叔父の作業場には、椅子がなかった。
腰を据えると削りすぎるからだという。石の表面を濡らし、磨き、濡らす。その繰り返しを立ったまま続け、膝が痛くなったところでやめる。客に売る石ではないから、完成を急ぐ理由もない。退職してからの叔父は、それくらいの面倒を、自分で自分に用意していた。
僕が夏のあいだ叔父の家へ転がりこんだのは、就職先が決まらなかったからだ。父のいる家では昼まで寝ていられない。叔父は朝の八時に作業場へ出て、昼に素麺を茹でに戻った。僕が起きていれば二人分、いなければ自分の分だけ茹でた。尋ねられないことが、当時の僕にはありがたかった。
石を見せてもらったのは、雨の日だった。海で拾ったという、拳より少し大きな白い石だった。初めて見たときは、どこかの浴室から剥がしたタイルの塊かと思った。角が丸く、片側に黒い帯が巻いていた。
「ここ、もうちょっと薄くすると中が見える」
叔父は懐中電灯を下から当てた。石の真ん中がぼんやり透け、黒い米粒ほどのものが動いた。
光を外すと見えなくなった。もう一度当てると、米粒は違う場所にいた。叔父は、魚かもしれない、と言った。僕は虫だと思った。石に穴があって中を動き回る虫なら、まだ話が通る。
「水がないじゃん」
僕が言うと、叔父は石を耳へ当てた。それで分かるものかと笑いかけたが、渡された石から、本当に水の音がした。
波打ち際で小石が転がる音だった。耳を離して作業場の外を見ると、家の裏の畑が雨に濡れていた。海はそこから山を二つ越えた向こうにある。僕は叔父のスマートフォンを探した。どこかで音を流しているのだと思った。叔父は分かっていたらしく、両手を広げて見せた。石を持っている間だけ、叔父の手のひらに潮の匂いが残った。
その午後は僕も作業場にいた。電動の道具を使うほどの厚さではないらしく、叔父は濡らした耐水ペーパーを小さな木片に巻き、同じ場所を少しずつ擦った。僕が知った言葉はそこで聞いたものだ。石の種類さえ、叔父は断言しなかった。
「魚の名前を知るほうが早そうだな」
そう言って、透けるところを眼鏡の向こうへ持ち上げた。
石の中に見えるものは、確かに魚の形をしていた。ただ、魚そのものではなく、魚の下にできる影だった。白い砂の上を、細い尾が曲がりながら横切った。背中も鱗もなかった。懐中電灯の向きを変えても、影は同じ方向へ泳いだ。僕の持つ光ではなく、石の中の別の光に照らされているようだった。
叔父は嬉しそうだった。もともと口数の多い人ではないのに、その日は父の小さいころの悪さまで話した。港で、釣りの仕掛けを絡ませて泣いたこと。祖母に魚を焼かせておいて、自分はカレーを食べたこと。父に聞けば怒りそうな話ばかりだった。
僕は石を売る話をした。動画に撮れば、欲しがる人がいる。細工でないと証明できれば、ただのきれいな石よりずっと高くなる。叔父は返事をせず、作業台の下から箱を出した。磨きかけの石が並んでいた。どれも底に日付が書かれ、紙で作った仕切りに収まっていた。
「そこに入れるんだよ」
白い石がちょうど収まる隙間を、指で示した。
翌朝、僕は叔父より早く起きた。昨夜撮った動画は、何度見ても黒い模様が動いていた。自分が発見したわけでもないのに、誰かへ自慢したくて仕方なかった。作業場に行き、窓の光に石を透かした。魚の影が増えていた。三つ、四つ、もう一つ。薄くなった面の端から現れ、同じ場所へ消えた。
もっとよく見えるようにしたくなった。
今なら、その気持ちを説明せずに済ませたい。けれど僕は、叔父が少しずつ磨いている意味を、そのときは本気で分かっていなかった。紙を替え、昨日叔父が擦っていた面を磨いた。白い水が手首を伝い、作業台の床へ落ちた。
ふと窓の外を見ると、雨がやんでいた。畑の畝が、妙に白く見えた。叔父の軽トラックが置いてあるはずの場所で、小さな黒いものが跳ねた。鳥かと思った。もう一度跳ねたとき、それには脚が四本あるように見えた。
叔父が作業場へ入ってきた。
僕の手の石を見るより先に、開けてあった戸を閉めた。閉めてから、しまった、という顔をした。僕は怒られるつもりで立っていた。叔父は僕の顔を見ず、戸の取っ手へ手を戻した。引いても開かなかった。鍵は掛かっていなかった。
戸の下から、白い砂が入り始めた。
窓の外の畑には畝がなかった。平らな白い地面が遠くまで続いていた。さっきの黒い生き物が、地面すれすれを跳ねていた。僕が見ているところへ近づき、止まった。ガラスに、薄い鉗子のようなものが当たった。地面には黒い影があったが、生き物の体は見えなかった。窓が曇り、見えない胴体の形に水滴がついた。
叔父は石を奪わなかった。手を下ろして、と言っただけだった。僕はその場でしゃがみ、床に置こうとした。石を下げると、作業場の床も一緒に傾いた。叔父が作業台の脚につかまった。僕は石を元の高さへ持ち上げた。床が戻った。
それで二人とも、しばらく動けなくなった。
机に置くことはできた。石の向きを変えず、両手を台へ近づけた。底にタオルを挟むと、作業場もぐらつかなくなった。石の中には白い地面が見え、その隅に、小さな緑色の建物があった。作業場の外壁と同じ色だった。窓に黒いものが群がっていた。
叔父は僕の横へ来た。石を覗きこみ、胸のポケットから眼鏡を出した。手が震えて、つるをうまく開けなかった。僕はそこでやっと、自分のしたことが叔父にも分からないのだと知った。
「穴、開けた?」
聞かれて、首を振った。そこまで削っていない。水が漏れたこともなかった。
叔父は僕の右の親指を見た。爪の際が切れて、血が乾いていた。作業している間は気づかなかった傷だった。白い石の透ける面に、同じ赤い筋が一本あった。
外で何かが窓を叩いた。ガラスの表面に、一度にたくさんの小さな口がついた。吸いついているらしく、どれも丸く開いていた。口の奥は石と同じ白さで、舌も歯もなかった。その下を、魚の影がゆっくり通った。魚は窓の下で止まり、鼻先をこちらへ向けた。
叔父は戸の蝶番を外し始めた。道具の場所が分かる人の手つきだった。僕は石を押さえていた。螺子が一本抜けると、石の中の小さな建物でも、扉が少し浮いた。外の白い地面には、出たくなかった。けれど、このまま中にいるのも無理だった。
戸の上から、大きな口が覗いた。魚の影の頭が、窓の高さまで持ち上がっていた。影なのに、壁に沿って平たく伸びるのではなかった。薄い紙を立てたような首で、床に置いた僕の靴を見下ろしていた。叔父は戸を押し戻した。螺子を締めるための穴が、もう見えなかった。
「裏にするなよ」
叔父は石を見て言った。
「この部屋、潰れる」
僕は触っていないと言い返しかけた。手のひらの下の石が、勝手に少しずつ回っていた。外で、何かが作業場を押しているのだと分かった。叔父は箱に入っていた重い石を運び、白い石の周囲に置いた。四方から押さえると、回転は止まった。叔父の持つ磨きかけの石が、初めて役に立ったと思った。そんな言い方をしたら、殴られただろう。
携帯は圏外だった。窓のすぐ外に、家の台所が見えた。さっきまではなかった。流しの上に、叔父が朝食用に出した茶碗が伏せてあった。僕は窓の鍵に手をかけた。叔父が僕の肘をつかんだ。流しの下に、小さな黒い影が並んでいた。魚の形ではなかった。全部、僕の靴の形をしていた。
窓を開けなかった。
僕は石の内側の作業場を見た。窓は四つある。実際には、作業台の上と入口の脇の二つしかない。残りの二つは、叔父が棚で塞いだ壁のところにあった。叔父に言うと、昔はそこも窓だった、と答えた。明るすぎて作業がしづらいので、板を打ったのだという。
板を剥がす間、僕は石を持ち、叔父は棚をずらした。動かすたび、外から口が一つずつ移ってきた。板の向こうで、何かの柔らかい腹が擦れた。叔父はそこで手を止めた。窓があっても、開けた先は同じ場所だった。
僕は透ける面を指でなぞった。作業場の小さな窓の一つだけ、白く曇っていた。磨き残しだった。叔父が途中でやめ、僕も触っていない端だった。
その曇りの向こうに、畑の畝が見えた。
叔父に石を渡し、僕が紙を持った。叔父は磨かなくていいと言った。僕は首を振り、その曇りの端だけを擦った。窓が少し広がった。作業場の板の隙間から、雨に濡れた土の匂いが入ってきた。外の口が、いっせいに音を立てた。砂を噛んだときの音だった。
叔父が板を押し、僕を先に上らせた。窓は肩を斜めにしなければ通れないほど狭かった。片足を外へ出すと、畑の泥に靴が沈んだ。僕は転げ落ち、振り返った。叔父は、石を窓台に置こうとしていた。両手を使わなければ、自分も出られなかったのだと思う。
その瞬間、石が裏を向いた。
作業場が潰れる音はしなかった。窓も消えなかった。僕が腕を伸ばした先に、板張りの壁があるだけだった。さっき叔父が剥がした板が、また同じ螺子で留まっていた。外は雨だった。白い石が、僕の足元の泥に半分埋まっていた。
僕は石を拾い、表へ返した。叔父の手が見えた。こちらへ向けて、何度も開いたり閉じたりした。魚の影がその向こうを通った。叔父は机の上に上がっていた。床は白い砂で埋まり、外から伸びる黒い口が、作業台の脚を舐めていた。
父を呼んだ。警察にも来てもらった。僕の話は、そのままでは受け取ってもらえなかったが、作業場が内側から塞がり、叔父がいないことだけは確かだった。壁を剥がす許可を求められたとき、僕は大声を出した。石の中の叔父が、両腕で頭を庇ったからだ。
父だけには、あとで石を見せた。
父は弟の姿を見ると、僕を殴らず、座りこんだ。ひどく長い間黙っていた。石を耳へ当て、それから、もう少し磨けないか、と聞いた。
今、父と僕は、叔父が使っていた作業台で石を磨いている。叔父のいる建物に窓を作るためだ。一度に削るのは爪の先ほどしかない。目印のつけ方を間違えると、向こうでは天井が剥がれ、床が抜ける。叔父は身振りで、削っていいところを教える。
前に一度、叔父の目の前まで外の畑が見えた。叔父は窓へ走ったが、手を伸ばす前に戻ってしまった。僕には土も草も普通に見えた。なぜ戻ったのか、身振りでは分からなかった。
今日、叔父が作業台の脚へ紐を掛けている。体を縛ってから、また窓へ来るつもりらしい。僕は磨く手を止めた。父が、何をしている、続けろ、と言った。
石の中で、叔父の足元の影だけが、こちらへ向かって這ってきていた。


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