半年ぶりに顔を出した榊を見て、飯島は譜面台を一つ引き寄せた。
「そこ、空いてるから」
以前も榊が立っていた場所だった。窓とピアノの間で、冷房が足首に当たる。榊は鞄を床へ置き、二枚だけの楽譜を取り出した。家で挟んでいた輪ゴムの跡が、紙に残っていた。
大きな合唱団をやめた三人で、月に一度、好きな曲を歌っていた。発表の予定はなく、部屋代を割って二時間借りる。飯島と野々村は榊より長く歌っていて、二人に挟まると、榊にも一応は歌えている気がした。
それがつまらなくなった時期があった。一人で同じ曲を歌うと、覚えたはずの音が次々に分からなくなる。休みの理由は、その都度、ほかの用事があることにしていた。
前の晩、野々村から、明日来られそうなら、と連絡が来た。何をしていたのとも、どうして休んだのとも書いていなかった。榊は短く返事をして、楽譜を探した。
練習室へ着くまでは、二人が気を遣って誘ってくれたのだと思っていた。飯島はもう次のページを見ていた。野々村も水を飲みながら、今日はここをやりたい、と鉛筆で印をつけていた。
「邪魔しちゃうかもしれない」
「邪魔だったら、休んでてもらうよ」
飯島が笑った。榊も笑えた。壁に沿って余った椅子が重ねられ、折り畳みの長机に二人の鞄が載っていた。広い部屋ではなかった。真ん中に三人で立つと、それだけで使っている感じがした。
飯島がピアノで最初の音を取り、こちらへ戻った。伴奏はつけずに歌う。出だしで榊だけが遅れ、やり直した。野々村は榊に向かって軽く手を振り、今度は一緒に入れるようにした。
三つの声が重なると、思ったより大きく響いた。榊は歌いながら顔を上げた。野々村と目が合った。彼女が頷いたので、そこで弱めようとしていた声を出したままにした。
終わりの音が長く残った。
野々村が楽譜を下ろし、飯島が鼻の脇を掻いている間も、低い声だけが続いていた。榊は自分が口を閉じているのを確かめた。舌を上の歯につけ、唾を飲んだ。声は、机に置かれた野々村の鞄の辺りで細くなった。
「よく響くね、ここ」
榊が言うと、飯島は壁を見た。
「前からこうだったかな」
壁は上半分だけが細かな穴の開いた板になっていた。録音用の機械や、スピーカーは見当たらなかった。榊は詳しくなかったので、響きが長い部屋なのだろうと思い、それ以上は言わなかった。
休んでいた間に、二人は歌詞のつけ方を少し変えていた。榊が前と同じように歌うと、野々村がそこで止めた。
「字を一つずつ置かないで。こう」
短く歌ってみせた声は、榊の真横で聞こえた。野々村は二歩ほど離れて立っている。榊がそちらへ顔を向けると、声の終わりだけが、さっき彼の耳があった辺りに残った。
「今、ここで歌った?」
榊が肩の横を指すと、野々村は笑いながら首を振った。
「近かった? 大きすぎたかな」
「いや、大きいっていうか」
うまく言えず、榊は譜面へ目を戻した。彼女が歌ったように続けてみると、楽だった。二つの音の間を、自分で探さなくても渡れた。
飯島が次の箇所を歌った。榊はその口元を見ていた。丸く開いた口が閉じ、飯島の目が楽譜へ落ちた。それから、榊の背中のすぐ後ろで、同じ続きを歌う声がした。
途中でやめた飯島の声より、いくらか若く聞こえた。
榊は譜面台を押した。脚が床を擦り、二人が顔を上げた。
「もう一人、いませんか」
言いながら部屋を見回した。飯島も野々村も、榊の向こうを見ている。ピアノの蓋は閉じてあり、その下も、机の下も見通せた。
低い声が、野々村の背後で止まった。
「隣じゃないの」
飯島が言った。榊は頷きかけたが、野々村が、隣は廊下でしょう、と答えた。
飯島は入口の扉を開けた。廊下の天井灯が一本、ちかちかしていた。向かいの扉には使用中と書いた札が掛かっていたが、何も聞こえてこなかった。榊も戸口まで行った。廊下で聞いてみると、練習室の中で野々村が言った、何か分かった、という声は、扉を開けた分だけはっきり届いた。
榊は部屋へ戻った。気まずくて、野々村の顔をすぐには見られなかった。
「今のとこ、もう一回いいですか」
「うん」
彼女が楽譜を持ち直す。その前に、榊の横から、同じ返事がした。
短く、鼻へ抜くような返事だった。榊は野々村が二度言ったのかと思った。しかし彼女は、榊の横にある壁を見ていた。
飯島が扉を閉めずに戻ってきた。
「今、誰か返事したよね」
野々村は楽譜を胸に抱えた。榊は、そう聞こえました、と答えた。答えは普通に自分の口から出た。喉が痛いわけでも、声が変わったわけでもなかった。
三人は黙った。廊下の奥で別の扉が開き、男の人が二人、話しながら階段へ向かった。
部屋の奥で、もう一度、うん、と返事があった。
今度は飯島の声だった。本人は榊の前で顎を引き、片手で口を覆っていた。声はちょうど机の高さから出た。榊は机の縁に目を据えたが、何もなかった。野々村の水筒と、二つの鞄が置いてあるだけだった。
飯島が机へ近づいた。榊は思わず名前を呼んだ。飯島は、見てくるだけ、と言って、水筒を一つ持ち上げた。下に何もないことを確かめ、元の所へ置いた。
その手元から、榊の声がした。
「見てくるだけ」
榊が言った言葉ではなかった。飯島の言い方のまま、榊の低い声になっていた。
飯島は机から離れた。彼女の袖が水筒に当たり、机の上で倒れた。蓋は閉まっていた。野々村がそれを起こそうとしたので、飯島が腕を出して止めた。
「触らないで」
その言葉は、飯島の口が動くのと一緒に聞こえた。榊はまずそこを見た。机から飯島へ視線を移すとき、途中の、何もない所で同じ声が笑った。
長い笑いではなかった。さっき榊が、邪魔するかもしれない、と言った時の飯島の笑いによく似ていた。だが、飯島は唇を噛んでいた。
榊は二人の間へ入り、出ましょう、と言った。
「鞄だけ」
野々村が言った。すぐには動かず、机の上を見ていた。榊も、床の自分の鞄を一度見た。
「そこ、空いてるから」
飯島の声で言われた。
三人とも動かなかった。入口の脇だった。空いた椅子が一脚あるが、誰も座ってはいない。言葉の最後が少し下がる癖まで、入ってきた時に聞いたのと同じだった。
榊は、椅子に座る人の顔の高さを見た。そこへ合わせるように、声が高くなった。
「そこ、空いてるから」
次は野々村だった。普段の彼女ならそんな言い方をしない。誰の真似か、皆に分かるような言い方だった。野々村は片手で譜面を丸め、もう片方の手を飯島の背中へ当てていた。
榊は扉の横へ行った。廊下は空いていた。階段の窓から明るい光が入ってくる。部屋を出られないわけではなかった。飯島を先に通し、野々村へ手を上げた。
その時、さっき三人で歌った出だしが聞こえた。
榊の声で始まった。榊が間違えた音ではなく、野々村に直してもらったほうだった。
続いて、野々村の高い声が重なった。ピアノの前ではなく、床に置いた榊の鞄の辺りからだった。飯島の声は、今、本人が抜けていった入口に残っていた。
三人の声が、榊たちのいない場所で合った。
榊は後ろを振り向かずにいようとした。それでも、次の言葉へ進むところで顔が動いた。さっき間違えた所を、確かめたくなってしまった。
机の上でも、椅子の間でも、空いた場所から次々に同じ歌が始まっていた。同時には入らない。二つ目の言葉から割って入る声もあり、最初の一音だけを延ばしている声もあった。野々村の声が低い所へ移り、榊の声が細く上がった。知っている三人なのに、誰がどこを歌っているのか分からなくなった。
「やめてくれ」
榊が言った。
声はすぐには止まらなかった。榊はもう一度、同じことを言った。飯島が廊下から手を伸ばしたが、榊はその手を見ることができなかった。自分の声がどこにあるのかを聞き分けようとしていた。普通に怒鳴った自分の声より、部屋の中のほうが、よく知っている声に聞こえた。
歌の切れ目に、やめてくれ、と聞こえた。
飯島の声だった。次に野々村の声が、その続きを歌った。歌詞と同じ高さで、やめてくれ、と何度も繰り返した。最後の一文字だけが伸び、榊がさっき歌えた音へ重なった。
榊は唇を閉じた。続きを言う気になれなかった。野々村が彼の袖をつかみ、廊下へ引いた。
入口に、若い男が立っていた。肩に細長いケースを掛け、手に鍵を持っている。三人を見て、すみません、と会釈した。
「次、ここなんですけど」
榊は時計を見た。まだ予約した時間が残っていた。男も壁の時計を見て、早く来すぎましたね、と笑った。下で待ちますと言い、引き返しかけた。
「そこ、空いてるから」
部屋の中から飯島の声がした。
男が止まった。廊下にいる飯島を見て、それから室内を見た。
「あ、入っていいですか」
飯島は首を振った。声を出しかけた口を押さえ、もう一度、強く首を振った。男の顔から笑いが消えた。榊は彼と扉の間に立った。
「いま、使えません」
榊はそれだけ言った。男は奥を見ようとした。榊の肩越しに、彼の楽譜が残る譜面台が見えていた。
「練習中なら待ちますけど」
「違うんです」
どこから説明すればよいのか。まだ歌っているのは自分たちの声だ、と言えばよいのか。男の持った鍵に、小さな四角い札がついていた。この部屋の番号だった。
榊は扉を閉めた。三人分の鞄も水筒も、置いたままだった。男が困ったようにケースの肩紐を掛け直すのを見て、榊は鍵を貸してくださいと言いかけ、やめた。
扉の内側で、今の榊の声が、いま使えません、と言った。
男は榊を見た。榊は頷かなかった。彼の目が、扉と榊の口を行き来していた。
野々村が楽譜の裏へ、受付に来て、と書いた。鉛筆の芯が途中で折れ、太い線が紙を擦った。飯島がその紙を見て階段へ向かった。野々村も男へ紙を向けた。男は読み終えると、ケースを背負い直した。
榊は扉の前に残った。歌声は扉越しには低く聞こえた。その間に、自分の話す声が混ざっていた。待っている者へ、何かを説明する調子だった。
階段へ行きかけた男が、二歩だけ戻った。
「呼んでますよ」
榊は首を横に振った。男は少し迷い、それから、分かりました、と言って野々村の後へついた。
榊は扉から離れ、階段の手前まで歩いた。
下の階から、飯島が榊の名を呼んだ。彼女の姿は階段の陰にあった。榊は返事をしかけ、口を閉じた。
手すりを握って一段下り、踊り場まで行く。飯島がこちらを見上げていた。口が動き、もう一度、自分の名を呼ばれた。榊はその顔から目を離さず、最後の段まで下りた。


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