落ちている赤い洗濯ばさみ。夫は食卓から見えたものを言い、私は鍋の前から見えたものを言った。
同じ物の名前が出るたび、二人とも声が大きくなった。
写真の中身だけは合わなかった。
私には、橋の架かった川に見えた。夫は、何人かの人が並んでいると言った。遠くから見ているからでしょう、と私が言うと、夫は食卓が流しのすぐ横にあることを教えた。私の夢の台所には、食卓がなかった。
その話は、そこでやめた。遅い時間だったし、夢を細かく比べていると、合わないところが怖くなってきた。寝る前、夫は冷蔵庫に残りの煮物を入れた。蓋を持った手を、しばらく見つめていた。
「今、指が足りないと思った」
笑って言ったが、私は笑えなかった。
次の水曜の朝、台所のカレンダーに字が書いてあった。
献立を決めたときに余白へ書く癖は私にもある。だが、いつもの丸い字ではなかった。細く角張った字で、「白いもの、よく煮る」と書いてあった。その下に、私の字で、もう柔らかい、と書き足してあった。
私はカレンダーを外した。夫はまだ寝ていた。起こして聞くと、自分は書いていないと言った。私も、書いた記憶はない。夢の中で誰かに書かれた、などとは言いたくなかった。二人とも疲れているのだと決め、紙を折って引き出しへ入れた。
夕方、夫が鮮魚店で鰤のあらを買ってきた。
安かったから、と言った。私はカレンダーの字を思い出したが、大根も残っているし、ちょうどいいと思った。鍋に入れた魚の骨は太く、切り口が白かった。水を張ると、骨の端から小さな気泡が何度も出た。
夫は風呂へ入り、そのあとソファで眠った。私は煮物を作りながら、鍋の前で一瞬眠った。立ったまま眠るのは初めてだった。顔が下へ落ち、目を開けると、目の前の壁が薄緑になっていた。
自分の家の台所ではなかった。
けれど手の中の箸は、いつもの菜箸だった。私は火を止めようとした。つまみが見つからない。鍋の下は暗い穴になっていて、穴の奥で何かが赤く動いていた。炎とは違う、濡れたものの赤さだった。
右のほうから、夫が私を呼んだ。
そこに食卓があった。低い椅子に、知らない男が座っていた。小柄な、髪の薄い男だった。箸を持ち、皿を前に置いていた。その男が夫の声で、今日は水曜日だろ、と言った。
私は答えなかった。鍋の中を見た。白いものが煮えていた。魚の骨ではなかった。丸い節があり、曲がったところに皮膚の皺があった。何の部位なのかが分かりそうになり、私は箸を抜いた。
食卓の男が、自分の右手を見た。
小指がなかった。切り口は塞がっていて、昔からそうだったように平らだった。男は残った四本を動かし、私へ笑いかけた。
「さっきまであったと思うんだけど」
そこで目が覚めた。
鍋は私の家の鍋で、火は消えていた。夫が背中へ手を置いていた。お前、何してる、と言った。私が鍋の前で眠りこけていたのだという。私は夫の右手をつかんだ。小指はあった。爪も関節も、結婚指輪の隣の指も、全部あった。
夫は笑わなかった。
「俺、鍋に手を入れる夢を見た」
私が指のことを言うと、夫は、違う、手を洗ってただけだ、と言い直した。二人で目を合わせた。どちらの言葉を先に言ったか、そこでもう揉めそうになった。
煮物は捨てた。鍋からごみ袋へ移すあいだ、夫に横へいてもらった。骨の形を確かめたくなかった。袋は重く、夫が持ち上げると、底に小さな丸い突起が五つ並んだ。夫はそれを見て、持つ手を変えた。
私たちはその晩、何も食べなかった。
翌朝、ごみ袋はなくなっていた。夫が収集所へ出したのだと思った。夫も、私が出したと思っていた。空の鍋は流しに伏せてあり、骨を洗ったあとのような白い粉が、排水口の網に溜まっていた。私は割り箸で取り、紙へ包んだ。
それから一週間、私たちは鍋を使わなかった。
外で食べたり、弁当を買ったりした。眠るのが怖くて、二人でテレビをつけて夜を越した日もあった。どちらかが先に眠れば、もう一人は起こす。三日もすると、声を掛けても起きられなくなった。起きたほうが怒り、起こしたほうも怒った。
私はあの台所へ行かなかった。
夫だけが、毎晩食卓へ座った。女が鍋を洗う音を聞きながら、皿が出るのを待つ。起きるとひどく腹が空くのに、何を食べても味がしないと言った。病院で相談することも決めた。予約は翌週の月曜になった。
次の水曜日、夫が仕事を休んだ。
私が帰ると、食卓へ座り、空の皿を前に置いていた。冷蔵庫を開けていなかった。弁当を渡しても箸をつけず、今日は煮ないのか、と聞いた。
夫の右手の小指が、短くなっていた。
爪は残っていた。関節が一つなくなり、指全体が手のひらへ押しこまれたようだった。夫は私の視線に気づき、手を膝へ下ろした。何時からと聞いても、分からないと言った。
「夢の中だと、もうないんだよ」
私は救急相談に電話した。指の形が変わった、痛みはない、いつからか分からない。その説明をしているあいだ、夫は眠り始めた。私は肩を揺すった。夫は起きず、食卓の縁へ顎を載せた。その口から、低い女の声が出た。
「まだ洗ってる」
私は空の鍋を火に掛けた。
相談の電話を切ったのは私だ。今から受診してと言われたことも覚えている。行くつもりだった。ただ、その前に夫を起こさなければならなかった。水を入れ、残っていた大根を切った。白いものをよく煮る。あの字の通りにすれば、向こうの食事が終わる気がした。
煮立つまで、私は夫の名前を呼び続けた。夫は自分の椅子に座っていたが、影だけが少し低かった。子供用の椅子に座った人の影だった。指先が皿の上を探り、ときどき、爪が陶器へ当たった。
鍋が沸いたとたん、台所が変わった。
壁は薄緑で、流しの上に写真があった。今度は、写真に何が写っているか分かった。橋の欄干の前に、人が何人も並んでいた。川を見ているのではなかった。全員が、こちらを向いて口を開けていた。
食卓に小柄な男が座っていた。夫の声で、帰りたい、と言った。私は鍋の大根を皿へ盛った。男は食べなかった。右手には、親指と人差し指しか残っていなかった。
「これじゃないって、分かってる」
流しの前に、女が立っていた。
私ではなかった。背中が大きく、太い指で鍋を洗っていた。抜いた指輪の跡が、左手に白く残っていた。女が振り向くと、そこに夫の顔があった。今の顔ではなく、結婚したころの若い顔だった。
女は私へ菜箸を渡そうとした。
私は受け取らなかった。
鍋の中から大根をつかみ、皿へ戻した。熱くなかった。指の下で、大根の表面が爪のように硬くなった。私は鍋ごと持ち上げ、食卓へ置いた。女が手を止めた。小柄な男がこちらを見た。
「食べるなら、二人で食べて」
私はそう言った。いつも水曜に言っていたことだった。先に食べないで、待っていて。そんなつまらない頼み事しか、ほかに言葉が出なかった。
女が椅子へ座った。
小柄な男と向き合い、二人で鍋を覗いた。私は二人の顔を見ないようにして、食卓の下へ手を入れた。夫の靴下があった。いつも踵に毛玉のできる紺色の靴下だった。足首を握り、引いた。
重かった。椅子の脚に夫の肩が当たり、食器が跳ねた。私はもう一度引いた。女が箸を置く音がした。見上げると、二人とも私を見ていた。二人とも、夫の顔になっていた。
流しの水が顔へ当たって、私は自分の家で目を開けた。
床に倒れ、鍋の水を被っていた。夫も横にいた。右手を胸へ抱え、痛い、痛いと繰り返した。私は濡れた携帯で救急車を呼んだ。今度は最後まで電話を切らなかった。
夫の指は戻らなかった。
病院で何と言われたか、ここへ細かく書くことはできない。私にも、なぜそういう状態になったのか説明できなかった。残った指の傷は治った。夫は仕事を替え、食器を持つときは左手を使うようになった。
水曜日に一緒に食べる決まりも、なくなった。
それでも二人で食べる。曜日も時間も決めず、都合が合えば、目の前にあるものを少しずつ食べる。鍋は捨てた。新しい鍋を買う気には、まだなれない。
先週、夫が左手で持った箸を落とした。
拾おうとして、二人とも椅子を引かなかった。食卓の下へ手を入れることが怖かった。しばらくして夫が立ち、私も立ち、離れたところから床を見た。
箸は二本揃って落ちていた。
その横に、白く煮えた大根が一切れあった。私たちはその日、パンしか食べていなかった。


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