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沢村の釣り靴

沢村と釣りに行ったのは、勤め始めた年の五月だった。
私はその年の春、長く付き合っていた恋人と別れた。沢村は、休みの日まで一人でいるなと言った。彼とは大学の授業で知り合い、就職してからも時々会っていたが、旅行をしたことはなかった。
二泊くらいなら宿も安いし、釣れなくても飯を食えばいい。そう言われて、私が車を出すことになった。

宿を取ったのは沢村だった。
山間の川沿いにある古い民宿で、駅からは遠かった。釣りをする客なら、車がないと来られないような所だった。
出発の朝、沢村は私のアパートまで来た。まだ六時だった。ドアを開けると、緑色の上着を着て立っていた。
「早かったな」
そう言うと、待たせるのも悪いから、と笑った。
彼はいつも少し遅れてくる。珍しいこともあると思った。

途中で道を間違えた。
川の上流へ出たいのに、舗装の割れた林道へ入ってしまった。戻ろうとしても、引き返せるだけの道幅がない。沢村は地図を見ていたが、道路が出てこないと言った。
私は腹が立った。
自分で運転を買って出たくせに、曲がる前に見てくれればよかったのに、と言った。
沢村は謝った。それで余計に気まずくなった。

道が少し広がった所で車を止めた。
沢村は外へ出て、煙草を吸ってもいいかと聞いた。私は、好きにすれば、と答えた。
窓を開け、車の中で待っていた。霧が出ていた。
水の流れる音が近いのに、川が見えない。沢村の姿も、車のすぐ後ろにあるはずなのに見えにくかった。
火の小さな赤い点だけが、時々明るくなった。

沢村が戻ってくると、ひどく煙草臭かった。
たった一本で、服までこんなに臭くなるものだろうかと思った。
彼は地図を指し、今度は分かる、と言った。私は何も言わずに車を出した。
少し走ると、普通の二車線の道へ出た。
脇道へ迷い込んだだけにしては、ずいぶん長く走った気がしたが、その時は道へ戻れたことの方が嬉しかった。

宿では沢村の名前を言うと、すぐに通された。
女将さんは小柄な人で、夕食は六時でいいですかと聞いた。沢村が、遅くなっても先に始めてください、と答えた。
私は冗談のつもりで、置いて行く気かよ、と言った。
沢村は笑わず、そんなことしない、と言った。
彼の言い方が妙に真面目だったので、私も笑うのをやめた。

初日は一匹も釣れなかった。
沢村は下流側で竿を出し、時々私を振り返った。私が針を木に引っかけると、竿を置いて手伝いに来てくれた。餌も半分分けてくれた。
これなら文句は言えないな、と私は思っていた。
薄暗くなるまで川にいた。宿へ帰る途中、沢村の靴底が剥がれた。
べろりとつま先が開き、歩くたびに土が入った。

私の車には、仕事で履き替える運動靴が積んであった。
大きめの靴だったが、沢村はそれでいいと言った。
濡れた釣り靴は袋に入れ、荷物の横へ置いた。帰るまで私の靴を履いていればいい。
その晩は風呂に入り、飯を食べたあと、部屋で長く話した。
私は別れた恋人の悪口を言い、言ってから自己嫌悪になった。沢村は横になって聞いていた。
うん、と時々答えるだけだった。

二日目の朝、私は先に食堂へ下りた。
沢村はまだ寝ていた。
女将さんが、昨日のお連れさん、お出かけですか、と聞いた。
寝ていますよと言うと、あら、と首を傾げた。
少し前に玄関で靴を履いている所を見たという。
私は、煙草でしょう、と答えた。
部屋へ戻ると、沢村は布団から足だけ出していた。私が声をかけると目を開け、もう朝なの、と言った。

二日目も釣れなかった。
昼ごろ沢村が川へ入ろうとしたので、私は止めた。貸したのは普通の運動靴で、防水の靴ではない。
沢村は自分の足を見下ろし、そうか、と土手へ戻った。
その午後は、彼と少し離れて釣った。
振り返れば、緑色の上着が見えた。竿を持って、しゃがんでいた。
私はその色を目印にしていた。

宿へ帰ると、沢村が明日の朝は早く出ようと言った。
翌日が連休の最終日だった。渋滞が嫌なのだろうと思った。
私は六時でいいかと聞いた。
「迎えに来た時と同じで」
そう言った時、沢村が初めて変な顔をした。
私が何か取り返しのつかないことを言ったように、口を半分開けた。
すぐに、そうしよう、と答えたので、それ以上は聞かなかった。

帰りは沢村を駅の前で降ろした。
私の靴を履いたままだった。
彼は、洗って返すと言った。私は、急がなくていい、どうせ安いものだから、と答えた。
彼の釣り靴は私の車に残っていた。帰宅してから気づいたが、私の靴と交換すればいいだけだと思った。
その晩、礼の電話をかけた。

沢村は、何の話をしているのか分からないようだった。
最初はふざけていると思った。
私が、靴を預かってるぞ、と言うと、沢村は、靴、と繰り返した。
「お前の釣りの靴。底が剥がれたやつ」
沢村はしばらく黙った。
それから、俺、釣りはしないけど、と言った。

私は腹を立てた。
何がおかしいんだ、二晩泊まってきただろう、と言った。
沢村は、俺は昨日まで実家にいた、と答えた。
妹の結婚が決まり、相手の家族と食事をしたという。そういえば春にそんな話を聞いた気がした。
それでも、三日間一緒にいた相手を間違えるはずはなかった。
私は、今から行く、と言った。

沢村の部屋は私の家から遠くなかった。
玄関へ出てきた彼を見て、私は少し安心した。同じ顔だった。電話だけ違う相手につながっていたのかもしれないと、本気で思った。
ところが袋を開けて見せると、沢村はまた、知らないと言った。
「こんな靴、履いたことない」
私は履いてみろと言った。
沢村は嫌な顔をした。

「なんで俺が、人の濡れた靴を履くんだよ」
その言い方で、私は黙った。
さっき車を降りた沢村なら、私がそこまで困っていたら履いてくれたような気がした。二日目の川で、土手へ素直に戻った時の顔が浮かんだ。
目の前の沢村は、袋へ触ろうともしなかった。
「とにかく、俺じゃないから」
そう言われると、もう頼めなかった。

宿へ電話した。
女将さんは覚えていた。二人で来て、二人で朝食を食べ、二人で帰った。
私が沢村の名前を言うと、その名前で予約を受けたと答えた。
電話の向こうで、私が何を確かめているのか分からず困っているのが伝わった。
忘れ物ですかと訊かれたので、いいえ、と答えた。
部屋に誰か残っていませんか、とは聞けなかった。

沢村とはそれから何度も話した。
彼は実家で撮った写真を見せてくれた。親や妹と同じ席にいた。何も隠そうとはしていなかった。
私が旅の話を細かくしても、知らないことは知らないと言った。
けれど、最後まで話を聞いてくれた。
私がうまく眠れなくなったと言うと、泊まっていこうかと尋ねた。
私は断った。彼にそれ以上、優しくされるのが怖かった。

一か月ほどして、運動靴が返ってきた。
宅配便ではなかった。
仕事から帰ると、アパートの部屋の前に置いてあった。紐をきれいに結び、左右を揃えて、玄関の方を向けてあった。
私は廊下で立ち尽くした。
沢村へ電話すると、今、何も触るなと言った。
彼が来るまで、私は階段の下で待った。二人で部屋の前まで上がった。

沢村は靴を持ち上げた。
私の名前が、内側に小さく書いてあった。確かに私が書いた字だった。
「こっちは預かっとく」
そう言って、沢村は自分の持ってきた袋へ入れた。
私は礼を言った。沢村を部屋へ上げ、お茶を出した。
帰り際、彼が靴を履くのを見ていると、私の部屋の中で、袋が擦れる音がした。

二人とも顔を上げた。
玄関のすぐ内側に置いた、釣り靴の袋だった。
沢村が、何か飼ってるのかと聞いた。
私は首を振った。
沢村はもう一度靴を脱ぎ、部屋へ上がった。私も後ろからついていった。
袋の口は開いていた。靴は二つとも入っていた。
ただ、片方の底が、もう剥がれていなかった。

「さっきの奴かな」
沢村が小さく言った。
私が何を知っているのか訊くと、彼は首を振った。
さっき階段を上ってきた時、下りていく男とすれ違ったのだという。相手は片足を引きずり、妙な歩き方をしていた。
何を履いていたかは見なかった。
「俺も、一緒に上がったよな」
私が言うと、沢村は頷いた。
だが、私はそんな男を見ていない。顔は、と聞くと、沢村は答えなかった。

私は旅で会った沢村のことを、今もよく思い出す。
煙草の匂い、竿を置いてこちらへ来た時の歩き方、私の話を遮らずに聞いてくれたこと。
怖い姿を見た覚えはない。
けれど、私が帰りの時刻を決めた晩、なぜあんな顔をしたのかは、まだ分からない。

沢村は、あの釣り靴を私が捨てるまで待っていてくれた。
帰りに、明日は仕事へ行けよ、と言った。私も、そうする、と答えた。
彼が玄関を出ると、私はすぐに鍵をかけた。
廊下から、もう一度だけ、戸を叩かれた。
「お前、俺を迎えに来たんだっけ」
沢村の声だった。
私は鍵へ手を掛けたが、そのまま止めた。

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