金曜日の午後だった。
榊真帆はヘッドホンを着け直し、モニターの波形へ目を戻した。
東央音響解析の作業ブースは半地下にある。空調の低い唸りのほかに音のない部屋で、真帆は十五年前の音を聞いていた。

音声技師という仕事は、声そのものより雑音を扱う時間の方が長い。録音に紛れた反響や環境音の粒を拾い、発言の内容や録音場所を割り出していく。感情より記録を信じる。この十年で身についた姿勢だった。
依頼主は県警である。二〇一一年に青葉市で相次いだ失踪事件の証拠音声を、現行の保存規格へ移し替える。作業指示書にはそう書かれていた。
添付の資料一覧を開いたとき、キーを打つ指が止まった。
行方不明者の欄に榊隆司の名がある。
父だった。
十五年前の十二月に消えた父の名が、他の五人の名前と同じ書体で並んでいる。

湯呑みを持つ手のひらに、汗が滲んでいた。
関係者だと会社に申告すれば、担当は外される。真帆は申告しなかった。作業ログに残るのは、音声技師としての榊真帆だけである。
十五年前の夜のことは、順番まで覚えている。
午後十一時五十八分に居間の固定電話が鳴り、十九歳の真帆が受話器を取った。

『真帆、玄関前にいる。鍵を忘れた。開けてくれ』
父の声だった。受話器を置いて玄関へ向かう真帆の腕を、当時十四歳の晴香がつかんだ。
開けないで。
妹はそれしか言わない。爪が食い込むほどの力だった。
呼び鈴が三度鳴った。覗き穴の外には誰もいない。

誰もいないのに、扉の向こうから父の声で、開けてくれと聞こえ続けた。
姉妹は朝まで玄関に近づいていない。父はその夜から戻らず、車だけが四キロ離れた高架下で見つかった。
あのとき扉を開けていれば。真帆は十五年間そう考えて、妹を遠ざけてきた。
最初のファイルは一一〇番の通報記録だった。
深夜に不審な物音を訴える男の声が続き、その途中でぷつりと途切れる。
無音が続いた。
七・四秒。
自動解析の判定は「信号なし」である。装置はこれをデータ欠落として扱う。
真帆は再生位置を戻し、音量を限界まで上げた。
完全な無音のはずだった。なのに右耳の奥だけが、水に潜ったときのように詰まる。

鼓膜が何かに押されている。
無音は音の不在ではない。この七・四秒には圧力があった。
真帆は位相を反転させ、通常とは逆の処理を重ねた。雑音として捨てられる極小の成分だけを残し、増幅していく。
ヘッドホンの奥で、靴底が路面を擦った。
一歩。
間を置いて、もう一歩。
湿ったアスファルトを踏む音だと分かる。歩幅の広い、男の歩き方に聞こえた。
足音の遠くで電子音が流れ始める。八小節の短い旋律。どこかの駅の発車メロディーだった。
真帆はその旋律を知っていた。
青葉東駅。父の車が乗り捨てられていた高架下から、いちばん近い駅である。
発車メロディーは録音の遠景で二度流れ、強風で遅れた午後十一時五十一分発の最終電車を案内する放送が続いた。
県警資料に添付された当日の運行記録と照合すると、十二月九日の夜に一致した。父が消えた夜である。
通報の本体は、この失踪とは無関係の物音の相談にすぎない。その録音の底に四キロ離れた駅前の夜が沈んでいる。
マイクが拾えるはずのない音だった。
真帆は処理結果を書き出し、抽出音声に整理番号を振った。手順どおりの動きだけが、考えることを代わりに引き受けてくれる。
背筋を伸ばし、深く息を吸った。半地下の空気は乾いていて、埃と防音材の匂いがする。
二本目のファイルを開いた。
別の日付、別の通報者。事件同士のつながりを示す記録はない。
波形の同じ位置に、七・四秒の無音があった。
同じ処理をかける。
足音が現れた。
今度は背後でシャッターの降りる音が続き、閉店を告げる放送が重なっている。青葉東駅前の商店街だと見当がついた。駅から歩いておよそ十分の距離にある。

三本目には、金属の階段を上る音が入っていた。
一定の間隔で鉄板が鳴り、上りきった先で風の音が広がる。国道をまたぐ歩道橋である。
四本目の冒頭には、川の流れる音が薄く敷かれていた。歩道橋を降りた先の、川沿いの遊歩道だろう。
真帆は付箋へ地点を書き、机に広げた住宅地図へ貼っていった。

駅。商店街。歩道橋。川沿いの遊歩道。
四点は一本の線になった。
その線の先には、真帆がいま寝起きしている旧実家のマンションがある。
父の車が見つかった高架下から、旧実家まで徒歩で戻るなら選ぶ経路だった。
録音は事件ごとに別の家で採られている。通報者も日付も別である。なのに無音の奥の音だけが、一つの道筋を順にたどっていた。
帰ろうとしているのだ。
真帆はそう思った。思ってから、では歩いているのは誰なのかという問いを、頭の外へ押しやる。
規格の移行という仕事の性質上、処理を終えた音声は順に書き出していく。
書き出しを終えるたびに、真帆は気づいていた。次のファイルの無音を開くと、音は必ず一つ先の地点へ進んでいる。
処理の順番を入れ替えても結果は同じだった。後から開いた方の音が、常に家へ近い。
録音の中に道が残っているのではない。こちらが蓋を開けるたびに、何かが一区画ずつ進んでいる。
そう考えるのが筋の通らない話だとは、真帆にも分かっていた。分かっていながら手が止められない。
五本目の処理を終えたのは夕方だった。
無音の奥から現れたのは、エレベーターの到着を告げる電子音だった。

三和音が下から上へ駆け上がる。聞き慣れた音である。旧実家のマンションで、真帆が毎日聞いている音だった。
マウスの上で指が止まった。
あの電子音は三年前の改修で新しくなったものだ。十五年前の録音に入っているはずがない。
真帆は作業前に控えたチェックサムを呼び出し、原本と照合した。
値が一致しない。
複製した作業ファイルの話ではない。書き換えできない設定の原本そのものが、保存サーバーの中で変わっていた。
通常参照される側の値だけが動き、別系統の監査用スナップショットには、処理前の値がそのまま残っている。
報告を受けた岡部は、眉間を揉みながら画面を覗き込んだ。
「機器だな。でなけりゃサーバーの障害だ」
四十七歳の上司は、波形より先に納期表を見る男である。真帆の知る岡部は、霊や呪いを一笑に付す一方で、原因を機械の故障へ求めることに迷いがなかった。

「原本に触る案件で障害は洒落にならん。榊、いったん処理を止めろ。点検が済むまで手を出すな」
「五本とも同じ位置に無音があります。障害なら、位置が揃う理由の説明がつきません」
「揃うから障害なんだ。同じ工程で同じ癖が出てる。それだけの話だろう」
真帆はうなずいた。
うなずきながら、机の引き出しから会社貸与の暗号化SSDを出していた。
担当技師には、障害対応用として作業データを暗号化媒体へ退避させる権限がある。媒体の社外持ち出しと私的利用は禁止されていた。
保管庫にはまだ開いていないファイルが残っている。
整理番号の末尾。十五年前の十二月九日、午後十一時五十八分。
録音元は、青葉市の榊宅に設置された固定電話。通報ではない。失踪直前、父の声でかかってきた最後の電話である。
榊家の固定電話には、迷惑電話対策で通話を自動録音する機能があった。父の声でかかってきた最後の通話も内蔵メモリーに残り、失踪後に県警が証拠資料として複製している。
真帆は父の声を収めた通話録音だけを暗号化SSDへ複製し、鞄の底へ沈めた。

転送の残り時間を見つめる間、右耳の奥がまた詰まっていた。
晴香が来たのは土曜日の昼過ぎである。
母の四十九日以来およそ十か月ぶりに見る妹は、髪を短くしていた。玄関で靴の踵を揃える手つきだけが、子供のころのままだった。
「書類、これで全部?」
「実印はそこ。付箋の頁に判子」
売却の書類を挟んで、姉妹は事務の言葉だけを交わした。
父の話は出ない。母の四十九日の後と同じである。この家で父に触れずに話すことに、二人とも慣れきっていた。
母が死んで一年になる。家具の減った居間は音がよく響き、湯呑みを置く音さえ大きく聞こえた。
「この湯呑み、まだあったんだ」
晴香が手の中の湯呑みを回した。縁の欠けた萩焼である。

母が景品で当てて、なぜか父が気に入って使っていたものだった。
「捨てるに捨てられなくて」
「もらっていい?」
「いいよ。判子押してくれるなら」
晴香の口元が少しゆるんだ。真帆へ向けられたのは、久しぶりに見る表情である。
昼は出前の蕎麦で済ませた。器を返しに出た廊下で、晴香が非常階段の扉を見て足を止めた。
「ここは風の音がすごかったよね」
「今もする。夜になると笛みたいに鳴る」
他愛のない話だけが続いた。父にも母にも触れない話題を、二人とも選び抜いて出している。
積み上げた皿の間を縫うような会話だった。
台所で二杯目の茶を淹れていると、居間のパソコンが音を立てた。
三和音が下から上へ駆け上がる。
スリープの解除で、取り込んだ音声の続きが再生されたのだった。
盆を持ったまま居間へ戻ると、晴香が画面の前で立ち尽くしていた。
「これ、うちのマンションのエレベーターの音」
「十五年前の警察の録音に入ってた」
晴香の顔から色が引いていく。

「昨日の夜」
晴香は自分の腕を抱えた。
「うちの廊下で足音がした。玄関の前で止まって、それきり。管理人にカメラを見せてもらったけど、誰も映ってなかった」
真帆は付箋だらけの地図を広げた。
駅。商店街。歩道橋。遊歩道。線は旧実家へ向かって伸びている。
その途中で一箇所だけ、線が不自然に折れていた。
国道から外れて住宅地へ入り、また元の道筋へ戻る。遠回りの頂点にあるのは、晴香がいま住むマンションだった。

「寄ってるの。あんたの家に」
晴香は地図から一歩離れた。
「お父さんじゃない」
「なんで言い切れるの」
「お父さんじゃない。それだけは分かる」
「十五年前も、あんたはそうやって決めつけた」
言葉が先に出た。
「あんたが開けるなって言ったから、開けなかった。玄関まで来てたのに。呼び鈴が三回鳴って、覗き穴には誰もいなくて、それなのに声だけがしてた。あの声を確かめもしないで、締め出した」
「あれは」
晴香は口を開き、閉じた。
畳の目を数えるように視線を落とし、長い息を吐く。
「あの夜、私の携帯にもお父さんから電話があった。お姉ちゃんが固定電話で話してたのと、ほとんど同じ時間に」
初めて聞く話だった。
「警察にも言ってない。お母さんにも言わなかった」
「なんて言われたの」
晴香は首を振った。
「今は言えない。ごめん」
言えない、の方に嘘の響きはなかった。
その夜、晴香は昔の子供部屋に布団を敷いた。売却前の家には、まだ二人分の布団が残っている。
襖の向こうの寝息が深くなるのを確かめてから、真帆は居間へ戻った。
真帆は会社貸与の端末を起動し、保守用のVPNで保存サーバーへ接続した。
開いたのは、まだ処理していない一本の通報記録である。
父が消えた夜の九分後、日付が変わった十二月十日の午前零時七分に記録された、別の住民からの通報だった。
再生する。
『家族が玄関の前に立ってるんです。声もするんです。ただ、その家族はいま隣の部屋で寝てるんです』
通報者は中年の男だった。声が乾ききっている。
『寝てるのを確かめてから、もう一回玄関を見ました。まだいるんです。じゃあ外にいるのはどっちなんですか』
言葉の途中で音が消えた。
七・四秒。
真帆は処理をかけた。
無音の奥で、ドアチェーンの外れる音がした。
金具が受け金から抜ける、小さく確かな音である。
続いて蝶番が軋み、外気の流れる気配があり、通報者の息遣いが途絶えた。
回線は切れていない。誰もいなくなった部屋の音だけが、記録の終わりまで続いていた。
事件の資料を確かめる。この通報者は翌朝から行方不明になっていた。六人のうちの一人である。
資料には通報者の家族の証言も残っていた。

その夜、家族の誰も玄関を開けていない。全員が寝ていて、チェーンの音も聞いていない。
朝になると本人だけが消えていて、玄関は施錠されたままだったという。
鍵もチェーンも掛かった扉の内側から、通報者は録音の中へ出て行った。
真帆は湯呑みへ手を伸ばし、茶が冷めきっていることに気づいてやめた。指先から先に冷えていく。
無音の中を歩く音だけが記録されているのではなかった。
誰かが扉を開けた、その瞬間まで録られている。
真帆はヘッドホンを外しかけて、手を止めた。
処理済みの音声の末尾に、まだ何か残っている。
音量を上げる。
低い連続音だった。羽根の回る音に、換気口の共鳴が重なっている。
真帆は台所を振り返った。
換気扇が回っている。夕食の後に消し忘れた、この家の換気扇である。

ヘッドホンの中の音と背後の音が、寸分の狂いなく重なっていた。
足音はもう、外の道を歩いていない。
この建物の中にいる。
日曜日の午前一時五十分、岡部から電話が入った。
『起きてたか。点検の結果が出た。機器も鯖も白だ』
「白って」
『異常なしだ。原本の値が動いたのはログの取り違えって結論になった。それでな、納期の件だが』
電話口で短く息を継ぐ気配がする。
『全ファイル、夜間の自動処理に回した。もう走ってる。月曜の朝には全部終わる』
「止めてください」
『何を言ってる。お前が止めてた分の遅れを取り戻すんだぞ』
「あれは順番に処理しちゃいけないんです。一本進むたびに」
言いかけて、その先が仕事の言葉にならないことに気づいた。
録音の中を、何かが一区画ずつ渡ってくるんです。そんな報告書は存在しない。
電話の向こうで岡部がまだ何か言っている。真帆は片手で会社の管理画面を開いた。
未処理の一覧が、上から順に色を変えていく。
一本変わるたびに、ヘッドホンの中の音が跳んだ。
自動ドアの開く音。この棟の夜間出入口だ。
反響の広い床音。一階のエレベーターホール。

巻き上げ機の唸り。上昇している。
三和音が下から上へ駆け上がった。
九階。
この部屋は九階である。
襖が開き、晴香が廊下に立っていた。寝ていた顔ではなかった。
その背後で玄関の呼び鈴が鳴る。
真帆はインターホンのモニターを見た。
外廊下の映像には、誰も映っていない。
モニターの映像は動いている。時刻の数字が進み、外廊下の蛍光灯に小さな虫が寄っている。
映らないだけで、音は扉のすぐ向こうにある。
板一枚を隔てた位置で、靴底が床を擦る音がした。ヘッドホン越しではない。
生の耳に届く最初の足音だった。
晴香が真帆の後ろで動きを止めている。
「真帆、鍵を忘れた。開けてくれ」
ドアの向こうから声がする。
父の声だった。
低さも語尾の掠れ方も、十五年前に固定電話で聞いたままである。

十五年間、頭の中で数えきれないほど再生してきた声だった。
真帆の足が玄関へ向いた。
廊下を二歩進んだところで、晴香が腕をつかんだ。
「駄目」
「お父さんの声だよ」
「声だけ」
晴香の指が食い込んだ。
「あの夜の電話、全部言う。だから動かないで」
呼び鈴がもう一度鳴った。
「お父さんは、まだ駅の向こうにいるって言った。これから家の電話に俺の声で連絡が行く。玄関に誰か来ても絶対に開けるな。先に家へ着くものがいる。それは俺じゃないって」
晴香の声が揺れた。
「最後にこう言った。そいつは俺の声を、少し遅れて繰り返してるって。だから聞き分けろって」
「遅れって、どれくらい」
「分からない。あの夜、玄関の外の声は確かに変だった。お姉ちゃんが電話で聞いた言葉と同じことを、少し後から外で言ってた。時計なんて見てない。ずっと震えてたから」
真帆はパソコンへ向き直り、榊宅の電話機から回収された通話録音を開いた。
十五年前の十二月九日、午後十一時五十八分。
『真帆、玄関前にいる。鍵を忘れた。開けてくれ』
真帆は比較のため、SSD内の複製へ同じ抽出処理をかけ、その状態で上書き保存した。
再生と同時に、計測を走らせる。
七秒が過ぎ、小数点の先が四を刻んだ瞬間だった。
「真帆、玄関前にいる。鍵を忘れた。開けてくれ」
玄関の外の声が言う。
一言一句、同じだった。
七・四秒。
無音の長さとちょうど同じだけ遅れて、外のものは父の録音を繰り返している。
玄関の声を父本人だと信じられる根拠は、もうなかった。
録音を渡ってきた何かが父の声を覚えたのか。それとも、父自身が録音の中で変わってしまったのか。
どちらであっても、扉を開けて確かめることはできない。
晴香が携帯で一一〇番を押した。
『はい、一一〇番。事件ですか、事故ですか』
「玄関の外に人が」
応答が消えた。
晴香が画面を確かめる。通話時間の表示は動き続けている。
七・四秒。
音が戻った。
『開けて。外にいるのは私だから』
受話口から流れたのは、晴香の声だった。
隣に立つ晴香は、口を開いてすらいない。
晴香は通話を切り、携帯を畳に落とした。指先が白い。
十数秒後、県警の番号から折り返しが入った。今度は通常の警察官の声である。
晴香は住所と玄関前に不審者がいることだけを伝えた。
玄関でドアチェーンが鳴り始めた。

内側の金具が、外から爪で弾かれるように震えている。
真帆は窓へ寄り、カーテンの隙間から下を見た。
九階の高さの底に、街灯の白い輪が並んでいるだけである。
ベランダ伝いに降りる足場はない。玄関の外にはあれがいる。
出口が消えた。
真帆は管理画面へ戻った。
処理済みの一覧が並んでいる。視線が止まったのは、自分が最初に処理した一本だった。
処理が進むたびに、あれは近づいた。
なら、戻せば。
確かめる方法は一つしかない。真帆はその一本を選び、処理済みの派生データを破棄して、参照先を監査用スナップショットへ戻した。
ヘッドホンの中で、玄関前にあった気配が動いた。
外廊下を遠ざかり、三和音が上から下へ降りていく。
エレベーターホールまで、一区画ぶん後退している。
「戻るんだ」
晴香が画面を覗き込んだ。
「近づいてきた順番と逆に戻せば」
「遠ざけられる」
真帆は会社の保存履歴へ接続し、自動処理された数十本を新しい順に並べ替えた。
一本ずつ、スナップショットの値へ戻していく。
ファイルが戻るたびに、音が引いていった。
九階の外廊下。
降りていくエレベーター。
夜間出入口の自動ドア。
住宅地の細い道。
晴香のマンションの、上から下へ降りる三和音。
再び川沿いの遊歩道。
歩道橋の鉄板。
商店街のシャッター。
駅前の雑踏。
ヘッドホンの中の音は、遠ざかっていく。
なのに玄関のチェーンは、まだ小さく鳴り続けていた。
戻す作業の途中で、外の声が変わった。
「真帆、開けなさい。お母さんよ」
死んだ母の声である。抑揚まで正確に、去年まで隣の部屋で聞いていた声だった。
晴香が真帆の袖を握った。二人とも玄関を見ない。画面だけを見続けた。
声は父に戻っては母に変わり、一度だけ幼い子供の声にもなった。誰の声かは姉妹のどちらにも分からない。
処理済みデータと変化した参照原本は、すべて監査用スナップショットから復元した。
一覧の色が元へ戻りきる。それなのに玄関の気配は消えない。
残っている処理済みデータは一つだけだった。真帆がSSDの中で抽出処理を上書きした、父の声の通話録音である。
会社の管理も監査用スナップショットも、そこには届かない。
これを消せば、あれは最初の地点よりさらに前へ、記録のない場所へ押し出される。
同時にこれは、父の声として残された最後の録音にほかならなかった。
消せば、父の声を自分の手元へ残すことも、その声を自分で調べ続けることもできなくなる。
カーソルが削除の上で止まった。
玄関の外で、声がした。
「真帆。今度は置いていかないでくれ」
息が詰まった。
十五年前の電話に、その言葉はない。回収された通話録音のどこを探しても、入っていない言葉だった。
学習している。録音だけではなく、扉のこちら側の迷いまで。
「お姉ちゃん」
晴香が真帆の手の甲に手を重ねた。指が冷えている。
「お父さんを帰すことと、あれを家に入れることは違う」
真帆は目を閉じ、開けた。
削除を実行する。
進行の帯が伸びきり、ファイル名が一覧から消えた。
玄関の声が止んだ。
ドアの下の隙間から、外廊下の明かりが細く差し込んでいる。
その光を、影がゆっくりと横切った。

足音が遠ざかっていく。
外廊下を渡り、非常階段の方へ抜け、やがて聞こえなくなった。
最後に一度だけ、どこか遠くで八小節の旋律が鳴った気がした。
青葉東駅の発車メロディーである。
警察が着いたのは三十分後だった。
外廊下にも非常階段にも人の姿はなく、一階の夜間出入口は施錠されたままである。
管理会社から取り寄せた防犯映像には、午前二時十三分の位置に欠落があった。
七・四秒。
その前後に、映像の乱れはなかった。
証拠音声はすべて原状へ戻っている。後日どんな処理をかけても、無音から足音が出てくることは二度となかった。
無音はただの無音である。
週明けに真帆は、事件関係者であることと、貸与媒体の持ち出しと無断複製の件を会社へ申告した。
処分が出る前に退職願を出し、受理された。岡部は判を押しながら、一度だけ顔を上げる。
「あの夜、何を戻した」
「音です」
それ以上は聞かれなかった。
何を追い返したのかは、真帆にも分からないままである。
手元に残る父の声は、もう真帆の記憶の中にしかない。
最後に聞いた「置いていかないでくれ」が父の声だったのか、父の声を覚えたものだったのか。それを確かめる録音を、真帆はもう開けない。
マンションが売れたのは春である。
引き渡しの日、姉妹は空になった居間で鍵を並べた。
「電話くらいはしていい?」
晴香が聞く。
「用がなくても?」
「用がなくても」
真帆はうなずいた。抱き合うことも泣くこともなく、二人は別々の駅へ歩いた。
戻ったのはそれだけである。それだけで十分だとも思えた。
父を救えなかったという十五年分の考えは、置いていくことにした。あの夜、扉を開けなかった姉妹の判断だけが、父の警告に応えた唯一の返事だったからである。
三か月後の夜、岡部からメールが届いた。
本文は二行きり。
『鯖に変なファイルが湧いた。お前の声に聞こえる。心当たりは』
添付は一つ。作成日時の欄には、来年の日付が入っていた。
再生時間は七・四秒。
真帆は迷い、それからヘッドホンを着けた。
自分の声がした。
『次はあなたの部屋の音をください』
声の背後で、三和音が鳴っている。
下から上ではない。上から下へ降りる、別の機種の到着音である。
真帆はその音を聞いたことがあった。
晴香のマンションのエレベーターだった。
録音の日付は来年である。まだ録られていない音が、先に届いている。
あの夜に送り返したものが、どこへ押し出されたのかを、真帆は考えないようにしてきた。
記録のない場所とは、いつのことだったのか。
携帯をつかみ、晴香の番号を呼び出す。
呼び出し音が一回、二回。
三回目が途中で切れ、応答の操作がないまま通話時間の表示が動き始めた。
晴香の声はしない。
代わりに、受話口の奥で呼び鈴が鳴っている。
一度。
二度。
三度。




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