真由から化粧を頼まれたとき、私はてっきり前撮りだと思った。日曜の午前、彼の家で、写真を何枚か撮るだけ。そう聞いていたので、髪をまとめる道具と普段の化粧道具を持ち、駅からタクシーに乗った。
家は思ったより大きかった。門の横に、車椅子のためらしい緩い坂がついていた。庭には植木鉢がたくさん並び、どれも葉ばかりで花がなかった。門を開けてくれたのは、小柄なおばあさんだった。真由のお友達、と確かめられ、はいと答えた。
足元に犬がいると思い、道を空けた。
犬はいなかった。おばあさんの草履から、犬の形の影が伸びていた。背中の丸い、小さな犬だった。首のあたりを掻くように、影の後ろ脚が動いた。
私はタクシーのドアに鞄をぶつけていて、その衝撃がまだ肩に残っていた。見間違えたのだと思うことにした。
真由とは同じ美容学校に通った。私は店に勤め、真由は卒業の少し前に辞めた。髪の毛を切る仕事には向いていないと思ったのだという。理由を聞いても、失敗すると切ったぶんが生えてくるまで謝り続けなきゃいけないから、と笑うだけだった。そんなことを言う子だから、私も、向いてないね、と笑った。
四十二で結婚すると聞いたときも、相変わらず真由らしいと思った。年齢のことではない。長く付き合っていた人と別れ、一年もしないうちに、違う人と暮らし始めた。今度は何を基準に決めたのか聞くと、「一緒にご飯食べてて、早く片づけようと思わない」と言った。
案内された和室で、真由は白いブラウスを着て座っていた。結婚写真なら違う服を選ぶのではないかと思うほど、普段着に近かった。膝の上に、小さな鏡を載せていた。手のひらに隠れる丸い鏡で、蓋に茶色い花が描かれていた。
「何で写真だけなの。式は」
私が鞄を開けながら聞くと、真由は、今日、と答えた。
「聞いてないよ」
「言ったら、来ないかなと思って」
誰が。私が。二人で言い合い、真由は困ったように笑った。
彼の家族だけで式をするのだという。婚姻届は来週出す。うちの母親は来ない、と、私が聞く前に言った。反対されていることは知っていた。相手の仕事がはっきりしないとか、家族の人数が話すたび違うとか。真由の母親から私にも電話があったので、少し心配はしていた。
彼には何度か会ったことがある。伸彦さんという、同い年の男の人だった。声が大きくなく、真由が話しているときに途中で口を挟まなかった。私のほうが面白くないくらい、普通の人だった。真由の母親の悪口も言わず、お会いする時間をもう少しいただければ、と言っていた。
化粧を始めると、真由は鏡を握ったまま離さなかった。
「こっちに大きいのあるから」
私が鞄から鏡を出しても、自分のほうを見ていた。借りたの、と言った。伸彦さんの祖母のものだという。さっき門に出てきた人かと尋ねると、真由は首を振った。
「その人は、伯母さん」
真由の右の頬には、小さな火傷の痕がある。子供のころ、ストーブへ倒れてできたものだった。学校の実習では、本人が頼まなくても、みんなその痕を消そうとした。先生まで、いい教材ねと言ったことがある。私も笑っていた。真由がそれを嫌がっていたのを知ったのは、ずっとあとになってからだ。
今日は、どのくらい隠す、と聞いた。
「いつもと同じでいい」
真由は鏡を見たまま答えた。私は薄く下地を伸ばした。痕を消すのでなく、周りの肌の色を少し合わせる。真由が普段している通りだった。頬に指を添えると、なぜか右側だけ冷たかった。
お茶を持ってきた女の人が、真由を見て微笑んだ。
「きれいにしていただいて」
私は会釈をした。茶碗を置くその人の腕から、畳へ細い影が伸びていた。袖の下の影が二股に分かれ、指ではない爪のような先が、真由の膝に届いていた。私は思わず、襖の外を見た。庭の枝が重なったのかもしれないと思った。
女の人が出ていくと、押入れの奥のような匂いが残った。古い着物を虫干しするときの、湿った紙と油の混じった匂いだった。誰かが古い礼服を出したのだろう。窓を開けてもいいかと聞いたら、真由は、まだ開けないで、と言った。
「みんな、見に来てるから」
ガラスの向こうには縁側があり、その先が庭だった。人はいなかった。私の顔が窓に薄く映っていた。その肩越しに、知らない顔がいくつも重なっていた。振り向くと、部屋には私と真由しかいなかった。
私は化粧の手を止め、真由を正面から見た。真由は目を閉じていた。けれど手に持つ鏡の中では、目を開けていた。自分の姿を確かめるように、右へ左へ顔を傾けた。私がブラシを下ろしても、その顔はまだ化粧をされているつもりで、少し顎を上げていた。
鏡を取り上げた。
真由が、あ、と声を出した。鏡の中の真由も同じ声を出したように口を動かしたが、こちらを見なかった。誰かに呼ばれたように、私の後ろを見た。頬に火傷の痕がなかった。
私は蓋を閉じた。畳に敷かれていた座布団が、急にへこんだ。隣の座布団も、その隣も。誰かが膝を乗せるくらいずつ、順に沈んでいった。真由は自分の膝へ両手を揃えた。爪の先が白くなっていた。
「知ってたの」
私が聞いたのは、鏡のことだった。
「全部は」
真由が答えたのは、それだけではなかったと思う。
私は道具を片づけ始めた。真由のブラウスに下地がつかないよう、首に掛けたタオルを取った。今から駅へ行こうと言うと、真由は、化粧を最後までして、と頼んだ。
「できない。これ、変でしょう」
自分の声が思っていたより大きくなった。襖の向こうで、人が動く気配がした。真由が私の腕を押さえた。
伸彦さんが入ってきた。濃い色のスーツを着ていた。私を見ると、すみません、と頭を下げた。何について謝ったのか分からなかった。私は鏡を差し出し、これを使わせるのはやめてくださいと言った。彼は受け取らず、真由を見た。
真由は、私が借りたの、と言った。
「この人たちに、気に入られたかったから」
その言い方で、私にも少しだけ事情が分かった気がした。普通の家の、普通の婚礼の揉め事として聞ける部分があった。彼の親類が望む顔になりたい。痕のない顔を見せたい。真由が自分からそう望んだことが、私には腹立たしかった。
「いつもと同じでいいって言ったじゃない」
真由はうなずいた。
「だから、呼んだんだよ」
伸彦さんが窓のほうへ歩いた。カーテンを引きかけると、外からガラスへ掌がついた。人の手よりずっと長い指が、五本、六本と広がった。彼はその手を見て、小さく頭を下げた。カーテンを閉めることはしなかった。私には、母親に叱られた子供のように見えた。
彼の影にも、犬の耳があった。けれど門の人とは違った。大きな頭を低くして、座った真由の足元へ鼻先を押しつけていた。伸彦さん本人は、窓に向かって立っている。影だけが真由を見上げ、口を開けて何度も息をしていた。
真由はその影を見ていなかった。私の手から鏡を取り、蓋を開けた。中の顔は、もう真由とは呼びにくかった。火傷の痕だけでなく、鼻の幅、眉の位置、顎の線が違っていた。誰にでも気に入られそうな、ただきれいな顔だった。目の周りだけが、ひどく疲れていた。
窓の外で、たくさんの人が頷いたように影が揺れた。
匂いが強くなった。私は息を吐ききれず、口を開けた。濡れた紙を喉へ貼られたようだった。鏡の中の女が、口元だけで笑った。真由は唇を結んでいた。その食い違いを、彼女も見ていた。
伸彦さんが膝をつき、真由の持つ鏡の蓋へ手を添えた。閉じるつもりらしかった。その指の上へ、真由が自分の手を重ねた。
「触らないで。あなた、さっきから謝ってばかり」
彼は手を引いた。
真由が私を見た。
「落として」
私は鞄から化粧落としを出した。コットンにたっぷり含ませると、真由は鏡の中の顔を見たまま、顎を上げた。
右の頬を拭いた。窓の外で爪が鳴った。長い指がガラスを掻き、庭の植木鉢が一つ割れた。真由の皮膚には火傷の痕があった。化粧が薄くなれば、当然そうなる。鏡の中の女の頬には、赤い傷ができた。拭き取られた部分だけ、血の滲む細かな穴が開いた。
私は手を止めた。真由は、そのまま、と言った。
もう一度、頬を拭いた。鏡の女がこちらへ手を伸ばし、爪の先が鏡の縁から出た。真由の手ではなかった。彼女の両手は鏡の下を支えていた。爪の色は薄桃色で、先週一緒に選んだものだった。出てきた爪は、古い貝殻のように分厚かった。
伸彦さんが前へ出た。真由の足元の犬の影も立ち上がった。彼は、そこまでです、と窓へ向かって言った。初めて聞く強い声だった。門のおばあさんが襖を開けた。式の時間が、と言いかけて、何かを飲みこんだように黙った。
私は眉を拭き、唇を拭いた。鏡の中の女は、口を閉じなくなっていた。歯のない奥に、何人もの小さな顔が見えた。全員が同じことを喋っているように唇を動かした。真由は目を逸らさず、最後に、自分で瞼を拭いた。
鏡が曇った。
女は消えなかった。こちらが見えなくなったように、両手で鏡の内側を擦った。真由は蓋を閉じ、伸彦さんへ渡した。彼はハンカチを何重にも巻いた。中から爪が出ることはなかった。
私は真由の母親へ連絡しようとした。真由は、駄目とは言わなかった。自分でかけるから、と言った。今すぐ帰るよう言われるに決まっていた。それでも真由は、彼の横に座ったままだった。
式は、と私は聞いた。
「するよ」
真由は答えた。私が怒ったのを見て、続けた。
「でも、写真のために顔を変えるのは、やめる」
私は何も言えなかった。彼の足元にいる影が怖かったし、窓の外でまだ何かが待っているのも分かった。彼女が選んだことを尊重する、と、その場で立派に思えたわけではない。友達をここへ置いていくことと、無理に連れ出すことの、どちらも私には決められなかった。
真由は自分の小さな化粧ポーチを出した。いつも使う薄い下地を、指で頬へ伸ばした。私は口紅だけ塗った。手が震えて少しはみ出し、二人で同時に笑いかけた。窓の外からは何の反応もなかった。それがかえって怖かった。
玄関まで送ってくれたのは、最初のおばあさんだった。庭の植木鉢の割れた破片が、きれいに重ねられていた。おばあさんは私の鞄を持ちたがったが、私は渡さなかった。
「お友達は、お強いねえ」
真由のことか、私のことか分からなかった。褒めているようには聞こえなかった。
門を出ると、家の中で、誰かが椅子を引いた。続いて、たくさんの爪が床を歩く音がした。タクシーを呼ぼうと鞄を探りながら、私は一度だけ振り返った。
二階の窓に、真由が立っていた。隣には伸彦さんがいた。彼女の頬の痕は、そこからでも分かった。真由は手を振らず、窓の鍵に指をかけ、こちらを見ていた。
窓が少し開いた。
真由は深く息を吸った。普通の顔で、目を閉じて、外の空気を吸っていた。彼女の肩の向こうから、いくつもの顔が寄ってきた。人の顔だった。どれも、口と鼻を手で覆っていた。真由の吸っている空気に耐えられないように、眉を寄せていた。
真由は窓を閉めなかった。
私は携帯を握ったまま、タクシーが来るまで、その窓の下に立っていた。


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