四時前に出たのは、昼までに帰るためだった。
自転車で遠出をするようになって半年ほどのころだ。妻には百キロくらい走ってくると話していたが、実際にはそこまで走れたことがなかった。峠を一つ越えれば海が見える。そこまで行って引き返すつもりだった。
台所で食パンを二枚食べ、残りの一枚を袋に入れた。妻は寝ていた。玄関の鍵を静かに回し、自転車を門の外へ出した。
町を離れるころ、新聞配達のバイクに抜かれた。
少し先の家で止まり、また私を抜いていった。何度目かに、乗っていた人が会釈した。私も頷いた。暗い道を走っていても、働いている人がいるのは心強かった。
山へ入ると、そのバイクもいなくなった。
ライトに照らされる道幅だけを見て走った。上りは急ではなかったが長く、息が弾んだ。休む口実を探すように、左手の谷へ目をやった。
山の裾が明るかった。
木の向こうが橙色に染まっていた。雲の底まで色づき、夜が明け始めているのだと思った。
時計を見ると、まだ四時半になっていなかった。
こんなに早かったかと思ったが、夏の終わりに日の出を気にしたことがなかった。自分の感覚より、目の前の明るさを信じた。
道は谷に沿って、長く右へ曲がっていた。
しばらく上ると、先ほどの橙色が正面に見えた。
それを見て、少し変だと思った。
曲がった道の先に同じ山が見えることはある。けれど、さっきは谷の底に近かった光が、今は峠の肩まで上がっていた。木々が一本ずつ見えるほど明るい。空だけが染まる朝焼けとは違って、あの辺りだけ、もう日が当たっているようだった。
私は路肩へ寄せ、片足をついた。
汗を拭いている間にも、明るい所がこちらへ広がった。
山火事かと思った。
そう考えると色も不自然だった。煙がなくても、下で燃えているのかもしれない。
電話を出した。電波は届いていた。時刻は四時二十六分だった。腕の時計も、ほぼ同じだった。
私は地図を開き、今いる道路の名を調べた。通報するなら、場所を言えなければ話にならない。
その間に風が吹いた。涼しい風だった。焦げた匂いはしなかった。
電話の画面から顔を上げると、向こうの山がよく見えた。
緑色の斜面だった。
木の葉にも草にも、普通の朝の日差しが当たっていた。私がいる道は真っ暗で、ライトの先は白く光っている。その向こうに、明るい山の景色があった。
いっぺんに朝が来たわけではなかった。
明るい所と暗い所の間に、はっきりした境があった。
私は電話をしまい、少しだけ進んだ。
火事ではないなら、そこまで行けば分かると思った。明るい方から何かが迫ってきているというより、自分が夜の側へ取り残されているように感じたのだ。
ペダルを二十回ほど踏んだ。
すると、道路の先に人が見えた。
自転車を押している男だった。
ヘルメットをかぶり、腰を曲げていた。登りに疲れたのかと思った。
私はまだ若かったから、押している人を追い越す時は少し気が楽になった。自分も無理なら降りればいい。
ところが近づいても、男との距離が変わらなかった。
自転車の後輪が、白い線を横切ったまま動かない。男も同じ姿勢だった。
私は急いでペダルを止めた。
男が見えている場所は、道路ではなかった。
道はそこから左へ曲がっていた。ガードレールの向こうは斜面だった。
男と自転車は、その上にいた。
木の幹が体を隠していない。昼の景色と一緒に、私から見える所まで出てきていた。
私は息を止め、ハンドルを握り直した。
男の服には色があった。赤茶色の半袖で、背中に黒い帯が走っていた。
顔は見えなかった。
次の瞬間、自転車の前輪が少し下がった。
男もそれにつられ、片足を踏み出した。
その動きで、私は助けを呼ぼうとした。そこは立てる場所ではない。落ちる、と思った。
男は落ちなかった。
横向きのまま、ゆっくりこちらへ近づいた。
それに合わせて明るい斜面も動いた。木の影まで、同じ向きへ滑っていた。
朝の景色だと思っていたものが、道へせり出してきていた。
私は自転車を降りた。
靴底を地面につけると、ようやく、自分が本当にそこへ立っている感じがした。
その時、男が顔を上げた。
私を見たのではなかった。
もっと高い、私の後ろの方へ目を向けていた。
口が開いた。声は聞こえなかった。
男はハンドルを片手で握り、空いた手を何度も振った。誰かに気づいてもらおうとする振り方だった。
私は振り返った。
暗い山と、さっき上ってきた道路しかなかった。
背後の道路へも、明るい縁が回り込んでいた。
自分の後輪に何かが触れた。
大きな袋を、ゆっくり押し当てられたような重さだった。私は自転車を押して前へ出ようとした。後輪が回らなかった。
足元を見ると、橙色の明かりがタイヤにかかっていた。
それは路面へ落ちた光ではなかった。
タイヤの半ばに、薄いものが引っかかっていた。向こうの景色が、その薄い所に映っていた。
私は自転車を前へ引いた。
ペダルが脛へ当たり、痛かった。ブレーキのレバーを握ったままだと気づいて、指を離した。
それでも後輪は動かなかった。
赤茶色の男が、少し遠くなった。
代わりに、明るい景色の端に、また人が見えた。
今度は座っていた。何に座っているのかは見えなかったが、膝の上に両手を載せ、顔を横へ向けていた。
私は自転車から手を離した。
倒れると思った。
ところが車体は斜めに傾いただけで止まった。後輪を持たれているようだった。
明るいものが、少しずつ前輪へ向かって進んでいた。
道端の草が、橙色の縁に触れた所だけ平らに倒れた。草の先が折れる音がした。
私は山側の側溝へ飛び込んだ。
片足が泥へ埋まった。
手をついた所には角の立った石があった。痛くても動ける方がよかった。
私は溝を這い、道路の下へ水が抜ける丸い穴に入った。立てる高さはなかった。
腰を折って奥へ寄った。
自転車を捨てたことより、ライトを消さずに来たことが気になった。
入口が明るくなった。
昼のような光が、丸い口いっぱいに広がった。
私は膝を抱え、顔を伏せた。
まぶたの裏が赤くなった。夏の昼に、日に当たったまま目を閉じた時と同じだった。
熱はなかった。
水に浸かった靴が冷たく、膝は震えていた。
男の声がした。
言葉になっていなかった。息を吸いながら笑うような、喉の奥でひっかかる声だった。
入口から、少し離れた所にいるらしかった。
私は顔を上げなかった。
そのうち、靴を引きずる音がした。砂利を踏む足音ではなかった。広い板の上を、靴底で擦っているように聞こえた。
音は何度も、穴の前を行き来した。
ここにいると知られたくなかった。
私は息を吸うたび、口へ袖を押し当てた。泥の臭いがした。
地面を何かが打った。
短い音が三度した。
少し間が空き、もう三度した。
私に答えさせようとしているのか、それとも誰か別の人へ知らせているのか、分からなかった。どちらでも、音を出したくなかった。
水の冷たさに耐えられなくなったころ、まぶたの裏が暗くなった。
私はすぐには顔を上げなかった。
靴を擦る音は聞こえなくなっていた。代わりに、虫の声がした。
もう少し待ってから外を見た。
入口の向こうは夜だった。
自分のライトが、道路を横向きに照らしていた。
穴から出ると、自転車は倒れていた。
後輪には何もついていなかった。
赤茶色の男も、座っていた人もいなかった。谷は真っ暗だった。空には星があった。
私は自転車を起こし、すぐには乗らずに押して下りた。
上ってきた時には気づかなかった小さな石が、タイヤの下で一つずつ鳴った。
人家の明かりが見えるまで、私は一度も後ろを見なかった。
新聞配達のバイクが来た。
あの人かどうかは分からなかったが、道の中央へ出て手を振った。相手は止まり、私の泥だらけの服を見て、落ちたんですかと聞いた。
そうです、と答えた。
どこへ落ちたのかを訊かれると、上の道です、としか言えなかった。
近くの家から救急の連絡をしてもらった。
擦り傷と冷えだけで、その日のうちに帰れた。妻には、夜の山道を一人で走るなと叱られた。私も、そういう失敗だったと思おうとした。
自転車は配達の人が預かってくれた。
引き取りに行った時、その人に、上の方にほかの自転車乗りはいなかったかと聞いた。
まだ早い時間でしたからね、と言われた。
私は時計のことを思い出した。
穴から出た時に時刻を見なかった。病院へ着くころには、普通に朝になっていた。
あそこだけ明るかった時間が、何時から何時までだったのか分からない。
後から日の出の時刻を調べても、あの日自分が見たものに名前はつかなかった。
あれ以来、夜明け前に走ったことはない。
それでも、朝日が射す道を見ていると、あの男の背中が浮かぶことがある。
男は逃げようとしていたのかもしれない。私の後ろへ手を振っていたのだから、私を助けようとしていたのかもしれない。
ただ、後輪が動かなくなって私が足掻いていた時、男はもう自転車を押していなかった。
両手を下ろし、こちらへ向き直っていた。
あの明るい所に立ったまま、私が手を離すのを待っていた。


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