河原へ下りたとたん、稲垣は携帯を切った。電源を落とすところまで、私に見せるようにしてやった。
「これで会社からは来ない」
そう言って尻のポケットへしまったが、三分もたたないうちに、また取り出して電源を入れ、時間を見た。
誘ったのは私だった。前の職場で一緒だった稲垣と、退職してからも時々会っていた。近頃は酒を飲んでも、彼は人が辞めた話ばかりした。誰かの悪口で済めばまだよかった。自分が引き受けた仕事を一つずつ数え、最後に、それでも回るからいけないんだ、と笑った。
一日くらい釣りに付き合えよと言うと、日曜の朝なら、と返ってきた。
私は昼過ぎまでのつもりだった。稲垣は十時には帰りたかったらしい。駐車した車から道具を下ろして初めて知った。
「お前、それじゃ着いたらすぐ帰りじゃないか」
「だから近いところって言ったろ」
彼は小さく答えた。私は聞いていなかった。
九月の上旬で、川の水は少なかった。林道の広がったところへ車を置き、斜面を下りた。流れは二筋に分かれ、その間の低い石に、草が束になって引っかかっていた。対岸に民家が一軒見えたが、川へ下りる道はなかった。
私は広いほうの流れを選び、稲垣には石の多い浅瀬を勧めた。昔は彼のほうが釣りがうまかった。
竿を出してしばらくすると、稲垣の声がした。
「いるな」
顔を向けると、彼は竿先で浅瀬を示した。水の中に、灰色の長いものが横たわっていた。魚にしては薄く、長さは私の前腕ほどあった。
濡れた布かと思ったが、一方の端が持ち上がり、水に逆らって動いた。
稲垣が糸を引いた。すでに掛かっていた。
「何だ、これ」
その声は嬉しそうではなかった。竿を立てると、灰色のものは流れから少し顔を出した。顔というのは、あとで考えた言い方だ。最初はどちらが頭なのか分からず、ただ、そこだけが厚かった。
私は網を持って彼の横へ行った。糸を緩めるなと言うと、稲垣は、言わなくても分かってる、と怒った。
網の縁を水につけると、そいつは自分から入ってきた。水が抜けるにつれ、網の底で丸くなった。泥色の背に、鱗も目もなかった。濡れた革を折り畳んだように見えた。
針は端のほうに掛かっていた。そこが口なのだろう。
稲垣は糸を切ろうとした。
「待てよ。針、取れるだろ」
私は道具袋からペンチを出した。持ち帰る気はなかったが、針を付けたまま放したくもなかった。
網の底で、そいつが咳をした。
短い咳だった。水から揚げた魚が鳴った、と言えば、その場では済ませられたかもしれない。けれど私は、ペンチを握ったまま稲垣を見た。彼もこちらを見ていた。
そいつはもう一度咳をし、口を開いた。
「戻さないでください」
丁寧に言った。
男の声だった。年齢は分からなかった。声が網から聞こえたことは分かったが、口の形とは合っていなかった。開いたところには、舌ではなく、細かな白い粒が並んでいた。
私は網を離しかけた。稲垣が柄をつかみ、地面へ下ろした。石の間の平たい砂地だった。
二人とも、しばらく何も言わなかった。水の音は変わらず聞こえていた。遠い道路を、車が一台走っていった。そんな音が普通に聞こえることが、どうにもおかしかった。
「誰ですか」
稲垣が言った。
私は彼の肘を押した。なぜ話しかけるのかと思った。
そいつは答えなかった。灰色の表面が、端からゆっくり捲れた。内側も同じ色だった。折り返した箇所に、指のような突起が四つあった。一本ずつ伸び、網目を探っていた。
「人じゃないぞ」
私は小声で言った。
稲垣は頷いた。私が説明しなくても見れば分かることだった。なのに彼は、もう一度訊いた。
「どうしたらいいんですか」
返事はなかった。
そいつは網の底へ顔らしい部分を押しつけ、動かなくなった。
放って帰るわけにはいかなかった。少なくとも、そのときはそう思った。喋ったから人間だとは思わなかったが、言われたことを聞かなかったことにはできなかった。
私は車にバケツがあると言った。稲垣が、取りに行って、と答えた。彼は網から少し離れ、しゃがんだままでいた。竿は石の上に投げてあった。
斜面を上りながら、私は何度も振り返った。稲垣が一人でそこにいるのが心配だった。それでも、自分が取りに行くと言ったことは変えなかった。二人で行こうと言えばよかった。
バケツを取り出して車の横に立つと、稲垣が私を見上げていた。片手を上げた。急げという意味だと思い、私は頷いた。
戻ると、網の中は空だった。
稲垣はさっきと同じところにいた。立ち上がっておらず、右手だけを砂へついていた。
「どこへ行った」
私が訊くと、彼は首を振った。
「見てなかった」
「逃がしたのか」
「見てなかったんだよ」
言い直す声が、急に大きくなった。
私に手を振ったとき、目を離したのだという。足音も水音も聞こえず、網を見たらいなかった。私は網を持ち上げた。網目は破れていなかった。流れまで二メートルほどあったが、砂の上には何かが這った跡もなかった。
切っていない糸の先で、針が光っていた。
稲垣は立った。砂を払い、帰る、と言った。
私も帰りたかった。ただ、道具をまとめながら、そいつの姿を探してしまった。戻さないでくれと言ったものが自分で川へ入るとは思えなかった。石の陰にいるのなら、踏まないようにしたかった。
対岸から、人が呼んだ。
川に近い石垣の上に、男が立っていた。灰色のシャツを着た、背の低い男だった。すぐ後ろに、さっきの民家があった。庭に出て私たちを見つけたのだろう。
男は口に手を添え、もう一度何かを言った。川の音で聞き取れなかった。
私は手を上げかけたが、稲垣が先に声を張った。
「何ですか」
男は石垣から川へ下りてきた。
足場のない壁を、下りた。飛び降りたのではなく、踵を少しずつ下げた。灰色のシャツが、壁に擦れて膨らんだ。足は裸だった。左右の足の親指が、どちらも外を向いていた。
稲垣が私の袖をつかんだ。私も見た、という意味で頷いた。
男は対岸の小石の上へ降りると、濡れるのを嫌がるようにズボンの裾をつまんだ。そこで、初めて声がはっきり聞こえた。
「その網にいたでしょう」
私は首を振った。大きく振りすぎ、稲垣の肩へ顔が当たりそうになった。
男は、いなかったのですか、と言った。さっき網の中で聞いたものに似た、丁寧な話し方だった。声そのものは違った。
「今はいません」
稲垣が答えた。
私は彼の口を塞ぎたかった。嘘をつき通してほしかった。
けれど、稲垣は男の目を見ていた。相手の顔に、普通の目があることを確かめているようだった。
「逃げました。どこへ行ったかは知りません」
男はそれを聞くと、困った顔をした。
本当に困った人の顔だった。眉の間が寄り、口が半分開いた。私はそれを見ながら、自分たちは何を釣ったのだろうと思った。
「呼んでみてもらえませんか」
男が言った。
もう一度頼まれる前に、私は嫌ですと答えた。稲垣のほうは見なかった。
「私たちも帰ります」
男はしばらく黙った。水へ入ってこちらへ来るのではないかと私は思ったが、男は裾をつまんだまま、対岸に立っていた。
道具を片づける手順が分からなくなった。伸ばした竿をどこから縮めるのか、いつもなら見ずにできることができなかった。稲垣が竿を受け取り、一本ずつ仕舞った。私はバケツに小物を放り込み、空の網を最後に載せた。
何も入っていないことを、二度確かめた。
先に斜面へ取りついたのは稲垣だった。私は彼の靴底を見ながら上った。後ろの男が何か言っていたが、稲垣は足を止めなかった。
車のところへ着いてから振り返ると、男は網が置いてあった砂地にしゃがんでいた。川を渡ったところは見ていなかった。
こちらを向かず、砂を指で撫でていた。
十時前には車を出した。道へ戻ってから、稲垣は奥さんに電話した。もう帰る、とだけ言った。私には運転を代わろうかと訊いた。
私は首を振った。両手をハンドルから離したくなかった。
しばらく走ったところで、稲垣が、さっき、と言った。
「お前がバケツ取りに行ったとき、あれ、喋った」
私は前を見たまま、うん、と答えた。
「何て」
訊かないでおこうと思っていたのに、訊いてしまった。
稲垣は右の手のひらを擦った。河原の砂が、指の付け根に残っていた。
「持っていってくれなくていいから、少しだけ手を貸してくれって」
道幅の広がったところで、私はゆっくり左へ寄せ、車を止めた。エンジンは切らなかった。
稲垣に、貸したのか、と訊いた。
稲垣は右手を開いた。
指の股が、薄い灰色になっていた。泥がついているだけに見えた。彼が親指で擦ると、薄皮が一枚、ゆっくり持ち上がった。
その裏で、私の知らない人が、息を詰めていた。


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