会社を辞めたあとも、私たちは月に一度、同じ喫茶店へ集まった。望月だけはまだ勤めていて、会うたびに新しい社内の噂を持って来た。佐伯は独立し、私は別の会社へ移っていた。三人とも、もう同じことで腹を立てる必要がないのに、前の会社の話をするとよく笑った。
店は駅前のビルの二階にあった。夜は客が少なく、奥の四人席がいつも空いていた。厨房との間に古い木の仕切りがあり、その向こうにも二人席があった。私たちの席からは椅子の背しか見えない。誰か座っていても、ほとんど気にならなかった。
「ここだけの話だけど」
望月が声を落とすと、佐伯はわざと大きく咳をした。それでまた笑った。
異変に気づいたのは、佐伯が結婚するという話をした日だった。相手は同じ仕事をしている人で、私たちには会わせたことがなかった。
「写真くらい見せろよ」
望月が言うと、佐伯は携帯を伏せた。
「まだ、向こうの親に挨拶してないから」
仕切りの向こうで、椅子が少し動いた。続いて、女の笑い声がした。佐伯は口をつぐみ、コーヒーを飲んだ。望月は、隣が気になるなら話題を変えるか、と言った。
私はトイレへ立つ時、二人席を見た。誰もいなかった。カップも置かれていない。店員に席を探していると思われ、奥も空いていますよ、と声をかけられた。
戻って二人に伝えると、佐伯が妙な顔をした。
「女の人、いたよ。俺が来た時」
私と望月は、佐伯より十分ほど早く着いていた。隣に人が入ったのを見ていない。それでも、客がいつの間にか帰った程度のことはある。私は、それ以上言わなかった。
翌月、望月が会社の人事の話をした。上司が異動になり、彼が係をまとめることになったという。めでたい話だった。佐伯がおごると言い出し、いつも頼まないケーキを三つ注文した。
「でもな、あの人の机を使うの、気が重いよ」
望月が言った。
「引き出しにまだ、前の家の写真とか残ってて」
仕切りの向こうで、男が短く息を吐いた。聞き覚えがある気もしたが、誰の声かは分からなかった。
望月はフォークを置いた。
「隣、こっちの話を聞いてない?」
今度は私も、返事をする前に立って見た。空席だった。奥へ通じる扉はあるが、店員に訊くと、古い倉庫で今は開けていないという。
佐伯はケーキを食べ続けていた。
「それ、誰かの咳が響いてるんじゃないの」
店内には私たちしかいなかった。厨房で水を出す音がしていた。
三度目には、私は奥へ座るのをやめようと言った。入口に近い席が空いていた。望月は、どうして、と笑ったが、佐伯は先に奥へ鞄を置いてしまった。
「こっちのほうが話しやすい」
そう言われると、怪しい声がするから嫌だとは言いにくかった。三人で騒ぎ、店の雰囲気を悪くするのも気が引けた。私は佐伯の向かい、仕切りに背を向けて座った。
その日は、佐伯がほとんど話さなかった。結婚はまだ先になった、とだけ言い、こちらが質問するたびに氷を噛んだ。望月が仕事の愚痴を始めた。私のいた頃より仕事量が増え、頼れる人がいないらしかった。
「お前が残ってればな」
望月は私に言った。
私は、まだそんなこと言うのか、と笑った。彼は自分の都合で話している。そう分かっていても、頼りにされていたと思うと気分がよかった。
背中のすぐ後ろで、男が言った。
「やっといなくなったのに」
私は振り向かなかった。望月の顔を見ていた。彼はコップを持ち上げたまま、動かなくなっていた。佐伯が私たちを交互に見た。
「今、何か言った?」
私は首を振った。望月は、隣だよ、と言った。
今度は三人で席を立った。二人席には、黒い上着が掛かっていた。椅子の背へ縦に折り、袖を内側へ入れてある。人はいない。店員を呼ぶと、今日の忘れ物ではないと言った。
望月が上着の肩に触れた。
「これ、俺のに似てる」
彼はその日、明るい色の上着を着ていた。黒いものは会社に置いたままだという。私は触るなと言ったが、言い終わる前に彼は手を引いた。指の先を擦っていた。
「人が入ってるみたいだった」
上着は薄く、膨らんでいなかった。
店員は困って、上着を持ち上げた。下には何もなかった。ポケットを確認せず、厨房へ持っていった。私たちが大げさに怖がっているように見えたのだと思う。
席へ戻ると、佐伯が残りのコーヒーを一息で飲んだ。
「もう行こう」
私は望月に先ほどの声を確かめたかったが、その場で口にすると、本当に彼が言ったことにしてしまう気がした。
会計を待つ間、佐伯が私の横へ来た。
「さっきの、俺には聞こえなかった」
「何が」
「お前ら、男の声を聞いたんだろ。俺には女の声だった」
佐伯はレジにいる望月を見た。
「終わった話を、勝手に持ち出すなって」
誰に言われたのかは訊かなかった。佐伯が携帯を裏返して置く癖を、思い出していた。
店を出ると、望月が私を呼び止めた。
「あの言い方、俺はしない」
私は頷いた。疑っていることが顔に出ていたのだろう。彼は急に早口になり、私が辞めた時にどれだけ困ったかを話し始めた。私は、分かってる、と繰り返した。
最後に彼は、いつまでも前の仕事のやり方を変えるなと言われて参った、と言った。
私が退職後も、彼へ何度か送っていた言葉だった。
次の約束を決めないまま三人は別れた。もうあの店へ行かなければいい。そう思った。それなのに、一週間後、佐伯から連絡が来た。店へ忘れた物があるので、一緒に行ってほしいという。
「一人で行きたくない」
何を忘れたのか訊いても、話してくれなかった。私は望月にも連絡し、結局、いつもの三人で店へ入った。
店員は違う人だった。黒い上着のことを訊くと、忘れ物箱を見たがないという。私たちは入口の席で待たせてもらった。奥の二人席には客がいた。白髪の男が、壁に向かって座っていた。手を耳へ当て、両肘を卓につけていた。
佐伯はその背中を見るなり、私の腕を掴んだ。
「俺、置いたんだ」
「何を」
「前に、あそこで話したことがある。お前たちが来る前に」
相手は知らない人だったという。三人で会う約束をした夜、佐伯だけが早く着いた。二人席の客から、よく三人で来ますね、と話しかけられた。酒も飲んでいないのに、仕事や結婚の話をした。最後に、あいつらには言わないでくれ、と頼んだ。
「相手、誰なの」
「覚えてない。普通の人だった」
佐伯は、聞いてもらうだけで楽になった、と言った。その言葉に、私は少し腹を立てた。私たちには言えない話があることより、私たちに聞かせる姿を彼が先に整えていたことが嫌だった。
奥の男が片手を耳から離した。
小さな声が聞こえた。佐伯は立ち上がった。私には、言葉までは聞こえなかった。望月も立ち、佐伯の前へ回った。
「何を話したって、別にいいだろ」
望月は奥の男へ言った。男は振り向かなかった。両手で耳を押さえ、肩を上げていた。聞きたくないと身を縮める人の姿だった。
私は二人の後から近づいた。男の耳を押さえる手は、椅子の向こうから伸びていた。男自身の腕は卓の上に揃えられていた。指の太さも肌の色も違う何本もの手が、耳と口を塞いでいた。白髪に見えたのは、手の隙間から出た細い紙だった。濡れた紙の端が、呼吸に合わせて動いていた。
佐伯が、もういいから、と言った。
口を押さえる手が、一つだけ離れた。
何と言ったのか、ここには書きたくない。
私たち三人の名前が出た。知らない人の名前も出た。嘘だと声を上げたのは私だった。佐伯も望月も黙っていた。私が二人に黙ってしていたことは、一つだけあった。佐伯の仕事を別の人へ頼んだ理由を、彼の体調のせいにした。本当は納期が遅れるのが嫌だった。望月には、その一部だけを話したことがあった。
「俺が言った」
私は二人に向かって言った。
「俺が、そういう言い方をした」
佐伯は私を見なかった。奥の椅子から、ゆっくり手が離れていった。男が立つところを見たくなくて、私は店員を呼び、店を出た。二人も後から出てきた。店の中は静かだった。駅前の音が戻ると、私は助かったと思ってしまった。
それから、三人では会っていない。佐伯には仕事の件を改めて謝った。返事は短く、怒っているのかどうか分からなかった。望月とは駅で一度会った。会社の話をしかけて、途中でやめた。
あの店は今もある。通りから二階を見上げても、奥の席は見えない。
先月、望月から店の写真が送られてきた。仕事の帰りに一人で入ったのだという。写っていたのは、私たちが使っていた四人席だった。
空いた席は一つだけだった。
ほかの三つには、それぞれ黒い上着が掛かっていた。袖は、椅子のこちら側へ曲がっていた。三人で、誰かの来るのを待っているように。
写真の下に、望月の言葉があった。
「あの時、お前には何が聞こえた?」
私は返事を書きかけ、画面を閉じた。


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